今日の映画鑑賞は『復讐するは我にあり』。
うーん、何とも後味の悪い映画だった。
榎津巌(←演ずるのは緒形拳)は、巧妙な詐欺と、残虐な殺人を繰り返す。
この「殺人の動機」が、いまいちはっきりしないのだ。
被害者は5人の老若男女。
相手は顔見知りあり、行きずりあり、情人あり…
しかしいずれも、「とことん金に困って」でもなく、「憎悪」でもない。
かといって、「何となく」でも「殺してみたかったから」でもない。
唯一、「これが原因か」と想像できるのは、少年時代、敬虔なクリスチャンである父が、権力に屈し棄教したかのような言動をとるのを見てしまったことだ。
これも、息子・巌の命を守るためだったのだが、彼には父が「意気地なしの偽善者」と映った。
もう、なにも信じられない。
しょせん、世間は薄汚い。
だから、連続殺人、なのか…
そんな短絡的で身勝手な…とも思うが一方で、榎津の抱える闇もわからぬでもない。
というよりむしろ、「見ないようにしているだけで、誰でも持っている闇」、そんな気がした。
この映画、榎津だけでなく、すべての登場人物が一癖も二癖もある。
父(三國連太郎)と榎津の妻(倍賞美津子)は一線ギリギリだし、情人・ハル(小川真由美)は実業家の男(北村和夫)のお妾さんだし、殺人の前科を持つハルの母(清川虹子)は娘が「からだで稼いでいる」お金を競艇につぎ込んでいるし…みな何かしらまともじゃない。
つまり、榎津と大差ない、と思えてしまう。
実は榎津自身もクリスチャン。
妻も結婚後、洗礼を受けている。
その視点から見れば、「信仰とはいったい何なの?」という問題も見えてくる。
原作は佐木隆三。
この作品、直木賞を受賞している。
1979年の松竹映画。
実力派男優・女優が凄まじい執念で入り乱れている。
えぐられた闇の先にはさらに闇
鞠子