「道徳が教科になる」ことに、教師をしているトモがため息をついていた。
成績をつけなくてはならないからだ。
道徳に成績をつける。
私もなんか、違和感ある。
この違和感、ますます増大する新聞記事を見た。
県道徳教育振興会議副会長という肩書きの人が、市立M中学で行なわれた道徳教育の公表会を参観して書いたもの。
具体的な箇所だと、例えばこんなところ。
〇「授業の前に、生徒たちが合唱で迎えてくれた。大きく口を動かしていい表情で曲想を感じ取り、体中で表現している生徒がいた」
…私、この視点、もうだめ。
曲目が何だったのか知らないが、こんなふうに歌うなんてうそくさい。
〇「清掃活動では、隅々まで黙って力強く床を磨く生徒の姿が見事だった」
…ますます、だめ。
掃除時間中は、おしゃべりしながら、「楽しくやるべきことをやればいい」じゃないの。
中学生が黙々と雑巾がけ…「強制労働」を想像してしまう。
他にも「道徳的実践力が育ちつつある」「人としての生き方を考えあう」「地域への愛着と誇り」など、耳障りのいい言葉をならべ、「すてき」だの「ほのぼのとした」だの「心地よい」だのと、M中学の道徳教育をほめたたえている。
…うんざりした。
まるで、「軍隊」とか「刑務所」とか「水爆実験だかミサイルだか言っているあの国」みたいなものを感じてしまう。
最近、漱石の『坊ちゃん』を読んだばかりなので、そこに出てくる中学校とのギャップにガク然とするばかりだ。
ここの中学生たちは先生に対して、派手ないたずらをする。先生も本気で対峙する。しかしその根底には、「人」対「人」の真剣なかかわり合いがある。安心して見ていられる人間関係が前提になっている。
だから陰湿さも力での押さえつけも感じられない。
小説だからつくりもの、そもそも時代が違う…なんて言い訳してても始まらない。
道徳って、「大人に都合のいい思考の子どもに育てる教育」なのか?
道徳という教科は、「大人にとって都合のいい意見を言う子に優をつける」のか?
…違うと思う。
極めつけ、副会長殿は、記事の最後を、M中学に対し、あるいはM中学の校長に対し、「ありがとうございました」と書いてしめくくっていた。
一般紙だよ。
読者は「不特定多数の一般市民」でしょう。
うちのH教授なら「誰に向かって書いているのか」と皮肉を言いそうだ。(←…と私は言われたことがある)
…こういう人が、うちの県の道徳教育を推進していく、なんて…
にぎやかにモップ雑巾かけまわる    鞠子