古文は必要かと言う問いがあります。
自分は必要だという立場を取ります。(自分は理解していないが)
なぜ必要かと言うと、歴史改ざんを抑止するため。
基本一級史料や二級史料を扱えるのは学芸員だと思います。
古文を勉強しないと学芸員になれないと思います。勉強しないと意味無いです。
でも古文に触れてる人が少ないと、学芸員が少数になっていくと思います。
そこで、証拠史料の誤読や曲解を防ぐため、古文が読める人が多い方が良いです。
ま、古文を日常的に勉強してない人が大多数だから、学芸員に権威づけされるのですけど。
漢文だけど、魏志倭人伝で本当にこの現代語訳合ってるかって確認したことあります。
漢文もそれほど理解してないけど、邪馬台国への行程の文は現代語訳だけでなく、漢文も自分でできる限り訳すようにしてました。
古文も同じ事が言えます。
歴史書を自説の補強のために曲解して、歴史修正する者が現れてもおかしくありません。
でも他の人がまったく違うと解釈していれば無視されます。
これは、素人がこんな説だと言っても、突拍子も無ければ無視されます。
古文が読めることはその説を立証するための手段になります。
何も証拠を示さず自説が正しいと言っても無視されます。(自分がいくら説を唱えても古文書を読んでいないから価値もない。)
でもこれが正常だと思います。
NHKスペシャルで邪馬台国は畿内だと言っても、魏志倭人伝(魏志東夷伝倭条)のどの行からそう言ってるのか示していません。
考古学で立証できるのかも自分は分からないけど・・・
それでも、NHKスペシャルの邪馬台国畿内説は信じていません。
古代は謎が多いけどその説の多くを信じてません。
なぜなら誰も、卑しいとか邪とかあまりよろしくない当て字をされた理由を示さないから。
だから古代にあまり興味無いです。
平安時代は古文の時代だから、同じ事が言えるかも。
みんながその通りだと立証されたものが通説となる。
古文書の説が立証されるのも、古文を読める人たちの民主主義かなと思います。
ただ参加者が少なければ弱小文化として世間から無視されるけど・・・
だから、古文は無駄って言って欲しく無いのかも。
実際古文は外国語みたいなものだから、外国語勉強した方が有用だと思うから。
でもそれだと日本の歴史はだんだん滅茶苦茶になって説得力失って、発信力失うことになります。
それを防ぐ意味もあるのかなと思います。