英雄たちの選択「秀次事件」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

英雄たちの選択「秀次事件」を見ました。

 

結果的に謎が2つ残りました。

それは自分にはどうにも解釈できないので、専門家の検証を待ちたいと思います。

 

その謎1つ目。

「関白・秀次の死」

 

経緯は1591年、秀吉の弟・豊臣秀長、秀吉の第一子・鶴松を立て続けに亡くす。

 

1591年12月秀吉は関白を甥の豊臣秀次に継承する。

これはこれで異例だった。

関白職は五摂関家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)の持ち回りだったが、秀吉の豊臣が加わって六摂関家になった。しかも秀次に関白職を譲ったので、五摂関家に関白職は戻って来ないのではと公家の間で話題となった。

 

1593年3月秀吉肥前名護屋城入り。4月唐入り(文禄の役)の始まり。

1593年8月豊臣秀頼誕生。

1595年6月頃秀次に謀反の疑い。

1595年7月15日豊臣秀次自害。

 

秀次がなぜ謀反を起こしたのかが謎。

謀反は起こしてないが、関白職のまま自害したことが秀吉に対する大いなる反抗の証。

武家関白を相続して豊臣家安泰を狙った秀吉だが、秀頼6歳で関白になる資格が無い内に自害して途絶えさせた。

六摂関家なので秀頼に関白職が巡ってくるか分からない状態になった。

しかも秀吉自身の権威も危うい。

太閤という肩書き自体なにも権威はないが、秀次が関白をしていたため、関白の伯父として朝廷の権威を得ていた。

自らの死によって、秀次は秀吉に謀反を起こした。

 

では、なぜ自害してまで秀吉に反抗したのか?その根源は?

が謎である。

 

秀頼が産まれても、秀頼が成人になるまで関白職は安泰。

天皇の医者を自分の医者にしただけでは薄い。

豊臣家の根幹に関わることだから、それで死に至らしめるようなマネはしないと思う。

秀吉と秀次の決定的な対立は何か?

 

自分の予測では、学問や文芸に秀でた豊臣秀次が関白職を五摂関家に返上した方が良いと進言したのでは?

征夷大将軍とか・・・

朝廷をも支配するのは畏れ多いと感じたのでは?と。

始めは朝鮮出兵の反対の立場を取っていたと思ってたが、その間秀吉たちは不在で京や国内は平和だったのかなって思った。

ここらへんはまるで謎ですけど・・・

 

 

二つ目の謎

「秀吉が秀次の一族ことごとく斬首」

 

秀次の側室には最上義光の娘・駒姫もいた。

10代の大名や公家の娘をも斬首したのは、やりすぎと言うか、秀吉に対する猜疑心を生む。

そこまでして秀吉はなぜ苛烈な処置をしたのか?

結果、秀吉から人心は離れ、秀吉に近い石田三成よりも、元々秀吉のライバルの徳川家康に多く大名がつき、毛利までもが関ヶ原では己の欲求のために動いていた。

こうなることは分かっていたはずなのに秀吉は苛烈になった。

なぜだ??

 

自分の予測では、、、

もう権威が無くなってきて、大名の求心力が低下してるので、恐怖政治に走ったと思われる。

まあ、恐怖政治はすぐ失脚するのがオチだから、それ以外の理由はあると思う。

聚楽第も破却しているので、証人を残したく無かったのかなあって。

なんの証人か知らないけど・・・

 

 

結局秀次事件で豊臣政権がガタガタ崩れ始めたのだから、一つ目の謎、対立理由を知りたい所・・・