「どうする家康」第47話「乱世の亡霊」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

「どうする家康」第47話「乱世の亡霊」を見ました。

 

冬の陣の和睦条件で、まず外堀・内堀を埋め、二の丸・三の丸・真田丸の破却。

豊臣主導か徳川主導かでもめたが、最終的に埋めてしまえば良いと。

で、豊臣方の牢人が京に火を放つ事件が起こる。

徳川幕府はそれは捨ておけん。

徳川が出した条件は豊臣秀頼を大和(奈良県)か伊勢(三重県)あたりに移封か牢人を召し放つか。

飲まなければ、攻め滅ぼす。

その最後通牒に淀殿こと茶々の妹・初と今は秀忠の妻で千姫の母の江が大坂に赴いた。

 

茶々の幼少の頃の憧れは家康らしい。

母・市の憧れの人だから、茶々もそうなったらしい。

だが羽柴秀吉が柴田勝家の北ノ庄城を攻めた時、市は家康の助けを待っていた。

茶々も待っていた。

が、来なかった。

それが憧れから憎しみに変わった瞬間。

家康はそれを初から聞く。そして手紙を書く。

茶々はその手紙を受け取る。

 

茶々は秀頼に全部決めさせることに。

秀頼の選択は、徹底抗戦。

秀頼は茶々に育てられたから、物心ついた時から憎き徳川だった。

牢人を鼓舞し徹底抗戦が決まった。

 

 

【感想】

お市と家康の関係性は不明。

お市の生まれは1547年。家康が織田家に人質に来たのも1547年~1549年。

1562年清須同盟、1567年お市の輿入れがあったが、その間にただならぬ縁を持ったか?

その時、瀬名とも結婚していて信康もすでにいる。

お市は金ケ崎の退き口から小谷城落城までも浅井長政と仲が良い。

結局フィクションで茶々と家康は敵対関係になった。

 

大坂の夏の陣のきっかけは知らなかった。

牢人衆の暴虐と大野治房が大和郡山城奪還してるのを見ると、やはり豊臣秀頼は好戦的だったのか。

豊臣は徳川に臣従するくらいなら滅亡を選択したんだね。

家康が移封を持ち出しても、聞く耳持たなかったから。

徳川幕府の秩序のため、臣従しないなら改易(武力排除となったが・・・)という流れは当然に思う。

関白にならないように家康は朝廷工作もしているから、そこでも外堀を埋めている。

秀頼は我慢ならなかっただろうと言うのは想像つく。