「どうする家康」第34話「豊臣の花嫁」を見ました。
1586年天正地震が起き、関西はかなり大きな被害を受けた。
ここで豊臣秀吉は家康討伐を中止する。
そして朝日姫を家康の正室にして上洛を促す。
上洛=臣従の儀だから、家康はためらう。
ドラマのような瀬名と信康の思いを巡らせたかは定かでない。
だが、秀吉はこの頃、紀州の雑賀衆を傘下に置き、さらに毛利を傘下に置き四国平定し、越中の佐々成政も降伏している。
戦力差は歴然。
なぜ主戦論の家康は上洛を決意したかも謎である。
臣従の儀は屈辱的である。
秀吉は関白だから、叙任権もあっただろう。
家康は大名の中で一番高い官位を引き出すことも考えたかもしれない。
秀吉は家康より年上で子もない。
養子秀次も長久手で破ったように、戦の才は薄い。
待ったのだろうか?
それとも天下を平定するスピードが格段に速い秀吉。
大名同士の争いを禁ずる惣無事令が要因と考えられるが、秀吉の天下統一を支持し、純粋にその懐刀になろうとしたのか?
徳川が生き残るには臣従しかなかったと思われる。
石川数正はそのことを十分に分かっていた。
家康や家臣団はそのことを感じていたと思うが、猿に臣従なら戦で散ることを選んだかもしれない。
それで、ここまで徳川が奇跡的に生かされた宿命みたいなものを思い浮かべたかもしれない。
桶狭間の戦い、三河一向一揆(撃たれるも致命傷でない)、三方ヶ原の戦い(完全敗北だが信玄死去)、長篠の戦い(織田の大援軍到着)、伊賀越え(落ち武者狩り)、天正地震(秀吉攻撃中止)、どこで滅亡してもおかしく無かった。
もしかしたら生きる使命感みたいのを感じたかもしれない。
これは戯れ言だが。