英雄たちの選択「阿部正弘とマシュー・ペリー」を見ました。
ざっくりと老中首座・阿部正弘はペリー艦隊が来ることを知っていた。
それはオランダから情報を得ている。
だからペリー艦隊の旗艦・サスケハナ号の軍事力も知っていたと思われる。
避戦の思い。
対するペリーは東廻り航路であり(パナマ運河が無い時代)、まだ西海岸は未開に近い。
フィルモア大統領は中国で交易したいが、中継地点が中継基地が欲しい。
だから国書をペリーに託して通商をしたかった。
その際、フィルモアはペリーに「発砲禁止」を命じている。
そして補給も無いので20日間しか滞在できない。
脅しの構え。
で、江戸湾に堂々侵入してきたペリー艦隊は圧をかけ、阿部正弘も戦う意思は無いので、平和的条約であることで、1854年日米和親条約を締結した。
ここから考察。
イギリスはアヘン戦争で中国と不平等条約を結んだが、イギリス国内も産業革命以降、急激な変化を強いられていた。
国内の小麦農家を守る穀物法とかでももめてたし、反乱もあった。
そして1853年には英仏とロシアがクリミア戦争でドンパチやってた。
だから日英和親条約や日露和親条約など平和的に結べた。
これがラッキーな開国きっかけとなった。
日本国内では尊皇攘夷の嵐だが・・・
結局日米だけでなく日英、日仏、日露、日蘭の修好通商条約も結ぶことになり、攘夷の孝明天皇ご立腹で、攘夷派と開国派の対立から、薩長が外国と戦ってからみんな開国派だが、新しい世を徳川いるかいらないかで争うことに。
そのとき外国は武器を売って儲けたから植民地にするよりおいしかったのか?
単純に1857年に経済恐慌がヨーロッパに伝播したからなのか?
アメリカも1861年南北戦争始めてる。
欧米列強はとにかくカネが欲しいので、カネのかかる植民地(統治)より商売だったかも。
ラッキーなときに近代化の礎ができたのかも。