英雄たちの選択「北条義時」 | テキトーに何か言ってるブログ

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甘っちょろい戯言です^^

英雄たちの選択「北条義時」を見ました。

 

この時代、、、よく分からん・・・

 

始め義時は長男では無いため、江間四郎義時と名乗っていたみたい。

頼朝に忠義が厚いと重く取り立てられ、頼朝の親衛隊に入ったみたい。

 

1199年頼朝死去で2代目鎌倉殿に頼家がなる。

このとき、18歳頼家は御家人の領地を再分配し、御家人同士の内紛を助長した暗君っぽい。

 

北条時政が暴れん坊の謀略家で、ライバルの宿老や、頼家までも排除していった。

裏切りや出し抜きの文化であった・・・

 

北条時政が実朝までも手にかけようとしたので、北条政子と義時は時政と対峙し追放した。

義時が実朝の後ろ盾になって、合議制で政務を取り仕切った。

 

実朝は和歌によって後鳥羽上皇と仲良かったが、跡継ぎがいない。

4代将軍をどうするかで、北条政子は後鳥羽上皇の親王を向かい入れたかった。

後鳥羽上皇も東国支配するチャンスと見て、承諾。

 

しかし1217年実朝は頼家の子公暁に暗殺されてしまう。

これに後鳥羽上皇は鎌倉に親王を送ることを拒否。

さらに、踏み絵代わりに摂津の荘園の地頭の解任要求をした。

 

これに北条政子は解任する理由が無いと、後鳥羽上皇の命令を拒否。

後鳥羽上皇は怒り、東国をまとめてる北条義時を倒して、幕府打倒の綸旨を出そうとする。

しかし、三浦義村によって綸旨の内容が義時に伝わり、上皇の密使をすべて回収することに成功。

 

そして大江広元の助言で、すぐに京に攻め上る。

攻め上ってる最中、援軍が加わり19万騎にもなった。

後鳥羽上皇は敗北し、隠岐に流された。

 

・頼家の時代が分からん。

・実朝暗殺に謎が多い。

・東国御家人は朝廷に刃向かうことに躊躇は無かったのか?

 

など、分からんことだらけで紐解く謎解きが多いなあって感じた。

結構、むずい!