NHKBSプレミアム「決戦!大坂の陣」を見ました。
どうも堤防を切って水浸しにしたのは本当のような気がします。
枚方で堤を切って大坂城の北と東を水浸しもしくは湿地帯のようにした。
歩きにくい、鉄砲使えない状態にした。
自分がそう思ったのは、大坂城の東側にたくさんの池や水路があるから。
水は高い所から低い所へ流れる。
徳川が毛利輝元に堤防を築かせたはちょっと違うと思って、まず堤防を修復して、水が溜まった平野部は深い池を掘ったりそこに水を流す水路を掘ったりして、水の逃げ場を無数に作ったのでは無いかと思います。
淀川は旧淀川もあり、家康得意の分流もやってのけたのではないかと。
この池や水路がこの時代にできたのか分からないので、確かでは無いですが・・・
(豊臣滅亡後に大規模な都市開発をしたとも思う。)
東と北に陣を張れないので秀頼は、南に城に近いものを建てて真田丸にしたかもしれません。
本丸、二の丸、真田丸みたいな。
秀吉が遺した城はそこまで設計してあったように思えます。
真田丸が城なら攻城戦になるので、徳川も手こずる。
大筒を撃って和睦となったと思うが、大筒を撃った場所は城の北の北詰という地名の所なのではと思いました。
秀頼はたまらず和睦を申し込むと思うが、徳川優位での和睦だと思います。
戦争を終わらすその条件に、牢人を解散させて、武装解除せよと出たかもしれません。
それで内堀外堀埋めたけど、牢人は行くところが無いから居座って、狼藉を働く。
秀頼は戦いたくなかったけど、牢人をちゃんと戦いの場へ送り出す必要があった。
秀頼は出家して蟄居しても良いとも思ってたかもしれないが、自分が雇った牢人と心中することになったと思う。
牢人も秀頼が自分たちを厄介者と思ってるのを察知して、帰る場所はもう無いと野戦で華々しく散っていく道を突き進んだと思う。
真田は背水の陣で敵陣突っ込んだので、士気の低い徳川勢を蹴散らしていったのは本当っぽい。
徳川は局地戦で勝利していき、こちらに犠牲者が出たから、異分子になりかねない秀頼に潔くを命じたかもしれない。
秀吉の遺した大坂城は本当に強かったと思う。
だが、西洋の最新式兵器に屈するとは予想できなかったかもしれない。
(※自分の想像が結構入ってるので注意)