英雄たちの選択「手取川の戦い」 | テキトーに何か言ってるブログ

テキトーに何か言ってるブログ

甘っちょろい戯言です^^

英雄たちの選択「手取川の戦い」編を見ました。

 

上杉謙信と織田信長の因縁でした。

始めは上杉謙信は関東管領、織田信長は尾張一国と言う関係。

信長は後に足利義昭を京都に奉する、いわゆる将軍家の配下である立場だった。

よって、室町幕府の権威でもある関東管領の上杉謙信に対しても、上下関係ははっきりしていた。

 

1573年尾張・美濃・近江に畿内も支配下に置いた織田信長と関東管領の上杉謙信の双方にとって大きなトピックスが舞い込んで来た。

武田信玄の死。

 

そこで、謙信は信長に協力して武田攻略しないかと持ちかけて、信長は西側を攻略、謙信は北側を攻略に成功した。

しかし、謙信は信長は非礼だとし、次に信長出兵時に謙信は越中を攻略しに行った。

謙信は信長に対して関東管領だから敬うのが当然と思っていたが、どうも信長はそうは思わなくなった。

 

1575年信長は加賀の一向一揆を鎮めた。

その時の犠牲者は3万4万とも言われてる。

そして、謙信にとって聴きたくない出来事が・・・

 

織田信長が右近衛大将に任じられる。

これは足利将軍より上の位で、武家のトップの官位である。

上下逆転。

 

室町幕府は実質崩壊し、謙信も関東管領だっただけに、室町幕府再興を目指してもおかしくない。

そして、謙信は加賀を平定し、能登攻めに移る。

 

1577年畠山氏の堅牢な七尾城攻略のために、周りの支城と港を押さえ、いよいよ七尾城攻略となった。

そして、織田信長は上杉討伐に4万8千の兵を能登に向けた。

 

8月松永久秀が反旗を翻し、織田信長は畿内へ戻る。

柴田勝家が総大将となり、能登に進軍。

羽柴秀吉も勝家といさかいがあり、居城へ帰る。

 

9月18日柴田勝家が手取川付近に陣取る。

謙信は謀略によりすでに七尾城を落としていた。

 

9月23日柴田勝家が謙信の七尾城攻略の知らせを聞き、退却を始める。

その時謙信はすでに手取川付近に2万の兵を進軍させていて、一気に叩いた。

この戦いは信長公記には記録されておらず、上杉方の史料に記されている。

 

ここで自分の考察。

 

自分は七尾城を攻略したなら籠城だと思った。

それは敵を引き込んで、ゲリラ戦を展開し、堅牢ゆえ相手が退却したら、一気に殲滅戦と言う流れ。

でも、謙信は手取川付近まで出兵してた。

勝家軍が退却するのを読み切っていたからかな。

 

もうひとつ重要な情報が・・・

旧暦の9月は現代の11月らしい。

雪の季節がもうすぐ到来。

柴田勝家が長く包囲戦をやるには、雪によって補給が成り立たない。

退却せざるを得ない。

柴田勝家は謙信が七尾城を落とす前に叩くしかなかった。

 

だが謙信も誤算であった。

手取川付近に陣取ってるのは、織田信長だと思ってた。

だから、リスクを負ってまで兵数に差があるが野戦を選んだ。

大将の首が取れなければ意味が無かった。

それほどこの戦いに懸けていた。

 

なぜなら、畿内一帯を手にしてる信長に、経済力で物凄く劣り、ゆえに兵の動員力に決定的な差があるから。

 

手の内を一度見せたので、信長みずから北陸に行く事はなく、柴田勝家を北陸方面軍大将にして、大量の兵を次々送り込んだ。

 

秀吉ももしかしたら晩秋の北陸は危険と読み切っていたのかも・・・(勝家は??)

 

謙信にとっては大勝負だったかもしれないが、1578年に死去し、信長と相まみえる機会は無かった・・・

 

これきっかけで、方面軍が出来たのかな??

畿内に信長がいるから、これきっかけで畿内で謀反が多くなったのかな?

荒木村重とか。

 

だから明智光秀は、信長が本能寺で無防備だったため、よほど信用されてたとも言える。

むしろ光秀の大軍がいるから大丈夫だと思ってたかもしれない。