ファイトクラブ(原題名:Fight Club '99年12月ナビオTOHOプレックス) | Que amor con amor se paga

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『ソーシャル・ネットワーク』が全国で公開中なので、そりゃこの映画みとくべきでしょ。
公開された当時はこういう映画の作りはなかったので衝撃的でした。
あらすじいってみる


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最後まで見てた人は主人公の一人称で語られる『理由』は判ると思う

仕事が事故車のリコールという平々凡々なことに『僕(エドワード・ノートン)』は嫌気がさしていた。物質的に『僕』は何もかもに満たされている。管理人つきの高級マンション、イケアの家具、しかし精神的満足は得られない

『僕』は精神的に心の安息を得ようと『自助グループ』に通い始める。そこに『僕』と別世界でありながら精神的に満たされないマーラ(ヘレナ・ボナム・カータ)に出会う。ヤツは癌に例えると『腫瘍の様な女』だ。
コイランドリーの服を盗んで古着屋に売り、老人給食サービスの食べ物を盗んで食いつないでいる

『僕』はそんな時にタイラー(ブラット・ピット)に出逢った
自信満々で筋骨隆々,勢力絶倫で人望もある『僕』が持ってないものを持っていた
バーの地下で週末殴り合いをする『ファイトクラブ』をしているという
そこは奇妙な空間だった

やがてタイラーは『ファイトクラブ』だけでなく『メナヘム計画』という外への破壊へと向かっていく。『僕』はそれをとめようとするのだが・・・

以下ネタバレです

出てくる人間は『主人公の分身』つまり主人公は解離性及び演技性人格障害であるのが判ります

解離している人格を纏めていく過程を描いたのがこの映画です。心療内科に通ってる人がこれを見ると解釈を間違うこともありますので、一種の『荒療治映画』でもあります。

マーラは主人公の『嫌いな部分』タイラーは『理想の自分』なワケです
主人公があまりにも自分を『表面的に過小評価』して正しい自己評価をしなかったためにタイラーが極端な形で具現化してきた

この『ファイトクラブ』殴り合いってワケじゃぁない。
『自分自身への怒りのために自分を殴る場所』なのだ。だから予告編でブラピが言う
『You can Not Talking About Fight Club』

タイラーの行き過ぎた行動の腹をたてた『僕』がエンジェルフェイス(ジャレット・レト)をボッコボコにするシーンがある。
殴るときのノートンの顔は無表情かつ冷酷だ、これに対し、周りはだれも褒め称えない。タイラーは最後に『気がすんだか、サイコボーイ』と冷徹に言い放つ。
赦せない『自分自身』の怒りを『他者』に向ける姿は醜いだろう。映画の中では『自分自身を受け入れられない主人公』の姿がありありと出ている。

自分自身を攻撃している間は他人様に迷惑はかからないだろうが、これがいつ何時『他者』に向かうかわからない、それがタイラーの『メナヘム計画』だった。
それをとめようとする主人公は自分自身を受け入れ戦うことに葛藤する
そして映画の最初と最後がつながる。

最後に主人公はマーラに『オレを信じろ、きっとうまくいく』といってたのも自分への励ましだ。
最後に主人公は幸せになれただろうか?解離していた三つの人格『僕』『マーラ』『タイラー』が合わさって『自分』になった時、彼は自分を受け入れられず選んだ道は『他人を巻き添えにした死』だったのではないだろうか?

監督のデヴィット・フィンチャーは『大人になりきれていない人間が本当に大人になるための映画、そのためには己をしること』という意味でこの映画を作ったらしい。

肝心の心療内科に通ってるような解離性、演技性人格障害者にしてみればこの映画はかなりの荒療治になるのだが。