ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館 -31ページ目

ちょいと、戯れ言横丁・テーマトーク館

春原圭による、よろず文章読み物ブログです。読んでくれた皆様との忌憚ない意見交換を重視したいと考えておりますのでよろしく。









 「勉強って面白いですか?」と小中学校の教室に行って、クラスの児童に訊いてみたとしよう。「やだ~、勉強は嫌い」「やりたくな~い」って答える子供もたくさんいるだろうけど、しかし決して少なくはない一定数「うん、楽しいよ」「勉強大好き」と答える子供がいるはずである──勉強って楽しいものなの? 楽しくないものなの? どっち? 単なる子供によっての好き好きの違いの問題なのかな?
 まずそもそも『勉強』という言葉、読んで字の通り「強いて勉める」である──勉める(=努力する)ことを強いる(=意に背いて行わせる)わけだから、それは決して楽しいものであるはずはない。当然だ、本音を言えばやりたくないことで、なおかつそれを行うのには努力を要する、決して楽ではないことなのである。楽しいはずがないではないか──もしかしてマゾ?
 「勉強は面白い」だの「楽しく勉強しよう」だの、そもそも言葉の定義としておかしいのである。なのにそれを、プロの教育界の人たちが平気で口にしてるというのは一体何なのだろう? 肉体的にも精神的にも楽でもなければ面白くもないことを無理してやることを『勉強』と呼ぶのであって、同じその行為でも、それをやることが楽しくなった時点でそれは『勉強』と呼ぶべきものではないのだ。
 本来上述の意味である『勉強』という言葉が『学習』という意味で使われることが一般的になったのはいつの時代からだろう? 『勉強』と『学習』は本来イコールではないはずなのだが、学問だったり技術の習得だったりを"強いて勉める"場合、それはまさに『勉強』である。現代的にはこの『勉強』という言葉が「学問や技術の習得に強いて勉める」ことに限定されて使われる場合が多くなり、結果として『勉強』イコール『学習』と同義語になってしまってるのである──
 『勉強』と『学習』が本来別であることは、お店屋さんでの商品の値引きのことを『勉強』ということからもおわかりだろう。「これ以上負けると儲けにならないところをお客さんのために「強いて勉めて」安くしました、という意味である──ここには学校とかで教科や技術を学習するという意味合いは全く含んでいない。まさに「強いて勉める」しかないわけだ。しかし、こういう使い方は現在の日本語の中では例外的で、むしろ浮いてる感がある。やはり一般的に『勉強』といえば『学習』になってしまうだろう…。
 『学習』=新しい知識や技術を学んで習得することは、その道に興味がある人にとっては確かに楽しい。子供にとっては見るもの学ぶものの多くが新鮮な発見であるから、『学習』=『勉強』が楽しく感じられる場面は多々あることだろう──ただ本来の語義から言って、それを『勉強』と呼ぶべきなのかな? なんて疑問も『勉強』で得た知識から生じてるんですけどねw

 









 こちらの記事で「僕は大津駅を通過したことはあるけど降り立ったことはない」と書いた。この記事からさらに10年。現在も大津駅に降り立つ機会には出逢っていない。その県に行ったことはあるけど県庁所在地駅に降り立ったことがないのは大津駅の他には山口と佐賀、熊本駅だけである。このうち熊本駅はそこから改札を通って列車に乗ったことならある。佐賀駅は佐賀市自体に行ったことがない、山口市は市内を新幹線や高速道で通過したことはあるけど市内の土を踏んだことはなく、もちろん山口駅というかJR山口線自体に乗ったことがない。では滋賀県大津市はどうか──実は大津駅では降りたことがないけれど、大津市内にある駅で降りて改札抜けて駅前に出たこと、つまり大津市内の改札の外の土を踏んだことならあるのだ──その駅がJR湖西線の堅田駅である。
 東海道本線で大阪方面からの中距離電車で湖西線に乗り入れて堅田止まりの電車が多いことは時刻表その他を見て知ってはいた。なので、大津市の中心ではないけれどそれなりに市街地が開けてるエリアなんだろうな、という印象は以前から持っていた。なので「ちょっと降りて散策してみようか」という気になったわけである。前夜に京都で一泊した僕は、その日は湖西線経由で福井方面を目指そうとしてた。その道中、堅田駅に降り立ったわけである──
 湖西線の大部分の駅がそうであるように、堅田駅もご多分にもれず高架駅。高架及び駅舎そのものの作りも標準的な高架駅のもののように感じられたが、しかしそこは一応主要駅の位置づけ、駅前の歩道にあしらわれたデザインにそれ相応の力の入れようが感じられた──とは言え、駅前に賑やかな繁華街が開けてたかというとそうではなく、佇まいとしてはよくありがちな郊外のベッドタウンのそれ。そこそこ商業ビルや商店の類は見られるものの、全体的な印象としては地元の人たちが近所で遊んだり買い物したり、といったコンセプトっぽいが、なまじ駅前ロータリーや駅前道路が広い分、よけいに漠然とした印象を受けた。京都が至近で、大阪へも十分通勤可能という立地もあって、若い人たちは地元よりも京都や大阪にある会社や学校の近くで遊ぶ感じで、ここへはほとんど寝に帰る、的な感じなのだろうか。駅前は漠然としていながら、マンションの姿はそこかしこに目立ってたのも、そういった街の性格を物語っているのだろう。上述の通り、ここを起点終点とする電車の本数も多く、通勤通学のロケーションとしては申し分ないだろうから──
 とはいえ、ベッドタウンの住宅街の光景というのは関東も関西もさほど変わりはない。まるで古河駅か取手駅の周辺の光景を見てるかのような錯覚に陥ってしまった。この堅田が歴史的には水運で発展した街で、琵琶湖からも至近であることをその時の僕は知らない。あまり散策してもさほど面白味のある風景に出逢うことはないだろうな、と思ってしまった僕は、あまり長居をすることなく駅に戻り、福井方面に向かう電車に乗り込んでしまった──それは今から思えばかなりもったいなかったな…、って感じなのではあるが。
 ベッドタウン的性格の街というのはつい、最近になって通勤圏の住宅街として発展し、駅の周辺だけの街だという固定観念(実際関東の衛星都市の大部分がそうだし)で早合点してしまうが、そこはやはり近畿である。東京を始め首都圏のあっちもこっちも野っぱらばかりだったころから長く都として栄えてきたエリアである。ベッドタウンといえども侮れない、表面だけ見ずに少し深入りして散策してみないと、その街のホントの味わいというのは、なかなかわからないものなのである──なんて今頃わかったところで、堅田を含む大津市を僕が再び訪れる機会はなかなかありそうにないけれど…。

 









 現在NHKの朝ドラは基本的に半年毎に物語が改変している。9月末にて『まれ』が終了して10月から『あさが来た』がスタート。この『あさが来た』は朝ドラ史上初めて、ストーリーが江戸時代からスタートするという、昨年の『マッサン』がこれも朝ドラ史上初めてヒロインが外国人と、大阪局制作の朝ドラが2年続けて朝ドラに新風を巻き起こしている。昨年の『マッサン』での新機軸はかなり受け容れられたようだが、果たして今回の『あさが来た』の試みはいかに?
 で、先月終了した『まれ』であるが、ネットその他で見る限り視聴者の評判はあまりよくなかったようである。登場人物のキャラやストーリー仕立てを見る限り『あまちゃん』的な路線を狙ったのかな、と思われるのだが、元気さ余って差し出がましさが前面に出た感じのするヒロインの姿が逆に『純と愛』みたいな暑苦しさになってしまって抵抗を感じた人が少なくないようだ──僕的にはヒロイン始めその友人たちを含む家族たちの群像劇として楽しめたと思ってるのだが…、まあその辺は好みはそれぞれってことだろうか。特に朝ドラの場合、そのヒロインやストーリーに期待されるパターンは『逆境に耐えて成長する女性の一代記』的なものだろうから、群像劇としてワイワイガヤガヤ、というのは朝ドラファンの期待にそぐわないのかも知れない。
 とはいえ『まれ』が期待はずれだったという人の中に「パティシエの修行の部分の描写が少ない」という声が多かったのには少々違和感を禁じ得ない。上述の『女性の成長記』という朝ドラの王道パターンから、職業女性の修行過程を期待して見る人は確かに多いだろうが、しかしこの『まれ』の場合はパティシエそのものよりもヒロインの「地道にコツコツ」という、その生い立ちから身についた『甲冑』的な生き方を目指しながら、周囲の仲間たちとの関わりの中で自らの中の夢が膨らんで『甲冑』を脱ぎ棄てて身軽になる、というヒロインの成長記なのであって、パティシエそのものはストーリーの中ではさほど大きな意味はないと思えるのである。
 同人時代に個人詩集に書いたあの詩この詩を単純に"カメラマンの詩"ととらえて「ひと口にカメラマンといってもどんなジャンルで撮ってるのかの描写がなければリアリティは湧かないよ」などという、文芸の大先輩からの真面目で親身な批評をいただいて頭抱えちゃった僕なので『まれ』のパティシエ描写の不足を難じる意見には、ついそれと同様の「イタタ」感を覚えてしまうのです──『まれ』はパティシエドラマではない(もちろん漆職人ドラマでもないw)、ヒロインの人間としての成長物語なのだ。それを見つめてあげることができない人って、果たして実生活でも身近な人を一個の人間としてではなく職業や肩書を通してしか見れないのかな? なんて思えてしまうのですがいかがでしょうか?
 はい、僕は『まれ』の放映中、ヒロインにはずっと好感を持って観ておりました──まあ、土屋太鳳ちゃんが個人的に結構好みなのも否定しませんけどねww

 









 肝内胆管がんの手術を受けて闘病していたという川島なお美がパティシエの旦那さんと一緒にメディアの前に現れた時の激ヤセぶりは巷ではかなり話題になっていた。本人は元気ぶりをアピールしていたものの、こちらの記事でも書いた通りで、僕を含め身内をがんで送ったことのある人ならおそらくあれを見た時点で感づいたことと思われる──果たしてその通りであった。彼女の訃報が伝えられたのは、わずか半月後のことである。死の1週間前まで芝居の舞台に立っていたとのこと。これを気力の女優魂と見るか、無理せず養生すればもう少し長らえたと見るかは人それぞれ(僕は前者)だろうが、いずれにせよ54歳はまだ若すぎる。謹んでお悔やみを申し上げたい…。
 で、激ヤセと言えば──若い頃は177cmで53kgという痩せ過ぎ過ぎな体型で肥満は一生無縁と信じて生きてきた僕が中年にさしかかるにつれて見る見る体重が増え始め、一時は74kgにまで達してしまった。もちろん腹囲も90cmを超えてまさにメタボまっしぐら。このまま行くとどうなってしまうのかと思われたのだが…、アラフィフの声を聞く頃から体重は再び減少に転じ、今年の検診では何と55kg。昔の痩せ過ぎ過ぎ体型に戻ってしまった。もちろんメタボも体脂肪も今では心配なし。よかったよかったと喜びたいところであるが──
 今回の川島なお美だけでなく、がん闘病してたあの有名人やこの有名人の晩年の激ヤセぶりと、その姿を見てから訃報までの月日の短さを思い返してみると、僕のこの体重20kg減の年数の短さが不安になってしまうのである──上述の通りアラフィフの声を聞いてる僕は年齢的にはいつがんになってもおかしくない。実際同年代にもがんをやった者は何人もいる。もしかして自分はがんなのではないか、と──太ってた人が痩せると、体表面積も減少するわけだから皮膚は当然たるむ。そんな腹まわりの皮膚のたるみとあばら骨の浮いた胸、どうにも健康的には見えないわけで、そんな見た目も不安を後押ししているのだ。
 定期検診でも大腸がん検診でも異状なしだっただろって? …川島なお美の訃報が伝えられた同じ日に乳がんで右乳房全摘手術を受けたことが報じられた北斗晶は毎年きちんと乳がん検診を受けてたとのこと。なのに検診で大丈夫だったはずの乳がんは見つかった時点でかなり進んだステージで、リンパ節転移もみられたらしく、今後も治療を続けながらがんと闘うと記者会見で述べていたが、この人の普段のタレントキャラを考えると会見での弱気な表情がいささか気になってしまうのだが──
 結局、定期検診ってどこまで信じられるの? という以前から何度か書いたような結論に行き着いてしまうのである──血液がワインでできてるとまでは言えないけど酒は欠かさないし、食事の栄養バランスもバッチリとは言えないし…、僕ってホントにがんじゃないですよね?

 









 台風から変わった低気圧に刺激された前線の影響により、北関東から東北にかけて記録的な大雨に見舞われ、過去何十年もないレベルの水害が起きたのは10日ほど前のこと。特に鬼怒川の堤防の決壊で市域の大部分が水浸しになった常総市の様子は、ニュースなどでも盛んに報じられてたからみなさんご存知のことでしょう。てか、あれはもう水浸しなんてレベルではない、街全体が流れの速い濁流の中に飲み込まれてる様子は、見てて鳥肌が立ちました。これで死者が1桁だったというのが逆に驚き、よくそれで済んだなと思えるような、とにかくそんなレベルの水害でした──
 で、この鬼怒川での水害は、単純に水かさが増して川が氾濫したというのではなく、堤防が決壊、つまり堤防の1か所が切れてしまい、その細い通り道から一気に急加速した水流が市街地に押し寄せたというもの──堤防の1か所が決壊、ということは、その1か所が何らかの理由でヤワになってた、ということ。であるなら、犯人探しではないけれど、そのヤワになった原因を追及して、次回同じことが全国のどこでも起きないようにしっかりと対策を徹底しなければ、なところであるが…。
 決壊した同じその場所に業者設置のソーラーパネルが並んでおり、その設置のために堤防の一部が削られていることから、それが原因視されて反原発批判に利用されそうになったりもしましたが、削られた箇所は今回の決壊箇所とはずれてるらしいので、どうもそれは直接の原因ではなさそう──その一方で、堤防沿いにはモグラが多数生息しており、土の中がモグラによって繰り返し掘り返されて堤防がもろくなったという、それはまあ噂レベルではあるが、でもその場所にモグラが多いのは事実らしいしモグラによって地盤がもろくなることは十分あり得るらしいので、あながち考えられない説ではない。
 そして、上で単純な氾濫ではないと書いたが、もちろん川の水量は氾濫するに十分なほど水かさを増してたわけだから、決壊してなくても氾濫によって水害には至ってたことは間違いない。しかし、単に氾濫だけなら少なくとも家屋が濁流で流されたり、というレベルの水害にまではなってなかったことだろう。氾濫した水によって堤防の1か所が徐々に削られていき、やがて…、という分析もあるが、その1か所が特にヤワになってたのだとしたら、何らかの原因を氾濫とは別に求めるのが妥当であろう──
 …と、原因追究に終始してしまったが、もちろんこの水害によって家を失い、不便な避難生活を強いられてる人たちが現在でも多数いらっしゃることは承知してますし、それらの方々に心よりお見舞い申し上げたい気持ちは当然あることは言うまでもありません──だからこそ、そうした災難が、常総市だけでなく他のどこでも起きないためにも、未だハッキリと突き止められてない決壊の原因をしっかりと突き止めなければ、と思わずにいられないわけなのです。


 









 寝屋川市駅前のアーケード商店街の防犯カメラに移った早朝の映像、つい20日くらい前まではどこの局もニュースのたびにそれ流してたのに、気がついたらいつの間にかパタッと見なくなったな…、件の映像だけでなく、そのニュース自体も。つい最近、すでに死体遺棄容疑で捕まってた容疑者の男が殺人容疑でも再逮捕されたことが報じられたが、そのニュースの扱いは、テレビでも新聞でもいたって小さかった。殺人容疑については最初に発見された女子中学生についてのみで男子中学生についてはまだみたいだし、容疑者の方も殺人容疑について明確に認めたわけではなさそうなのだが、それが報じられてから何日も経ってるけど、続報について、ニュースで見た記憶はない。
 同様に、卵かけご飯を美味しそうに頬張る映像も一時期「またかよ」ってくらいニュースで流れたのに、こちらもパタッと消えてしまった。こちらの事件については被害者の劇団員女性と交際のあった男性はすべてシロで、面識のない者による犯行の線も考えられるものの、手がかりは全くつかめないままだったように思う。このニュースに関しては件の映像が見られなくなってからこっち、続報が一切報じられていない。おそらく何も進展がないからなのだろうけど──しかしどちらのニュースも、報じられなくなってしまえば受け手である一般市民の関心も記憶も薄れてしまい、有力な情報がますます取りにくくなってしまうのではないだろうか?
 テレビであれ新聞であれ、報道も言ってみれば"商品コンテンツ"であり、毎回同じことばかり報じてれば視聴者や読者に飽きられてしまう、ニュースにも"賞味期限"なるものが存在するというのがメディア各社の私企業としての考えなのかも知れないし、現に僕自身上述のように「またかよ」なんて思ったりしてるわけだから、その企業的発想はある意味間違いでもないだろう──とはいえ、上述の2件とも人が殺されてる事件で、なおかつ謎を残したまま解決に至らない事件なだけに「これで、いいのかなぁ…」という感は否めない。
 そうは言っても新たなニュースは次々とはいってくるし、続報がなければ新しいニュースに追いやられるのはまあ致し方なかろう。記録的な大雨による鬼怒川の決壊で常総市の市域の大半が水没したり、国会前の学生デモもむなしく安保法案(戦争法案ではない)が可決されたり、というような歴史的大ニュースの影に霞んでしまうのは、ある意味当然ではある──尤も上述の2件がパタッと伝わらなくなったのは水害よりも法案可決よりも1週間くらいは前のことだし、水害による復旧が未だ追いつかず、安保法案の強行?採決をめぐって野党の批判の声が喧しい中にあっても熊谷のペルー人による(と思われる)連続殺人のニュースは続報がどんどん伝えられてるところから見ても、やはり"賞味期限切れ"の側面は否定はできないだろうが…。
 もちろん被害者の身内の方々や事件を捜査する地元警察の方々にとっては賞味期限も何もなく現在進行形の重大事であることには変わりはないわけで、彼らが未だ苦悩の中にいたり事件解決のために必死に奮闘してることに思いを馳せれば「その件はもう旬は過ぎたよ」的な報道メディア各社の扱いとの対比には(何しろ私企業としての営利がそこに多少なりとも関わってるだけに)フクザツな気分を禁じ得ないわけで──
 安保法案と水害のニュースの中にあってずいぶん健闘してる熊谷ペルー人のニュースであるが…、その旬は果たしてあと何日続くのだろうか──是非とも、賞味期限が切れるまでに捜査が進展して事件解決、となってほしいところではあるが…、当のペルー人容疑者は頭蓋骨骨折で現在意識不明らしいし、ニュース報道的には上記の2件同様にいつしかパタッと消えてしまいそうな予感が…。もちろん事件及び捜査関係者の苦悩と奮闘はその後も続いていくことは言うまでもない──

 









 先日、朝のワイドショー番組を見てたら、ブレイク目前のアーティストとして、水曜日のカンパネラが紹介されていた。「水曜日に打ち合わせが多かったから」という理由(諸説あり)でユニット名がつけられたというこのユニット、3人組ではあるがステージ上でのパフォーマンスはボーカルのコムアイのみで、他のふたりは裏方という位置づけ。その独特の楽曲世界とライブが「じわじわ来てます」的な感じで取り上げられてたのだが──
 僕の正直な感想は「え? 今頃なの?」である。ユニットとしての始動は'12年と、もう活動歴3年になるこのユニットを僕自身が知ったのも去年の今頃であり決して早くはない、以前から知ってた人にとっては「今頃?」だろうし、僕が知ったきっかけもいつも聞いてるFMラジオ局でのヘビロテであり、本人(たいていはコムアイのみ)も同時期その局の番組でゲスト出演する機会も何度かあったから、決してマニアックな出逢い方ではない。この時のヘビロテ曲というのが『桃太郎』だったのだが、あまりの奇想天外な楽曲世界とメロディ回し、歌唱法など、何から何まで衝撃的(パーソナリティの何人かも「きっびっだ~ん、きびきびだ~ん」がクセになってた模様)で、動画検索してみると他の楽曲(『千利休』とか『マリーアントワネット』とか)もゴロゴロ引っかかってきて、それらの楽曲もまたクセになりそうなくらい中毒性が高いではないか──なので、僕が今まで知らなかっただけで一部ではかなり高評価を博してるんだな、と認識してたのだが…。
 今年に入るとヤフオクのCMにコムアイが出演して妙なノリで踊って「これ誰?」って感じで話題になったりしつつもユニット及びその楽曲の一般的知名度まで上がったとは決して言えない状態、しかしながら最新曲の『ディアブロ』がこれまたクセになる曲で「いい湯だね、いい湯だね~」が脳内ヘビロテ止まらない状況に陥ってたところであった──そんな中で"ネクストブレイク"として取り上げられた上述のワイドショーで『桃太郎』の動画再生が何百万回を突破だとか(多分3万回に1回くらいは僕ですw)言ってるのを見て「おいおい、遅ぇよw」なんて思ってしまったわけです──『桃太郎』の方がauのCM(浦ちゃんの彼女のかぐちゃんやその実姉の乙ちゃんが出てくる「パッコ~ン」のやつ)よりも先ですからねww
 ──とはいえこの、水曜日のカンパネラというユニットは、あまり一般ウケはしなそう、また一般ウケしない方がよさそう、という気も一面ではしている。動画を観てもらえばわかるかと思うが、楽曲世界からパフォーマンスから歌唱スタイルからコムアイ本人のキャラから、もうアーティストスタイルのすべてがアングラのニオイをプンプンさせてるから。歌詞ストーリーの展開がなかなか読めないのが、マニアには面白いところだけど、ついて行けない人にはわけわからなくなってしまうかも──だからと言って一般ウケには走って欲しくないし、本人たちもそのつもりはないことだろう。僕的にはこれまで通り必要以上にブレイクせず、密かにムフフと楽しめる、そんな不気味で存在であり続けてほしい気がするのです…。

 









 安保法案の採決がらみで『戦争法案絶対反対!』の声が喧しい。安保法案が通れば必ず日本は戦争をするものだと決めつけてるようである。そして徴兵制が必ず敷かれる、というのも彼らの中では既定の事実らしい──中国が尖閣を堂々と侵略してきてることも北朝鮮のミサイルの照準が日本を向いていることもイスラム国が理屈もヘッタクレもないテロの対象に日本もおいてると公言してることも、まるで彼らの念頭にはないようだ。軍隊さえなければ彼らは悪意を向けないでいてくれると思っていられる思考回路って、一体どういう過程で養われるものなのだろう???
 とは言え、法案に若い人たちが必死に抵抗するのはもちろん理解できる。戦争に加われば誰かが国軍の兵士として前線で武器を持って戦わなければならなくなるのは当然だし、その場合体力的に衰えてる中高年よりも先に健康な若者が前線に送られるのは明らか。僕自身は既にアラフィフだし、自分が前線に立つ可能性は実質的に少ないという安心感で言ってるだろうと言われれば、僕は決してそれを否定はしない。もし僕が彼らの年代であれば彼ら同様「戦争になんか行きたくない、再軍備なんかやめろ!」と理屈も何も抜きで叫んでたであろうことは想像に難くはない。彼らの立場になれば当然である──
 だからこそ逆に彼らに問いたいのだ。自分や自分の家族友人が徴兵される可能性をとりあえず一旦置いて考えてみるとどう思うかと──上述の中国やイスラム国の脅威から国民(当然自分も自分の家族友人もその中に含まれる)を守る手段って、必要ないですか?
 多少なりとも国際知識のある人には常識のはずなのに意外と誤解してる人が多いこと──スイスという国は国民皆兵であり軍事力もかなり高い。国民はみな「侵略者があれば全力挙げて排除するために戦う」と明言している。永世中立国だから戦争も軍備も放棄してると勘違いしてスイス人にとんちんかんなこと言って笑われる恥ずかしい日本人が時々いるようだが、スイスの永世中立国としての平和は、いざとなれば戦う気概とその気概を後押し出来るだけの強い軍事力に裏打ちされた安心感による余裕の成せるワザなのである。
 スイスの例を見てみると、本当に戦争を防ぎたいのならば逆に軍備をうんと充実させた方がいいのではなかろうか、などとも思えてくる。上述の他国の脅威を前にして、安保反対派にも賛成派にも、どうにも余裕がない感じをぬぐえない。一方は侵略された時の恐怖を、もう一方は軍国主義の暴走を、それぞれ空論的に(←ここ重要)恐れるからなのであろう──持つべき備えを持ったその上で、その備えを無用な(←ここも重要)戦争に使わないという確固たる意志のもとにその方法をあの手この手で探る、という考えにシフトした方が現実的なのではないだろうか? その気になれば、な軍事力をどう扱うか…、良くするも悪くするもわれわれ国民の余裕の有無次第──ではないかな?

 









 表題の言葉、実は僕は長らく『女心と秋の空』で覚えていた。リアルの会話にこの諺が出てきたことはないが、幼い頃から見聞きしてきた小説やドラマ、歌詞の中ではたいてい『女心…』の方が出てきてたように思う。しかしながらその一方で『男心…』の方もちらほら見かけたりもした──両方の言葉を随時目にしてきたのだが、何故かどちらが正解かとかいうことについて特に気にしたことはなかった──
 いずれにせよ諺の意味は“秋の空”の変わりやすさになぞらえて、男(女)というのは心変わりしやすい、移り気な生き物である、ということである。それが男の方なのか女の方なのか、という違いであるのだが──まずそもそも諺としてはどちらが正解か、というところから考えてみよう。実は『男心…』という諺が生まれたのは江戸時代。当時は人妻の浮気は死罪になるすほどの重罪なのに対して夫の浮気には寛大で、移り気なのはもっぱら男性だった。しかし大正デモクラシーで女性の地位が向上すると、西洋文化の影響もあって女性も徐々に恋愛に関して素直に意思表示できるようになっていき、その頃から『女心…』という言葉も生まれてきた──つまり元祖は『男心…』の方である。
 戦後以降、女性はさらに強くなり、現在では恋愛のイニシアチブを握っているのは完全に女の方である。リアルの恋愛話とかを聞いてても、僕自身の体験とかとも考え合わせても、現代的には間違いなく『女心…』の方が現状に見合っているであろう──でありながら『広辞苑』に初めて『女心…』が掲載されたのは'98年と、かなり最近の話である。現在もたいていの辞書は『男心…』の方がメインで『女心…』が載っていないものも少なくない。国語辞典の世界は未だに旧弊な男社会ということか。金田一先生、そんなことではモテませんよw
 とはいえ『男心…』がもっぱら男女間の情愛のことを指すのに対して『女心…』は恋愛限定ではなく感情の起伏が激しいことや物事に対して熱しやすく冷めやすいことなども含めて使われることが多い。それぞれにニュアンスが微妙に違ってるので、それが両者とも諺として共存してる理由なのであろうか…。まあ、男であれ女であれ、人の心というのはあらゆることで移ろいやすいものだと僕は思ってますけどね──
 てか、僕的には男心か女心かという前に、そもそも『秋の空』ってそんなに移ろいやすいのかって、そっちの方が疑問なのですよw 秋は低気圧と高気圧が日本の上空を交互に通るため天気が変わりやすい、というのだけど、他の季節は違うのか? 確かに雨の日と晴れの日が頻繁に交替すて訪れてる感じではあるので、変わりやすいとも言えるかもだけど、日替わりレベルでなく、朝晴れてて昼に曇り、夕方ザーッと降って夜は星が見える、とかでなければ天気が変わりやすいという感じはしないのである。それならば頻繁に入道雲が急に発達して夕立が起こる夏の空の方が変わりやすいと言えるのではないか? 特に昨今はゲリラ雷雨や雹、時には竜巻なども頻発してるし。秋の空なんかよりもよっぽど変化が激しいと思うぞ──何十年後かには『男(女)心と夏の空』なんて諺が登場して、いつの間にか一般的になってたりしてw

 









 ずいぶん前にこちらの記事にも書いたが、蕎麦アレルギーをもってる人は決して少数ではなく、かつ生命にも関わる危険なものであるはずなのに、卵アレルギーや乳製品アレルギーにくらべて認知度は低いらしい。僕のリアルでは過去に蕎麦アレルギー持ちはいたけど、他の食物アレルギー持ちはいたことがなく、自分の中では食物アレルギー=蕎麦なので、未だに信じられなかったりするのだが。
 他のコーナーでも書いてることだけど、亡父の出身が兵庫県の但馬にある蕎麦が名物の観光地で、父の墓がその街の観光名所のすぐ近くにあるので、法事とかで出向いた際に土産物としては必ず蕎麦と、職場用に菓子を買って行くのだが、蕎麦の名所であるから土産物のお菓子の中にも蕎麦粉を使用したものもあったりする。そうすると、迂闊に「田舎のお土産です」なんて職場で配ったりすると、ヘタすると取り返しのつかないことになってしまうので、結構気を使うのである──蕎麦アレルギーの人にとって蕎麦粉は毒物。青酸カリやヒ素と同じと心得ねばならない。
 つい先日ツイッターのTLにでRTで回ってきたツイート──重度の蕎麦アレルギーのその人は、そのことをある友人に話したのだが信じてもらえず、蕎麦粉入りのクッキーをそれとは知らされずに食べさせられてしまう。当然ショック症状を起こして入院することになってしまうのだが、その友人は全身腫れあがって見た目にも重症なその人の姿を見てもなお「大袈裟なんだからぁ」と笑ったそうである。僕はフォロー関係も何もないその人のツイートに対して「それは警察に被害届出していいレベルでしょう。殺人未遂じゃん!」とリプライを送ったのだが、それがもう公式RTとお気に入り登録がワンサカワンサカ…。普段こんなに広くツイートを読まれるのに慣れてないので正直影響の大きさが怖かったりもしたのだが…、それでも蕎麦アレルギーに対して意外と関心を持ってる人多いのだな、という感じでちょっと安心もした。
 上述の通り蕎麦アレルギーは生命に関わる。アレルギー持ちの人にこれを食べさせて、万一死にでもしたら、まあ殺人罪は無理でも過失致死にはなるのではないか? 上述の例の場合、相手が重度のアレルギー持ちと聞いてたその上で騙し討ち的に食べさせてるわけだから罪はさらに重いだろうけど…、おそらくこの友人に犯意も悪意もないのであろう。まさに「自分が何やったかわかってない」ってやつである──
 上述の卵や乳製品だけでなく、小麦にも大豆にもナッツにも海老蟹にもアレルギーを持つ人はいて、それぞれ生命に関わる場合もある──ヘタにそれらを友人や客人にふるまってヘタすると人殺しになるかも知れない…、という危機感があればもっとアレルギーに対する知識も関心も高まるのではなかろうか。自らにアレルギーが何もないという人も他人事と思わず、誤って最悪の悲劇の加害者になってしまう前に最低限の知識は身につけておかねばならない。