前回の記事に続き、今回も読書感想文です。前回取り上げた『火花』と芥川賞を同時受賞した羽田圭介の『スクラップ・アンド・ビルド』。ピース又吉がいろんな意味で話題になりすぎてる分、同じ受賞作家なのにこちらは影が薄いと思いきや、こちらもちょくちょくバラエティ番組で見かけるところをみると、又吉の影に隠れたように見えてその実意外と恩恵に預かってるのかも知れない──小説家としては10年選手でそれなりのキャリアを持ちながらも年齢的には若いだけあって、作風もさほど難解ではなく登場人物のキャラも今風で身近と、僕的にはかなり読みやすい印象であった…。 今回もネタバレに注意しながら、あまり詳細にはならないように簡単に感想を述べていきます──ニュースなどで紹介されてる内容から、一般的には老人介護の話と解釈されてるようであるが、このストーリーは決してそのくくりにはとどまらず、失業中の若年層の苦悩や葛藤や家族内の人間関係の問題などが、郊外のニュータウンを舞台にそうした地域の問題も内包しつつ、しかし上述の通り主人公の今風キャラによって決して陰鬱なトーンにはならず、今時の若者の恋愛事情なども織り交ぜながら全体的に軽快なストーリー運びで、読みながら退屈や中だるみを感じさせず、結構一気に読み進むことができた。 もちろん一般的に思われてる“老人介護の話”というのも間違いではなく、話の核として描かれてるのは同居する認知症の祖父との関わり方である。しかしそこは一般的な介護物語とは違って主人公の関わり方はかなりドライで、ともすると家族に対してそんな気持ちで…? なんて思ってしまいがちだが、それが彼なりの祖父に対する思いやりの気持ちに裏打ちされてのものであることは十分読みとれるであろう。その上でこの主人公の考えに共感するかどうかはまた読む人によるだろうけど── 話の中には、主人公が自室で筋力トレーニングをする場面が頻繁に登場するが、その中で彼は「肉体の再構築」であることをしきりに強調している。それはとりもなおさず「家族の再構築」という意味合いも込めているのだろう。祖父の介護への取り組む姿勢もまたこの「再構築」であり、この小説の表題にもなってるように、これがこの作品全体の重要なテーマなのである──と、ちょっとしゃべり過ぎたようなので、この辺で止めておきます。皆さんもぜひ読んでみてください。 余談、というには少々重い話だが…、これを読了してさて、次回の記事に書こうと思っていた同じ日、埼玉県で親の介護による生活苦を悲観して、川で無理心中を図り両親を死なせた女性が殺人罪で逮捕されたというニュースが伝えられた──この彼女に、小説の主人公のような今風のドライさがあれば…、なんて思ったりもしたのだが、現実は小説のようにはいかないものなのである…。 |
東京都内にある駅前風景で、最も地方都市の玄関口としてのそれに近いたたずまいなのは、果たしてどこだろう──都内の路線や駅を考えた時、ターミナル駅は新宿にせよ池袋にせよ周辺はオフィスやデパートばかりで生活の匂いには乏しいし、一方郊外の住宅街のそれはあまりにコンパクトで小粒。まあ都内の各市区町村(千葉埼玉の隣接エリアもそうだが)は都心へ通勤する人たちのベッドタウンであって生活拠点としての要素が薄いから致し方ないであるが。いわゆる駅前ロータリーバスターミナルになってて銀行やデパート、飲食店街を形成しており、それに並行する広めの道路の両脇に商店街が伸びてる、という光景、それが僕の中での“地方都市っぽいたたずまい”になるわけだが── まず23区内には見当たらないし、多摩地区でも私鉄各線はもちろん、JRでも中央線以外の沿線はすべて上述のコンパクトで小粒な街並、てことで中央線のみに絞ると…、吉祥寺は都会風味が強すぎてアウト。三鷹、武蔵小金井、国分寺もイマイチ違う、国立、日野も小粒過ぎ…、てことで立川と八王子の2つに絞られるわけだが──僕的には八王子に軍配を上げたいわけで。 ポイントとなるのは、上述の通りの駅前ロータリーのバスターミナル風景とデパートや銀行の風景、そして並行する地元商店街である──両市ともそれらはそろっているが、立川駅前のそれは、デパートの姿が目立ち過ぎてるのと粧いが新しすぎて都会っぽさが前面に出過ぎてる。それに加えて中央線と高架で交差する多摩都市モノレールの姿、及びそれの開通に伴いメインの北口だけでなく南口も開発されて商業ビルが目立ってきてる点なども、地方色が薄まってる要因である。飛行場跡地が駅至近で、住宅街があまり近くないのも『いつ街』的にはイマイチな点である。 一方の八王子はメインの北口の反対側、南口も最近駅ビルが出来たりして開発されてるとはいえ、まだまだ一般住宅が中心であり裏口的なノリが残っている。この、駅の両側で開け方に差がある、という点も『いつ街』的な地方都市らしさのポイントであり、メイン口側の商店街のたたずまい、少しはずれると普通の住宅街風景、そして最も重要なポイントは、繁華街の背景の少し先に山が見えるということ。八王子は市域が広い上に東京都の西のほぼ端ということもあって山が結構多い。その姿が繁華街の遠景に映る光景──これこそが“東京都内の地方都市”である。トレンディな都会生活を好む向きには受け容れられないかもだが、僕のような地方出身者にとってはとても懐かしさと親近感をおぼえる街、それが八王子市である。 実は僕、八王子市内にある大学に4年間在学し、その大学から徒歩圏内の場所に4年間住んでいた。要するに東京都で最も“地方都市”的な街の、さらに市街地とは大きくはずれた山裾の農村地帯で学生生活&衣食住を営んでたわけだ。とある授業で講師の先生に「八王子の人は新宿に行く時に『新宿に行く』とは言わずに『東京に行く』と言うそうですね」と言われてしまう、そんな八王子であるが、しかし地元市内に住んでる人たちの地元愛も結構強いな、ということも4年間の八王子暮らしで感じたことである──この、地元への愛着というのも、23区はもちろん多摩地区の他の市でもあまり見られない特徴であり、その辺も地方都市らしい特徴である。このあたりは八王子をよく知らない人でも古くはヒロミ、最近もファンモンなど八王子アピールする出身有名人の多さからおわかりのことだろう。 そんな八王子の地方都市っぽさは、僕が八王子を後にして四半世紀以上になる現在も基本的に変わっていない。そこを八王子の良さと見るか悪さと見るか──少なくとも出身者及び僕を始め多少なりともそこでの生活を経験した人の大部分は前者であろう。 |
九州場所10日目の栃煌山戦で白鵬が見せた“猫だまし”はいろんな方面で物議を醸しているが、おおよそあれを肯定的にとらえた意見というのは聞かれない。土俵の取組上のルール的にも決して問題はなく、本来咎められることでは決してないのだが、しかしあくまで下位の者が実力差のある上位の者に対しての奇襲として用いられる手であり、天下の横綱が行うのはどうか、ではあるだろう。取組後の北の湖理事長の「横綱がやるべきではない」というコメントも宜なるかな、である── その北の湖理事長、みなさんニュースでご存知の通り、13日目の夜に急逝した。“猫だまし”の一番からわずか3日後のことである。上述の白鵬に対する苦言が、理事長としての最後の公式コメントとなったのだった──それまで12連勝で優勝争いのトップに立ってた白鵬が、13日目以降まさかの3連敗で優勝を日馬富士にさらわれてしまったことは、果たして理事長の逝去とは無関係だろうか…。双葉山に傾倒し、大鵬からも生前に何かとアドバイスを受けてたという白鵬。それと方を並べる昭和の大横綱のひとりであった北の湖に対しても少なからぬ思い入れはあったことだろう。理事長の訃報を受けてのコメントでも件の“猫だまし”への苦言に対して好意的に素直に受け容れるようなことを述べていた── その時の白鵬のコメントにもあったが、北の湖理事長のコメントは時に厳しく突き放してるように聞こえることが多々あった。ご本人のぶっきらぼうな口調や表情のせいもあって、外部の人には印象で誤解されることも少なからずあったようだが、それらはすべて力士への愛情と相撲界への愛着の裏返しによるものであることを、わかる人はわかってたようだった。実際は結構温厚で人柄もよかった、ということを。 とはいえ、理事長はやはり協会の顔であり、外部にアピールする立場なのだから、外部の印象(これは現役横綱時代の“憎らしいほど強い”相撲ぶりと、負けた相手に全く手を貸さない非情さ(ではなく勝負師としての美学と対戦相手への経緯によるものなのだが)から繋がってる、結構年季の入った印象である)も軽視はできない──理事長がそういう人であるということをよくわかってる他の理事たち(特にNo.2の事業部長である八角親方(元横綱北勝海))がフォローして、北の湖のそうした裏の愛情の部分をもっと出して行って欲しかった気がしないでもないのだが…。亡くなった後のインタビューで「こんなにいい人でした」的なコメントがいくつも出てくるにつけ、どうしてそれをお元気な時にもっと強調してあげなかったのかな、と悔やまれてならない。 そんな、北の湖理事長の人柄は、他の力士や弟子たちにも通じてることと思う。千秋楽、北の湖部屋としては最後の取り組みで幕内の北太樹と十両の北播磨はいずれも勝ち、インタビュールームでアナウンサーの「師匠に白星を送ることができましたね」に涙ぐむシーンが見られたし、一時期北の湖部屋に所属してたことのある臥牙丸も同様であった。上述、白鵬の思いもおそらく同じだったのではなかろうか──元熊ヶ谷親方(元十両金親)も力士時代北の湖部屋所属だったのだが…、果たして拘置所の中で何を思ってることだろうか。 数年前から直腸ガンを患っており、ここのところ体調不良で休みがちではあったものの、この九州場所も亡くなる前日まで場所入りして公務にたずさわっていた北の湖理事。死因は多臓器不全という。かなり体調的にはキツかったはずなのだが、それを押して理事長の務めを果たそうとしていたところにも、この人の人柄と、相撲界に対する思いが感じられる。その思いに、土俵上の力士たちはどのように応えていくのか。来場所以降、力士各人の姿勢が強く問われていくことと思う──来場所、天下の横綱の“猫だまし”なんてものが決して見られないことを切に願わずにいられない。合掌── |
| 少し前に健康テーマのあるテレビ番組で「自分の口臭を本人が気にならないのはなぜ?」という質問が出た時に、それに対する医療関係の人の回答がふるっていた──「自身の生命を守るための本能的な防御機能です」──自分の口臭を嗅いで生命に関わる可能性があるということか…? 口臭というのは致死性のある毒ガスか? 他人の口臭を嗅いで中毒死した人の話は僕は寡聞にして知らないのだが? 口臭だけでなく、ワキガなどの体臭や排泄物など、異臭を感じるのは身体の何らかの異常のサインである。で、そのニオイが悪臭であればあるほどその異常は深刻なものと考えられる。口臭なら歯周病か口腔ガンか、オナラなら肝硬変か大腸ガンか…。つまり、自分の身体のどこかから発せられる臭いニオイをチェックすることは、自身の病気を発見する自己診断の方法として有効だろうし、だとしたら逆に本能的にニオイを自身で感じてもいいはずだと思うのだが、何ゆえに自然の本能がその真逆を行ってるのだろうか── 尤も体内からの悪臭に致死成分が全く含まれてないとは言えない。例えばオナラには普通に硫化水素が含まれてる。一時期自殺の手段として使用が多発して問題になったあれである。しかしいきなり生命に関わる含有量ではもちろんないし、自身の生命を守るためにニオイを感じないというのはちょっと理屈に合わない気がするのだが──そしてその異臭、自分以外の他人にはみな感じられるのである。おそらくはそれを危険なものと感知して避けようとする、本能的な防御機能によって。結果、他人には嫌がられ避けられる、しかしそれが自分には感じられない…、ますますもって理屈に合わないではないか── いずれにせよ、体内から発せられる悪臭が、本人の身体の危険信号である以上、それを感じない=身体の異常に気付かないままでいいはずはない。本人がニオイに気づかないのであれば、気づいてる周囲の人が教えてあげるというのも大事なことなのではなかろうか。単に「あいつ臭ぇよ…」などと嫌がって避けるというだけではなく──まあ、面と向かって「おまえ臭い」と言われればちょっとムカッとはするだろう。自身でニオイを感じないならなおのこと。それを指摘する方だってわざわざ嫌われようとしたくはないだろう。しかし、相手の身体のためだし、自身の生命のためなのである。その臭いニオイが病変によるものであれば、その病気が治癒すれば臭さも消えるわけだから、観念して臭い自分を受け入れて、ニオイの元を根絶するということを考えるべきなのではないだろうか。 ──しかし、それよりも「自分の生命を守るために自分では自身の悪臭を感じない」説自体がホントなのかという根本的疑問がそもそもぬぐえないんですけどね。自身の病気のサインを自身で気づかないなんてあまりにマヌケな話で、すごくイヤなんですけど…。 |
今から30年以上も前に“漫才ブーム”なんてものがあったことを覚えてらっしゃるだろうか? やすし・きよしを筆頭にB&B、ザ・ぼんち、紳助・竜介、のりお・よしおなどなど、若手漫才師が次々と台頭してきて一時代を築き上げたことがあった。その時台頭してきた漫才コンビの中でも中心的なポジションにいたのがツービート。そう、ビートたけしが相方のビートきよしと結成したコンビである。ブラックな毒舌漫才が売りだった彼らの、表題の言葉は当時の代表的なネタである── 意味は読んだ通りで、信号が赤でも大勢で渡れば怖くないということ──まあひとりの歩行者が信号無視したら、車の方も気づくのが遅れてはねられてしまう危険があるけれど、大勢で何人もの人が道路を横切ってきたら、いくら何でも車の方も気づくだろうし、ひとりの時よりも事故になる可能性は低いかも知れないし、歩行者の方も仲間が大勢いることで怖い気持ちが薄れるのも確かだろう。つまり赤信号をみんなで渡った方がひとりで渡る時よりも怖くないのは確かである。 もちろん漫才それもビートたけしらしい毒舌漫才のネタであり、お笑いとして笑って楽しむ言葉であって、間違っても「何てけしからんことを言ってるんだ、こいつは!」などとカコワルイマジレスをする言葉ではない──実際、その当時に子供がこの言葉をマネしてみんなで赤信号を堂々と渡ったりだの、そのせいで子供の交通事故が増加しただのという話は全く聞かなかったし、子供だって莫迦ではないのだから漫才ネタを鵜呑みにして現実で同じことをやったりする子はそうそう何人もいない、まして車が来てる時に平然と、なんてことはまずなかったし、だから大人の方もそんな心配には及ばなかったわけだ──その当時は。 しかし、現代は果たしてどうだろうか? 今の若手芸人がネタで「赤信号みんなで渡れば怖くない」などと言ったりしたら、どっかの団体やPTAあたりからクレームがついて、プロダクションやテレビ局の方も及び腰になってしまい、そのお笑い芸人はネタの封印を余儀なくされるか、ヘタすると干されてしまうのではないだろうか? 世知辛い時代になったな…、と言いたいところだけど、でも今の子供たちも当時と違いホントにみんなで渡ってしまって事故に遭いそうな気もするんですよね──昔と比べて冗談が通じなくなってきてせせこましいなと感じる場面が増えてきてる気がするけど、こういうところにもそれが現れてるなと思うと、かつてのツービート漫才も単純に懐しいとか面白いではおさまらない、何か切なさを覚えずにいられません。 あくまで余談ですが──その当時『クイズダービー』の問題で「『赤信号みんなで渡れば○○○○○』の『○○○○○』にはいるのは?」という問題で、回答者の篠沢秀夫学習院大教授(当時)の答えが『みんな死ぬ』、…その後しばらく僕の周囲のごく一部では『赤信号みんなで渡ればみんな死ぬ』が地味に流行ったりしましたw でもこういうバランス感覚が受け手の方にも当時はあって、それが最近は送り手と受け手の双方に薄れてきてるな、というのも上述の、昔よりも『赤信号が怖く』なってる遠因かも知れない、そう思いません? |
今月アタマ、2週間くらい前に遅ればせながら、ピース又吉の初の小説作品で芥川賞受賞作の『火花』を読了した。作者がテレビで人気のお笑い芸人であることや、作品も若手芸人の世界を描いてることなどで話題が先行してる面も否めなかったが、芥川賞を受賞した=名だたる選考委員たちのメガネにかなった作品であるから、純文学作品としての水準は高いはずである。しかしながら本人は太宰治に心酔してるみたいなこともコメントしてたみたいなので、お笑い芸人のイメージとは裏腹にいくらか神経質で陰鬱なトーンに包まれてるのかな──というのが読む前の僕の想像であったのだが… あまり詳細に解説するとまだ読んでない人にはネタバレになってしまうので簡単に僕なりの感想を述べますと──主人公がわりと今風の若手芸人=素はわりと普通の若者でネタも常識を踏まえてそこから大きくはずれていない、なのに対して先輩の方はどっちかというと昔風の芸人=実生活でも常識で測りかねるところを持ちながらもそれゆえの常識破りのネタで笑いを取るタイプ、いわゆる破滅型芸人という感じだろうか。小さい頃から上方のお笑いに親しんできた僕にとってはこの先輩タイプの芸人はとても惹きつけられるが、舞台を離れてプライベートで近づきたいとはちょっと思わないかも。…それが現在での普通の常識感覚であるがゆえに、今風の芸人である主人公はこの先輩に対して魅力と敬意を感じながらもどこか違和感も持ってる様子で、違和感の方については文章には明言されてないが行間から垣間見て取れる感じで伝わってきた。 そんな心の揺れを、芸人としての将来への不安視とも絡めて描写する文章運びは、なるほど太宰風の思索的なものを感じる。お笑い芸人がテーマの小説ではあるが、ギャグ的なものはかれらがステージでネタをやるシーンの中での最小限にとどまっており、ストーリー自体にギャグ要素はあまりない。たまたま主要登場人物たちがお笑い芸人だということであり、普通の若者の、ちょっと変わり者の先輩との奇妙な友情物語と言った方がいいだろうか──ただ、そうであるがゆえにラストのシーンでの先輩のギャグ的な変貌はちょっと違和感を禁じ得なかったのだが…。 そんな、全体的には非日常的に見えながらもある意味日常的にも見えるストーリー展開であったけど、それでも間延びを感じずにストーリーに入り込みながら読み進むことができたのは、やはり登場人物が魅力的だからであろう。ストーリーだけでなく、キャラクターも上手く描けているということである。作者の知名度やタレント性うんぬん抜きにして単純に作品として、十分鑑賞に堪える一作だった、というのが一読しての僕の率直な感想であるが、既にお読みになった他の皆さんは果たしてどのような感想をお持ちになっただろうか? ただ、作家として後が続くかとなると厳しいかもな──物語の舞台の守備範囲はあまり広くなさそうだし『火花』の作品世界を超えて踏み出せるかどうか…。 |
先日、中国では36年の長きにわたって続いてきた『1人っ子政策』を廃止するというニュースが報じられた。少子高齢化が進み過ぎて労働人口の減少が深刻だからなのだという。もともと世界人口の5人に1人を占める中国において爆発的人口増加対策として施行された政策であるが、それがかえって国の財政を圧迫する結果になったわけである──日本では『1人っ子政策』の類の国策などは何もないのに、ずいぶん前から少子高齢化が問題となっている。 ここは防犯・防災・事故防止テーマの『ヒヤリハ』コーナーだから少子化対策うんぬんとか女性の生き方の多様化うんぬんについてはとりあえず置いときます。問題は高齢化の方──日本人の平均寿命の伸びに伴い老年人口も増加している。この傾向は都会よりも田舎で顕著である。高齢者は増えるけど、働き手の世代の人口は減少が著しい。人口が減れば公共交通の利用者も減ってバスも列車も廃止されたり減便される一方で、移動手段は自家用車しかなくなる──必然的に、高齢者マークをつけた高齢ドライバーが増えることになる…。首都圏でも頻繁に高齢者マーク付きの車を目にするくらいだから、高齢者比率が高くかつ交通手段のない地域ではなおのことであろう。 ここのところ、高齢者ドライバーによる交通事故のニュースが立て続けに報じられている。宮崎市で歩道を暴走して次々歩行者をはねたあげくに自身も横転した死傷事故の73歳男性は何と鹿児島県日置市から100キロものロングドライブで宮崎まで来ており、認知症の症状が以前から見られてて、道中でもその症状が表れて路上で立ち往生してたという目撃証言もあるという。他にも92歳女性によるバイクを引っかけた事故もあった。こちらは加害者女性は「ひっかけた覚えがない」と供述してるらしい──こうした事故には至らなくても加齢によって認知機能の低下により、以前は難なくできた道路での状況判断ができなくなることは多々あるのは、これは致し方ないことである…。 なので、各自治体警察の交通課や交通安全協会などでも高齢者への自主的な免許証返納を勧めてるのだが…、多くの高齢者は若い頃から何十年も車を運転してきてて、自らの運転にも少なからず自信を持ってきており、簡単に自らの運転能力の衰えを認めたくないという気持ちが勝ってしまうのだろう。それに加えて上述の通り田舎へ行けば行くほど自家用車以外の交通手段がなく、車なしでは買い物にも病院にも行けやしない。ただでさえ足腰の弱っている高齢者は出かけることすらできないわけだ──マイカーや免許証を変更しろと言われて簡単に手放せる生活環境にないのである…。 今後ますます高齢運転者は増えるはずだし、その分上述のような事故も増えてくるだろう──そうした危険を減らすためにも自動運転の一般化を急げという声が高まってきている。自動運転に対しては僕は少なからず懸念を抱いてるのだが、それについてはいずれ改めて記事にしようと思います…。 |
ずいぶん前にこちらで書いたが、ここ最近では女性アーティストや女の子アイドルの曲を好んで聴いてる僕であるが、若い頃はその時々の女友達がよく聴いてたアーティストを試しに一緒に聴いたところハマるパターンが多く、必然的にハマるのは男性アーティストが中心。当時カラオケに行く機会も多く、自分が歌うとなるとやはり男性の曲となる。てことで必然的にその当時は女性ボーカルには見向きもせずにKANや大江千里、小沢健二あたりの男性ボーカルの曲ばかり聴いてたり歌ったりしてたのだった。しかしそれなりに年をとって交友関係が限られた範囲に縮小化され、特に女性比率が目減りするのにともない、彼女たちにつられて聴き始めるというパターンはほとんど消滅、本来の嗜好もさることながらそれら女友達から直接女の子と本音や気持ちを聞く機会が減ったのを補うみたいな意味合いもあって、よく聴くアーティストの女性比率が増えていった、というわけである── しかし男性ソングが決して本来の僕の志向に合わないわけではない。上記のアーティストの曲たちは今でも懐かしく思いながら聴くし、カラオケでも愛唱している。現在でも男性ボーカルの曲に触れればそれなりに気に入る曲は少なからずあると思うのだが──さてあの今、僕が当時の若さで昔と同程度の女の子たちとの交友があったとしたら、どんなアーティストの曲につられることだろう…。実のところあの当時の女友達がよく聴いてたアーティストたちと楽曲世界的に割りと近しいのは誰かと問われると、数人程度しか思いつかない。 その中で最も「当時の僕ならきっとカラオケのレパートリーになってたな」と思えるのは、星野源だろうか…。ちょっとイケメンではあるけど飛びっきりというわけではない、しかしむしろそこが素朴な親しみやすさに感じられる彼の楽曲世界と声質もルックス同様、スーッと心に入ってくるような気がする。とか言いつつパッと口ずさめるのは『SUN』くらいでそれ以外は何となくのうろ覚えなのだがw でもその『SUN』はちょっとカラオケで練習して年末までにはレパートリーに加えたいな、なんて思ってます。 他には秦基博あたりかな…。こちらも正直おぼろげながら優しいメロディの曲が多いなってことと、声質も優しいなっていう程度の印象なのですが──バンド系ではBACKNUMBERなんかも当時の女友達の嗜好に近しいかも。同人サークルの集まりでの交遊関係が中心だったから彼女たちの音楽嗜好にも歌詞世界重視の傾向はあったと思う。なので歌詞に定評があるこのユニットは当時の僕ならきっとチェックしてたはずなのだが──こちらも具体的な曲をほとんど知らなかったりする。FMラジオとかで頻繁にかかってはいるはずなのだが、あまり記憶に残ってないのである。やはり音楽ひとつとってみても、私的交流とのタイアップというのは大事なんだな、と痛感する次第である。 そんなわけで、まだ見ぬキミ、あなたの好きなそのアーティストの魅力を僕に教えてください。昔みたいにあの男性ボーカルやその男性バンドにハマってみたいww |
次の九州場所で新入幕が決まっている御嶽海。学生相撲出身で鳴り物入りで幕下15枚目付け出しデビューし、幕下と十両をそれぞれ2場所ずつ、計4場所で通過しての新入幕である。もちろんまだ大銀杏どころか丁髷も結えないザンバラ髪である──出羽海部屋からはずいぶん久しぶりの新入幕力士、また長野県出身力士としては40年ぶり以上の新入幕力士とあって、各方面の期待はさぞかし大きいことだろう。実際学生時代の実績も実力も相当なものであり、少なからず将来が期待される…、と思いたいところなのであるが── これまで、こんな感じで一体何人の新鋭たちに将来の横綱大関を期待してきたことだろう…。10代で幕内まで駆け上り横綱昇進の年少記録さえも期待された稀勢の里は、大関昇進前にももたついてやっとこさ、という感じであったが大関になってからももう何年も経っており、未だに賜杯すら一度も手にすることもないまま来年には三十路である。妙義龍も関脇に上がってから伸びが止まってしまい、最近は平幕で相撲を散ることも多くなり、千代大龍は怪我のために一度は十両にまで落ち、再入幕後も平幕中位以下でパッとしない、その学生時代からのライバルである常幸龍も幕内と十両を往復してる状況。千代鳳も平幕中位から下位にくすぶったまま── 十両から新入幕をうかがう若手でも、これも久々の10代新十両の阿武咲が関取昇進以降数場所経過しても十両中位以下の上下に甘んじてるし、輝も新入幕目前での足踏みが数場所続いている。石浦にせよ天風にせよ、もっとトントンと入幕しててもいいように思うのだが、今の状態を見てると、ヘタすると十両止まりのまま終わるのではないかとさえ思えるような停滞ぶりである…。 そして遠藤、この人はマジで横綱を期待されてたのだが、幕内上位まで上がったあたりから伸び悩んでるところで土俵上の大怪我。そこは実力の賜物か重傷を押して幕尻で勝ち越して踏みとどまり十両落ちは免れたものの平幕でくすぶってる状況で、上り調子の頃のあの勢いは感じられない。ルックスで女性人気が高くCM等での露出が多い分、余計に土俵でのパッとしなさがギャップとして際立ってる気がする── そんな中、御嶽海のこのスピード出世も、もしかしてまた…、なんて余計な心配をしてしまう。まだ新入幕の土俵は来場所のことだし、まだ期待通りか期待外れかを判断する以前の段階であるはずなのに、今までのホープがことごとく上述の状況なだけに──学生出身力士は元々相撲の実力が鍛えられた状態で入門してくるから出世が早いのは当然。しかしその地力をさらに高めるために精進しなければ、元々の地力レベルのところで止まってしまうのは必然。そして学生たちは元先輩後輩の力士が多数おり、学生時代の延長でのなあなあノリになりやすく、稽古がおろそかになりやすい状況がある。なので本人の心がけが大事になってくるわけで、御嶽海はどっちかな? というのが現時点で未知数なわけだ── あと、もうひとつの懸念材料は、出羽海部屋が、かつては名門中の名門とはいえ現状関取がおらず、そんな中で幕下付出デビューの彼は入門早々から部屋頭ということ。そして現師匠(元小城ノ花)は現役時代は前頭2枚目が最高位で幕内と十両の往復に終始する力士だったこと。自分よりも強い親方や兄弟子にガンガン厳しく鍛えられると状況には最初からないわけである。この環境で自分を見失うことなく相撲道に精進して実力を伸ばしていくことができるか──それで未完のまま終わったり、早々とドロップアウトしていったりした元有望力士が過去にも何人もいただけに「今度こそは大丈夫なんだろうね」という思いを禁じ得ないわけなのである…。 ま、それは現状はもちろん、来たる九州場所を見ただけでも判断できないことなんですけどね。とにかく今は現在の素質と実力を見て、素直に将来を期待することにします── |
この問題の概要は以下の通り──昨年夏、産経新聞のウェブサイトに同年韓国フェリー事故当日、朴大統領が補佐官と密会したという朝鮮日報や証券街の報道を掲載したところ、ソウル中央地検が産経の前支局長を出国禁止にし、韓国外交部長官がミャンマーでの岸田外相との会談で遺憾の意を伝える。韓国外交部報道官は「流言飛語で国家元首の名誉を毀損した極めて重大な事案」と批判。ソウル中央地検は前支局長を情報通信網利用促進および情報保護などに関する法律上の名誉毀損で在宅起訴。これに対して日本側も菅官房長官が「報道の自由、日韓関係の観点から極めて遺憾だ。国際社会の常識と大きくかけ離れている」と批判するが、そんな中前支局長の出国禁止処分は3か月延長される。二階総務会長は朴大統領と会談の際「前支局長が自由に日本に渡航し家族と会えるようになることを望む」という安倍首相の意向を伝えるが朴大統領は「問題は司法の場に移っており、司法の判断に委ねるしかない」と答える。前支局長は今年の春になってようやく出国禁止が解除されて日本に帰国したが、韓国にて公判は開かれ、前支局長に対して検察側は懲役1年6ヶ月を求刑(←今ここ)、判決は来月に下される── 産経編集局長の「問題の記事は韓国国会でのやりとりや朝鮮日報コラムの紹介が中心であり、これを理由に名誉毀損容疑というのは理解に苦しむ」とのコメントや日本ペンクラブの韓国検察への憂慮、日本外国特派員協会の「韓国検察当局の措置を懸念」とするルーシー・バーミンガム会長の声明発表、米国務省報道官の「我々は言論・表現の自由を支持」と強調し、韓国の名誉毀損に関する法律について、国務省の人権報告書での「懸念している」との指摘、仏日刊紙『ル・モンド』の表現の自由に関する韓国の言論の現状への懸念、国際新聞編集者協会の「言論の自由を著しく傷つけている。刑罰上の名誉毀損の適用は国際法の基準を逸脱している。政府関係者や公人は批判に対して寛容であるべき」と述べ、韓国当局は前支局長に対する全ての処罰を即撤回すべきだとの要求、田原総一朗氏の「産経の前支局長が在宅起訴される一方、引用元の韓国新聞社も書いた記者も処罰されていないことに合点がいかないし問題」と述べ、韓国の言論の現状の海外メディアに及ぼす影響へのを危惧と同時に韓国の司法のあり方への疑問、などなど、日本のみならず他の欧米諸国の反応も含めて、どれもこれもごもっとも過ぎる── 表現や報道の自由とか名誉棄損の問題とか、それが一国の大統領という公人にも適用されるものなのかとか、疑問は多々あるが、しかしその前にそもそも産経新聞はすでに他によって書かれて公表されてる記事を引用紹介したのであって、産経新聞が問題の記事を書いたわけではない。名誉棄損を問われるべきは引用元の新聞であって、産経の行為はせいぜいそれの幇助、いやそれすらも問えるかどうか甚だ疑問なのである。少なくともそちらが不問で産経にだけ罪を問うスジのものでは全然ないように思えるのだが、それって日本の法律の感覚であって韓国の法律では違うのだろうか? 前出の編集局長もインタビューで答えていたように、こんなんで公判が開かれて論告求刑にまで至ってることに驚きである。これで求刑通り有罪判決が出るようなことになったら── それにしても、報道の自由は民主主義の基本中の基本であり、それに国家体制としてNOを突きつけようとしてる相手国に対して、日本のあの団体やこの団体の声が一切聞こえて来ないのだが──安倍首相なんかよりもこっちの方がよっぽど問題だしこっちの方がよっぽど許せない、普段の彼らの物言いからしたら絶対にそうならなければいけないはずなのに…、ねえ、なんで? 産経だから? |