今年も紅白の出場歌手が発表された。これまでも何度か書いてることだけど、J-POP系からは若いファンへの媚び売りのためのローテーション的な初出場歌手が毎年出ている。前年と今年で活動や話題性に顕著な差はさほどないのに何故昨年は落選で今年は選ばれたのか…、なアーティストが。で、多くはその1回きりで翌年さほど人気が落ちてもいないのに落選するという──最近では若いファンだけでなく中年層にも媚び売ってるのか、年季の入ったベテランアーティストの今さらな初出場もちょこちょこ見られるようになった…。 今年の顔ぶれで言うと、若い方ではSHISHAMOとWANIMA。いずれも携帯会社のCM曲でよく耳にはしたけれど、曲はともかくアーティストの知名度が全世代的に浸透したとは言えないだろう。若い世代のファンでも、知ってる人は以前から知ってて一定の支持は得ていたのだが、それが今年そこまで大幅に新規拡大したのだろうか? ベテラン組ではエレファントカシマシ。結成30年という節目を記念して、なのかも知れないが何か取ってつけたような感じは否めない。他には竹原ピストルなんかもそれに類するだろうか。今回特に選ばれるなら今までに選ばれててもよさそうな年はいくらでもあったような気がする──三浦大知は若手とベテランのどちらに入れた方がいいんだろうw いずれにせよ彼にも同様の疑念を感じます。 前後の年との活動状況の差がどこに? というのもさることながら、他の選ばれなかった、そもそも名前すら上がらなかったアーティストたちとの差がどこにあるのか、それが皆目判然としないのである。例えばDAOKO×米津玄師。昨年のRADWIMPSと同じくらいには話題になってるはずだし、米津玄師の方は単体でもかなり支持を集めている。SHISHAMOよりはこっちなような…。あと今年母親である山口百恵の往年のヒット曲のカバーアルバムが話題になった三浦祐太朗とかはNHKの歌番組への出演頻度も今年増えたし、楽曲は年配層にも長らく浸透してる曲だし、少なくとも候補にくらいは挙がると思ってたのだが…。 そんな感じで、若い世代へも年配世代へも単に媚び売り&数合わせみたいに思えるアーティストチョイスが、今年だけでなくここ数年、毎回のように見られるような気がするわけなんです──そうなると、来年あたり白羽の矢が立つのは? 秦基博、backnumber、家入レオあたりか? ベテラン組だと久保田利伸とか永井龍雲、なんて可能性もあるのかな? その場合、選考理由としてはどういったポイントを評価して、なんてコメントするのでしょうかね、NHKさんは。 ──しかし、今回は演歌系アイドル系でも、丘みどりとかLittle Gree Monsterなんかもそれらしい初出場組だよな。昨年ダメで特に今年、というのは何ゆえなのか。逆に文句なしの飛躍を引っ提げての初出場って誰かいるっけ? …何か、紅白自体もそろそろ潮時なような気がします。 |
「大切なのは『いかに正しいか』ではなく『いかに改めさせるか』だとわたしは思っています。あなたの言い方は『いかに正しいか』に聞こえるのです。だから反感を買ってしまうのですよ」ふた昔以上も前、今よりも若かった頃、とあるサークル関係で当時やりとりのあった女性から、その頃僕が抱えてたある問題での議論に関してそのようなお説教を手紙でされたことがある。これ自体はまあ確かにおっしゃる通り、その主張そのものに異存はない、僕も同意見である── 問題はそれを言った女性がこちらの人だということ。僕の方は決してただ闇雲に正当性を主張してるのではなく、そう考えるに至った周辺事情に関連する参考資料を提示して、それを参照していただくことによって理解を促そうとしてたのだが、そのたび「そっちの話はわかりませんが…」で僕との『論』の範囲から出ようとせず、その(裏付けを見ずに)『論』に対して(自分も裏付けを示さず)『論』で返すばかりの人だったから、正直「あなたが僕にそれ言う…?」としか思えなかったわけだが…。彼女の意見こそ僕には『いかに正しいか』の主張にしか思えず、結果として反発しか感じなかったわけだ── もちろん『正しいこと』(それがホントにそうなのであれば)は『正しいこと』として説いていかねばならないわけだが…、それが広く理解されて周囲が変わっていくためには、それ相応の手段というか手順を踏まえて段階を踏むべきだ、というのもまた『正しいこと』なのではなかろうか──『いかに改めさせるか』の手順を踏むことを面倒がって一足飛びに『いかに正しいか』の主張を繰り返し、あまっさえ『正しくない』(と自身の主観で考える)相手を罵倒して非難するようなことばかりしてては、そりゃそんな相手の言うこと聞いて改めようなんて誰も思いませんわな、こちらに書いたことにも通じるけど…。 熊本市議会で、議場に乳飲み児を連れて議会に参加した女性市議に対して賛否両論が渦巻いてるようだが…、主張そのもの正邪を論じる以前に、現状の規約で認められていない行為を、それが改められない状況で強行という行為が、しかも職務として規約を決める側の者がその職務の場で行う手段として決定的にダメでしょう。世論には支持の声が少なくないようだけど、理解を求めて『改めさせる』相手は議会なのですよ── 暴行問題での貴乃花親方の言動もまた然り。主張そのものが『正しいこと』なのだとしても、改めさせるべき相手が相撲協会である以上、理事=協会の首脳部の一員である自身の立場が不利にならないことも必要(親方本人だけでなく純然たる被害者である愛弟子貴ノ岩のためにも)なのであって、対立姿勢を見せるというのは手段的にはどうなのだろうか…。 『いかに改めさせるか』の手段を練ることが何か策略めいた汚いイメージを『いかに正しいか』の人たちは持ってるのだろうか? "正義を以て正義を制す"みたいなことになってしまっては元も子もないのだが…。 |
長年の大相撲ファンを自認し『おすもう』カテゴリで大相撲をテーマにいろんな記事を書いてる立場としては、やはりこの話題をスルーしたままやりすごすわけにはいかないよな。正直気が進まないのだけど…。 はい、言うまでもなく日馬富士の貴ノ岩への暴行問題の話です。九州場所3日目の朝、一部スポーツ紙にて報道されて公になったこの一件、貴乃花親方から被害届が出されて警察が捜査する事態に発展するも、同席した関係者の証言だけでなく診断書の内容も二転三転したり食い違ったりを繰り返し、しかし事件がモンゴル人力士たちの集まりの中で行われたということで日本人には窺い知れないニュアンスなども絡んでたりしてイマイチ真相にたどり着けないことやら、そんな中で被害当事者の貴ノ岩が一切沈黙していたり、事を外部に公にした貴乃花親方自身もその後沈黙に転じたり、その貴乃花親方は協会理事それも巡業部長の立場でありながら、巡業中の出来事であるこの一件を協会に報告する前に外部に出すなど、自身の立場を考えると不可解極まりない行動に出ており、そんなところからこの一件を協会内部の権力争いに利用してるのではと疑う向きもあったりして、いろんな要素があっちからもこっちからも複雑にもつれ合いからみ合いで、現時点では何が何だかサッパリ…、というのが本音であるのに加えて、短期間に次々と新事実が出てきたり警察の動きに進展があったりと、今日現在での事実を基に記事を書いてUPした次の日には全然違う真相が判明したり、なんてことがいくらでも起こり得る今の状況では、ヘタなことも書けないので── ニュースの受け手である大衆は、相撲協会組織内部の人間模様やらモンゴル民族の気質のことやらの細かいニュアンスまではなかなかわからないだろうし、何年か前の新弟子暴行や野球賭博、大麻など一連の不祥事のイメージで「角界の体質は何も変わってない」と一面的に考えてしまうのも仕方ないし、また単純にそれで片付く話ではないとも断定できるかもわからない段階であるから、内部の相撲協会と外部の警察の両方の調査の進展を見守るしかないのが現状である。警察側は年内にも書類送検する方向でいるとも言われているが、その先検察がどう判断するか、その後協会としては、関係者の処分を含めてどう対処するのか──外野の我々的には現時点では黙って推移を見守る他ないのである。 …しかし、これが『モンゴル会』なるモンゴル人力士の集まりの中で起こった事件というのは印象的にちょっとマズイな…。ワイドショーによってはモンゴル人の気質と酒癖について分析されてたり、大物モンゴル力士OBそれも決してよくない辞め際だった元関取が2人ほど、外野から的を射てると言えないかつ協会関係者を逆撫でしそうなコメントしてたり…、それでなくても上述のOB2人の他にも一連の八百長問題の時にもイモヅル式にモンゴル人力士が引退勧告を受けたりなど、関取の中でも一大勢力になっているモンゴル人力士に対して、よくない印象を持ってる人は協会内部にも好角家にも少なくないと思われるだけに、今回のこの一件が引き金になって、協会が外国人排斥の方向へ逆行しないかな? という懸念を禁じ得ないのである。日馬富士さけでなく他のモンゴル人横綱も全盛期は過ぎており、照ノ富士がケガで潰れ、逸ノ城もパッとしないというこの機会に、という感じでモンゴル人を含む外国人力士への締め付けがますます厳しくならなければよいが── そんなわけで、今回の日馬富士の行為は大相撲や相撲協会だけでなく、他の外国人力士や、日本での角界入門を目指して母国で相撲に励む少年たちにとっても「とんでもないことをしてくれたな…」と言わざるを得ない。本人の進退は追って何らかの沙汰がくだるであろうが、それだけでは到底取り切れる責任ではない、その重みを横綱である彼はどこまでわかってたのだろうか── |
はい、御存知『ドクターX』で米倉涼子演じる大門未知子の決めゼリフである。出世欲や名誉欲などが渦巻く大学病院の中で、アルバイト医師として組織に縛られずに自らの叩き上げスキルだけを武器に、周囲の医師たちとぶつかりながら難手術を次々と成功させてゆくという、テレ朝系の人気シリーズである──実力も実績もある大学病院の医師たちを前に「わたし、失敗しないんで」と言い放ち、実際に他の医師たちが尻込みした患者の手術を、時にはカンファレンスでの決定にそむいて自らの診断に基づいて行い、実際に結果を出して行く姿は、ドラマとして観る分には爽快ではあるが…。 もちろん言うまでもなく、ドラマのストーリーで作られたキャラクターだからこそ有言実行なストーリー展開も成り立つし、この決めゼリフもサマになるわけで、実際にこんなセリフを吐く人間がいたら、僕を含めて周囲の人は「何だこいつは」と胡散臭い目で観てしまうことだろう──医療の世界に限らず、ビジネスでもスポーツでも建築でも板前でも、どんな仕事の分野でも、学生であれば勉強やクラブ活動でも同じである。 かつての職場で上司が「失敗もしない奴は仕事をしてない奴だってことだから」と常々言っていたが、実際に僕が後輩や部下を持ち、指導する立場になってみて、あの時の上司の言葉は真実だな、と思う。『失敗は成功のもと』という諺もあるように、仕事であれ勉強であれ、失敗の経験を糧にして、そこから学んで身につけていくものであり、未経験の新しいことに挑戦すればするほど失敗のリスクも高くなるし、また実際の失敗体験も増えてくるものだ。逆に言えば失敗体験の数ってのは、新しいことに挑戦した数でもあり、研鑽して知識を重ねて行った数とも言えるわけだ。最初っから失敗しないで成功する人間なんていないのだから、失敗しないってことは、ああこいつは何もしてない奴なんだな、と考えるのは自然なことであろう。受けない入試には落ちない、結婚できなきゃ離婚もできない、ペーパードライバーはゴールド免許…。 ドラマでは出てこないけど、大門未知子だって現在の大学病院にアルバイトで来るまでの間に、小さな失敗体験はいくつかあったはずだと思うよ。もちろんそれによって屈辱を味わったことも。それらの経て現在のスキルを身につけたであろうことは、ドラマに描かれてなくても想像には難くないだろう。作り物のドラマといえども、その辺は斟酌して観るべきではなかろうか──「わたし、失敗しないんで」なんてセリフはよほど自信がなければ吐けないし、最初から苦労も何もなくできてきたことに自信が生まれるはずもない。単にスキルが高いというだけでなく、困難を乗り越えて身につけたスキルであることも含めての自信であろうから。 ま、結論としては何のことはない「失敗を恐れずにチャレンジしようぜ」みたいな陳腐なものになってしまうんだけど…、でも「わたし、失敗しないんで」と自信もって言い切るためには失敗体験も必要であることは、間違いないと思う。そこんとこ勘違いしないようにしなければ、ね。 |
先月、某地方の公園内で女性の遺体が発見されたというニュースが報じられた。第一報の時点では身元確認を急いでいます、という状況であったが、その何日か後に被害者の身元が判明して実名が報じられたのだが、下の名前が、小学校の頃にずっと片想いしていたクラスメートの子と同じだった── 決して珍しい名前ではないけど上位にランクされるほど多い名前でもないし、その名前だと普通は別の漢字を書き、同じ漢字の人は少ない。しかも年齢も僕と同じ…。苗字が違うのは僕と同年代なら結婚改姓で珍しくないし、故郷とは全然違う地方に住んでることも旦那さんの地元がそこだったり旦那さんが転勤族とかなら全く不思議ではない。外傷の状況から事件よりは事故の可能性が高いようで、身元の詳細や顔写真はもちろん、この件の報道自体それ以上深入りされることはなく収束した── その子の消息は高校までくらいしか知らず、もちろんずっと音信不通(20年以上前に一度地元で小学校の同窓会が開かれたことがあったが幹事の人も消息がつかめず「どなたか御存知ですか?」という呼びかけをしていた)で「もしかしてあの子?」な不安はしばらく解消されることはなかった──ネットのニュースをいろいろ当たったところ、御両親と息子さんが同居ということらしいので、その子の可能性は低いとは思うが、実家ごと故郷を離れてそっちに移住してる可能性もゼロではない(であれば上述、幹事にも連絡つかないというのも宜である)し、同居者の中に旦那さんがいないようだから離婚もしくは死別後に現姓のまま子供を連れて親元に戻ったとも考えられる。 そんなわけで「もしかしてあの子が?」な不安は現在も完全に消えてはいないけど、これ以上追究して調べる手立ては僕にはない…、ことはないが不審死という状況でそれやるのは甚だ不謹慎だ── そんな"甚だ不謹慎"なことを報道メディア、とりわけワイドショー系の番組はしばしばやっており、現在進行形でもそれが行われて物議を醸してる──そう、座間市のアパートで9人の遺体が見つかった事件である。被害者全員の身元判明後から、全員の実名や顔写真、家族構成だけでなくバンド活動や芸術家志望といったようなプライベート情報がどんどん報道されている── 犯人がそれら被害者を誘い出すきっかけにそれらの情報がなってる可能性は高く、事件の全容解明という意味では決して不要な情報ではないのだろうけど、報道を見てると必要最低限の域を超えてる感も否めず、犯人が自供で猥褻行為を示唆してることもあり、遺族の方々から「実名報道やめて」という要望が出てるにも関わらずの連日のこの報道は、やはり不謹慎の謗りはまぬがれまい…。 ──しかしながら、各被害者いずれも遺族以外にさまざまな人間関係というものはあるわけで、家族の方とも顔見知りのような人ばかりでなく、例えば転校して遠くの街に移り住んだ元同級生とか所属してたバンドのファンとか、関係そのものは薄くても本人のことを案じてる人はいくらでもいる。それらの人たちは被害者の身元が分かって報道されることによって密かに哀悼したり、逆に「あの子じゃなかった…」と安堵したりしてることもあるに違いない。だが身元が伏せられたままではそのどちらもできないまま心配ばかり募り、しかし不謹慎な詮索をするわけにもいかず、もどかしさを持て余し続けるわけだ。そんな人たちを「おまえらに関係ないだろ」と一蹴するのもちょっと…、って気がするんだよね、上述の経験をこないだしたばかりの僕的には。 とはいえ加熱しすぎだなと思える報道も少なくなく、被害者情報の報道内容の線引きは確かに悩ましい問題である──犯人の容疑は今のとこ死体遺棄のみ。殺害の有無やその手口、共犯者の有無などが解明されるにつれて、9人の情報公開の線引きがどうだったかの結論はまた変わってくることだろうが…。 |
横浜と言われて多くの人が思い浮かべるのは海に面した港町風情やら外人墓地とか山下公園などのオシャレな観光スポット、中華街などのグルメスポット…、ともかく異国情緒あふれる海辺のオシャレな街、というイメージであろう。広い横浜市域の中ではほんの一部のスポットだけが多くのよそ者にとっての横浜であり、戸塚区や瀬谷区、栄区あたりはおそらくその存在すら眼中に入れられてなかったりするのではなかろうか──そこに暮らす人たちの生活の匂いを街から感じたいというコンセプトの『いつ街』カテゴリ的には長津田かあざみ野あたりの東急田園都市線か、上大岡か弘明寺など京急線の沿線を取り上げたいところだが、でもせっかく横浜市内の駅を取り上げるのなら、やはり上述のいわゆる"港ヨコハマ"を感じたいではないかw そんなわけで、それら観光スポットの集まるエリアに最も近い駅はというと、もれはもちろんみなとみらい線の元町・中華街駅だろうけど…、地下駅かつ地上に出るともう観光地一色というのも何だし、やはり『いつ街』だから生活圏としての街並みを見たいわけで──みなとみらい線はそれまで桜木町止まりだった東急東横線が元町方面に乗り入れるために桜木町駅を廃止して別会社として開設された路線で、できたのは21世紀になってからだったりする。ではそれまでは中華街への最寄りはどこだったかというと、JR根岸線の石川町駅。横浜駅からは桜木町、関内を過ぎて次の駅である。こちらも副駅名で『元町・中華街』を名乗っているが、そちら方面へは1キロ弱。十分歩けるとはいえ、すぐそばとは言えないだろう。 駅自体はホームも駅舎も決して大きくはない、首都圏のJR駅としてはありふれた感じの駅だが、出入り口がガード下かつ道路に面してるためか、照度的には明るさに欠ける感じで、駅前繁華街らしきものも見当たらず、海辺の雰囲気も全くない。近所には山谷、釜ヶ崎と並ぶ日本3大ドヤ街のひとつ、寿町があるらしいが、目の前に大中小の工場やその向こうに高速道路の高架橋が広がる光景は全体的にどこか寒々しく殺伐とした印象で、かつて中華街方面への観光の玄関口だったというのがにわかには信じられない。現在でも近所にフェリスやら共立やら多くのの名門女子中、女子高の最寄で『乙女駅』とも呼ばれてると聞き、つい治安が心配されてしまう感じの、そんなたたずまいの駅周辺である…。 しかし、そんなどうにも明るくない感じの光景は中華街方面へと歩を進めていくにつれて急激に薄れていき、見る見る照度が上がって「これぞ横浜!」な風を感じ始めたら、もう中華街、そのすぐ先には山下公園、そこからはさまざまな船が行き交う港が大きく開けている──貨物ターミナルも近くにあって、貨物船の姿も少なからず見られるのだが、ここでみるそれらの風景は川崎の東扇島や鶴見の大黒ふ頭のそれとは全く違ってロマンティックに思えてしまうのは、やはり"港ヨコハマ"の成せるワザなのでしょうか…。 ちなみにJR石川町駅からは隣駅である関内駅までも十分歩ける。関内は横浜市内で最も賑わう繁華街であり、多くの商業施設が集中し、横浜市役所や横浜スタジアムの最寄りでもある。市内有数の観光スポットへも商業繁華街へも、官庁やスポーツ競技場へも至近距離にある石川町駅。それだけに、駅近辺の光景の、それらスポットとの落差が余計に気になってしまうのかも知れない──横浜市内全体として見れば決して特殊ではない、鶴見区内や金沢区内、保土ヶ谷区内にも似たような光景は結構見られたりするんだけど、ね…。 そうしてみると石川町駅周辺って、横浜市のいくつもの顔を全部まとめて見せてくれてる、とも言えるかも知れない。観光スポットとオシャレスポットと中心繁華街と官庁街とエンタメスポットと一大ドヤ街とお嬢様学校と工業地区と交通大動脈と物流拠点…、これだけのアイテムをすべて徒歩圏内の近場で集約してる街なんて、日本全国探したってそうそうないぜ── |
先月あたりから急に寒くなってきた。関東では、10月としては46年ぶりに最高気温が15度を下回って、連日の雨模様も重なって寒さMAXであった。そのわずか1週間前、同じ10月には30度超えの真夏日を記録したことを考えると、気温のこの乱高下は体調管理がなかり大変である── で、冬はまだこれからである。寒さが本格的になってくると、高血圧の人にとっては心筋梗塞や脳出血が心配になってくるわけで──例年、冬場になってくるとこれら心臓や血管系の発作で生命を落とす人が増えてくるのだが、それら症状が起こる場所として多いのは浴室、そしてトイレである。それらの場所は暖房の効いた部屋とは違って温度が低く、その温度差が心臓の負担を増幅させるわけだ。これが外出の場合だと、普通はコートなど厚着するので逆にダメージが少ないのだが、普通トイレ行くためにもう1枚セーター来たりはしないし、風呂場に至っては逆に服も下着も脱いで裸になるわけだから、温度差に心臓がびっくりして縮こまってしまうのは、まあ必然ではある。 で、表題である。トイレの場合はそんなふうに心臓が緊張してる状態で、排便のために下腹に思いっきり力を入れて気張る。便秘気味の人はもちろんだけど、こちらに書いた通りこの年齢になっても便秘知らずの僕であっても、下痢ではなく正常な腹具合の時には排便の時にはそれなりに気張るし「う~ん!」と気張ればて顔が紅潮して血管が広がって「ああ、かなり頭に血がのぼってるな」って感覚はある。これ以上力入れて気張ると、あるいは脳の毛細血管の1本や2本どうにかなっても不思議はないな、なんて思うことは、よくあります。排便という行為は普通に脳の血管にも心臓にも激しい負担をかけてるんだな、と思います── それでも昔の田舎の家なんかは風呂もトイレも母屋の外にあるのが当たり前だったから今よりもうんと冷える場所だったはずだから、それに比べると心臓への負担はかなり緩和されてるはずなのだが、トイレや風呂場での発症の割合が昔よりも減ったという話はあまり聞かない。食生活が欧米化して糖質や脂質の摂り過ぎで血管が常時負担をかけられてる分、温度差への対応力も弱まってるってことなのだろうか──で、野菜の割合が減って食物繊維が不足して便秘気味になってる分、排便時にかけなきゃいけない力は逆に増えてしまって、ますます血管を切りやすい、ってことなのかな? 循環器系の病気というと、食生活から来る動脈硬化とか高脂血症とか、そっち方面にばかり注意が行きがちだけど、寒い季節の室内と室外の温度差というのも莫迦にはできないわけだ。省エネ時代の昨今、暖房控え目で着るもので調節、なんて呼びかけがよくされてるけど、これってトイレや風呂場との温度差を縮めて発作の可能性を減らすという観点でも有効かも知れないね──省エネで、光熱費節約だけでなく医療費の節約にもつながれば、エコライフ万々歳ではないですか。 |
東名高速道路で、サービスエリアの走行路を塞ぐように路駐して通過する車に注意されたのに腹を立て、相手の車がサービスエリアを出た後を追いかけて行き、追い越して前へ出て進路をふさぎ、車線を変えるたびに同様に前に出て邪魔を繰り返した末に追い越し車線で停車し、相手の車も停車を余儀なくされたところで車から降りて相手の車のところへ行き相手も車から降ろして暴言を浴びせてる、そこへ後ろから走行してきたトラックが衝突し、相手の車の家族が2人死亡、自分も軽傷を負うという事故、先日来ニュースで報じられてるように最初に進路妨害をしたこの男は逮捕され、追いかけて追い越し車線上で車を停めたことも相手に暴言吐いて脅したことも認めている…。 で、この男の逮捕容疑なが自動車運転過失致死傷と聞いて「え?」と思ってしまったのである──過失致死傷はむしろ、実際にぶつかったトラックであろう。追い越し車線上というあり得ない場所とは言え、進路前方に障害物があるのに気づかなかったのは、前方不注意は免れないから。こと交通事故という意味においては、今回逮捕されたこの男は最悪でもトラックの運転手と同罪くらいだろう。その意味では、自動車運転過失致死傷が適用されたというのは、繰り返すがこの件を単なる交通事故として捉えればかなり重いと言えるかもしれない──しかし僕が「え?」と思ったのは『重いんじゃないか?」ということでは全然ない。その逆である。 ニュースでこの件を知ってる人はみんな思ってることだろうけど、これは単なる交通事故なんかではない。そんなとこで停まれば交通事故が起きるに決まってるじゃんか、な場所で車をムリヤリ停めさせたわけだから往来危険妨害罪とかにはなるだろうし、最低でも暴行罪とか脅迫罪、強要罪なんかは成立するだろう。実はこれだけでも過失運転致死罪よりも刑罰は重いはずである。未必の故意による殺人罪を、という意見はさすがにそこまでは…、と思うが、それでも感情論的にはそのくらいにはなって欲しいのは人情ではなかろうか──実際にぶつかったトラックのことは今回ほとんど話題に上らないが、こちらの運転手も前方不注意の落ち度はあれど、通常なら起こすはずじゃなかった死亡事故の当事者になってしまったわけだから、亡くなった夫婦とその子供たちだけでなく、こちらも人生を狂わされてしまったよな…。 しかし、こんなふうに後続車や並行車両にケンカ売りたがる狼藉ドライバーって、結構その辺の道路にウヨウヨ走ってるんですよね…。普通は殺しまではしないと言っても、この男だって殺す意図まではなかっただろうし──自分で運転するしないに関わらず、車で移動するというのは、いつそういう狼藉ドライバーに当たってそいつにからまれ、結果として最悪の悲劇が起こる可能性は、誰だって常にあるということなんです。しかし、そういうのって、どんなふうに気をつければいいのやら…。 |
エリック・クラプトンの『いとしのレイラ』という曲。イントロからカッコよく、ハスキーボイスでワイルドな歌唱も大人っぽくて渋い、そして全体的にメロディにインパクトがある。やはりオトナの男はカッコいいなぁ、なんて思いながら長年聴いてたのだが…、日本語訳で歌詞の意味を知ったのはつい1年くらい前のこと──え? 何これ!? ダメになった元カノが忘れられないと未練がましく叫んでるばかりの女々しい歌だったの? うっそぉ、なんか幻滅──と、洋楽の場合は歌詞が英語で、語学に堪能な人でもなければ歌詞の意味まで理解して聴いてない人も少なからずいて、何となくメロディと雰囲気で異なった印象を持つのはありがちだろう。しかし、日本語歌詞のJ-POPではどうだろうか? これからの季節、いやでも街角やラジオで耳にするだろう山下達郎『クリスマスイブ』。歌詞をよく読むと、あれって好きな女に告白する度胸もない優柔不断男のクリぼっちソングだぞ。よくクリスマスの定番になったな──夏にはラジオ番組の夏ソングリクエストに大黒摩季『夏が来る』を「夏と言えばやはりスカッと晴れた空の似合うこの曲!」なんてメッセージを投稿してたアラフォーらしき女性がいて「おいおい」と思ったりもした。あれ、プライドが高いがために嫁き遅れて焦ってる女の歌だぞ。ちゃんと歌詞を聴いてる? てかカラオケでも結構歌われてる曲だから、モニター画面で歌詞の文言を目にすることも多いだろうに…。 こちらでも書いたが、歌詞世界が正しく理解できずに見当違いの印象をもって曲を聴いちゃってる人って多いよね。サザンなんかは桑田佳祐の歌唱があんな感じだから、例えば『ミス・ブランニューデイ』とか、流行のファッションにかぶれてマネばかりしてる女たちを皮肉って揶揄した歌であることに気づかず、当の揶揄されてる種類の女たちが「サザンいいよね~」なんて言いながら聴いてたりしたみたいだし。これが、さだまさし『関白宣言』や平松愛理『部屋とYシャツと私』みたいにジェンダー的なものがからんでくるとフェミ的な方面に歌詞が曲がってしまったりして厄介この上ない。つい最近槇原敬之『もう恋なんてしない』の歌詞の朝食のくだりで「キミが作ったなら文句言えたのに」の部分に「彼女が作るのが当たり前と思ってるような男、逃げられて当然だろ」なんて噛みついてる20代女性をネットで見た時はさすがに唖然としましたが──インストゥルメンタルではなく、歌詞がついてシンガーやボーカルが歌唱する以上、歌詞世界まで含めて楽曲なのだから、楽曲の作者が作品を通して表現してることは正しく理解して、それをきちんと踏まえて聴きたいものです。 ──僕は長らくアマチュアながらも文芸サークルで詩をメインに創作活動をしてきた人間なので、歌詞世界はついつい重視して聴いてしまいますし、言葉で表現されてるディテイルにもこだわってしまいます。でも、歌詞って作家の世界観を構成してる重要な要素でしょ? |
人間関係をやってれば、誰かの言動にイライラしたりカチンと来たりは付きものである。通常はちょっとイラッとなったくらいでその相手にブチ切れたりはしない。だけど、単なる会話内の言動の話でなく、例えば約束を破る行為が度重なるとか、大事なものを失うハメになるとか、職場で、家庭で、社会での立場が完全に悪くなってしまったとか、そこまでのレベルになってしまうとどんな温厚な人間でもブチ切れるし、時には復讐を考えたりすることもあるだろう。どんな人でも忍耐には限度があって、その限度の境界線を超えてしまえば「勘弁ならない!」ってなるのは人情である── だからこそ刑法犯には懲役刑や、もっと重い極刑がある。被害が人命であれ身体であれ財産であれ、何らかの被害を受けた立場の人にとっては、加害者が何も罰を受けない方が理不尽であろう。法治国家である日本では自力での制裁行為が禁じられているから警察組織や司法がそれを代行してるわけで、禁固刑であれ懲役刑であれ「勘弁ならねぇ」という被害者の気持ちの表れには違いないだろう。民事訴訟による賠償金などもそうだし、法律ではなくても、職場や学校での解雇や停学、減給なんかもそれに類するだろう── で、表題の諺『ならぬ堪忍するが堪忍』である。意味は読んだ通りで「堪忍できないようなことを堪忍するのが本当の堪忍というものだ」ということだが…、これ言ってしまうと本当の堪忍ができる人なんて誰もいなくなっちゃうし、法的でもそれ以外でも、ありとあらゆる懲戒処分というものが否定されてしまう。堪忍出来てる時点でそれはまだ堪忍のうちに入らないし、堪忍できないことを堪忍した時点で堪忍ができた=それは堪忍ではないってことであり、どこまでも言葉の矛盾が止まらなくなってしまう。この諺、僕的には到底納得できないし、それ以前に言葉として成立しないと思うのですが…? さらに詳しい解説だと「最後まで耐え通さなければ、それまでの我慢もむだになるという教え」と説いており、加えて「ここでの『堪忍』は『我慢する』の意味であって『勘弁する』という意味ではない」とも説明されている──「そうなのか」と一瞬納得しそうになるが、しかし最後まで耐え通すの「最後」ってどこだ? という疑問が生じてしまうし、堪忍と勘弁がイコールでないとなると、上述の法的な例では被害届出したり告訴したりして処罰を求めてる時点で"我慢"という意味での堪忍はしてないことになるし、当然勘弁もしていない──上述の通り誰でも忍耐に限度があるわけで、さんざん忍耐を重ねた人に対してそれを超えたことを以てその人を忍耐のない奴認定するみたいな言い方は、人としてどうなんだろうとさえ思えてしまうのだが…。 そんなわけで、表題の諺を看過することは僕的には"ならぬ堪忍"であり、もちろんそれを"するが堪忍"するつもりもさらさらございません──ごめんね、こらえ性なくてw |