人間関係をやってれば、誰かの言動にイライラしたりカチンと来たりは付きものである。通常はちょっとイラッとなったくらいでその相手にブチ切れたりはしない。だけど、単なる会話内の言動の話でなく、例えば約束を破る行為が度重なるとか、大事なものを失うハメになるとか、職場で、家庭で、社会での立場が完全に悪くなってしまったとか、そこまでのレベルになってしまうとどんな温厚な人間でもブチ切れるし、時には復讐を考えたりすることもあるだろう。どんな人でも忍耐には限度があって、その限度の境界線を超えてしまえば「勘弁ならない!」ってなるのは人情である── だからこそ刑法犯には懲役刑や、もっと重い極刑がある。被害が人命であれ身体であれ財産であれ、何らかの被害を受けた立場の人にとっては、加害者が何も罰を受けない方が理不尽であろう。法治国家である日本では自力での制裁行為が禁じられているから警察組織や司法がそれを代行してるわけで、禁固刑であれ懲役刑であれ「勘弁ならねぇ」という被害者の気持ちの表れには違いないだろう。民事訴訟による賠償金などもそうだし、法律ではなくても、職場や学校での解雇や停学、減給なんかもそれに類するだろう── で、表題の諺『ならぬ堪忍するが堪忍』である。意味は読んだ通りで「堪忍できないようなことを堪忍するのが本当の堪忍というものだ」ということだが…、これ言ってしまうと本当の堪忍ができる人なんて誰もいなくなっちゃうし、法的でもそれ以外でも、ありとあらゆる懲戒処分というものが否定されてしまう。堪忍出来てる時点でそれはまだ堪忍のうちに入らないし、堪忍できないことを堪忍した時点で堪忍ができた=それは堪忍ではないってことであり、どこまでも言葉の矛盾が止まらなくなってしまう。この諺、僕的には到底納得できないし、それ以前に言葉として成立しないと思うのですが…? さらに詳しい解説だと「最後まで耐え通さなければ、それまでの我慢もむだになるという教え」と説いており、加えて「ここでの『堪忍』は『我慢する』の意味であって『勘弁する』という意味ではない」とも説明されている──「そうなのか」と一瞬納得しそうになるが、しかし最後まで耐え通すの「最後」ってどこだ? という疑問が生じてしまうし、堪忍と勘弁がイコールでないとなると、上述の法的な例では被害届出したり告訴したりして処罰を求めてる時点で"我慢"という意味での堪忍はしてないことになるし、当然勘弁もしていない──上述の通り誰でも忍耐に限度があるわけで、さんざん忍耐を重ねた人に対してそれを超えたことを以てその人を忍耐のない奴認定するみたいな言い方は、人としてどうなんだろうとさえ思えてしまうのだが…。 そんなわけで、表題の諺を看過することは僕的には"ならぬ堪忍"であり、もちろんそれを"するが堪忍"するつもりもさらさらございません──ごめんね、こらえ性なくてw |