差別に対する昔と今の認識の違い-佛華をお供えしました | 大阪難波・超願寺のブログ

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最近、読売新聞で歴史アップデートという記事があり、楽しんで読んでいます。以前と異なり、現在ではこのような意味合いだと歴史の認識が変わったということのようです。歴史学に明るくないので、よくわからない点もありますが、いずれにせよ、歴史も新たな証拠が見つかったりすると認識が変わるものですね。

 

ただ、少し気がかりなのは(読売新聞の記事とは無関係ですが)、以前あった差別意識などを、現代から批判し、例えば顕著な功績のあった人でも、ああいう側面があったからとこれまでの評価を貶めるようなこともあるようなのです。

 

例えば、女性蔑視は当然批判されるべきですが、昔は普通だった面もあります。仏教はもちろん(否、異論もあるでしょうが)、浄土真宗は女性に対して比較的穏健な立場をとっており、不浄とされた女性も当然のことのようにお浄土に生まれ変わるとされます(不浄な女性と交われば往生できないからと、浄土真宗以前の仏教諸派では、妻帯はできませんでした)。ところが、葬儀の際に称える和讃は、以前は女性に対しては「変成男子の願を立て」という言葉が入っていました。すなわち、女性も一旦男子となってお浄土に生まれ変わるというのです。
 

なんと差別的でしょうか。もっと古く、お釈迦様の時代はカースト制度もあり、女性蔑視もある中で、この世は苦しいことばかりという感情が今より顕著だったのでしょう。だからこそ、もう輪廻転生なんてこりごり。苦のない世界に生まれ変わってそこでゆったり過ごしたい。そういう感情が湧くのも当然でしょう。
 

ちなみにお釈迦様は、極楽浄土の風景を、阿弥陀如来の存在を、一番弟子を相手に雄大に説かれました(仏説阿弥陀経)。
 

私が言いたいのは、こういう差別的な時代を、現代から批判するのは教訓として大事でも、「あいつは差別主義者だった、糾弾せねば」と歴史の業績を全てないものとする必要まであるのか、ということです。
 

もちろん、つい最近の、エンターテイメントに君臨していた某事務所のトップが、所属タレントに性的暴行を加えていたことが問題となったように、この世のルールに反していればもちろんその点では批判され、罰せられるべきでしょう。
 

ただ、時代背景として差別が普通に行われていたときに、それを取り立てて揚げ足取りのように批判するのは、違うのではないかと思うのです。昔は差別的なことをしていたんだなあ、今はしないようにせねばと教訓にするだけで十分なのではないかと。差別用語を言葉狩りのように否定するのも、違うと思います。こういう言葉遣いがあった、本当は良くないことなのだと知見として蓄積していくべきで、なかったことにしてしまったら、そこには人類としての成長がないかもしれません。
 

少し差別とは異なりますが、私は戦争は絶対反対です。少なくとも侵略戦争は。僧侶として、人を殺すことが正当化されてはいけない。戦争なら人殺しは英雄になれるなんて、真っ平ごめんです。個人的な話になりますが、私の祖父は当寺の住職でしたが、第二次世界大戦時に出征し、戦地で戦死しています。ですので、私は祖父を知りません。私の亡父も、おそらく祖父のことを知りません。少なくとも物心着く前に出征していますので。
 

私の理念として、また客観視した場合に、僧侶である祖父がなぜ戦争に加担したのかという批判的な気持ちも湧きますが、一方で、自己犠牲でもあったのではないかと感じます。子や孫の代まで紛争が続くくらいなら、自分たちの世代で終わらせるために戦地に赴こうじゃないか、そういう気持ちだったのかもと推察しているところです。もちろん、非国民と非難されてもじっと耐えて召集を断るなんてことが、時代背景としてなかなかできることではない面もあったでしょう。
 

私も、もういい年齢ですからもし戦争があっても召集されることはないだろうと思いますが、もし召集されたら、気合い入れてまで断れるかどうか自信はありません(できる限り、息子たちも含め、出征しない・させないつもりではありますが)。ですので、身内を庇うわけではなくて、祖父が戦地に赴いたことを批判する気持ちは、ありません。
 

もう一言、違う視点から述べておきますと、法律の世界では、刑事責任については罪刑法定主義法律不遡及の原則がありますから、当時罪に問われなかったことは、後で法律が制定されて違法とされても罪に問われることはありません。また民事責任についても、当時の知見として、ある行為がその人の立場(例えば社長)から任務懈怠であったとは言えないのであれば、裁判に問われた後日の知見では任務懈怠であったとしても、やはり責任は問えないとする場合があります。
 

人間、いや、人間以外でも、両面ありますよね。蝿は不潔かもしれないが、腐ったものを(微生物とともに)分解する役目を担っているとも言えます。人間だって、いい面悪い面、両方持っている。差別心のない人なんているでしょうか。差別しちゃダメだよねという理性でそれを表に出さないだけではないでしょうか。強い面もあれば弱い面もある。表裏一体。それが人間、凡夫であるこの私なのです。
 

私は研究者でもあり、いろんな状況に対して批判的な視点も持ち合わせないといけません。とりわけ政治はややこしいですし仏教徒として中庸の立場でいたいとは思っておりますが、そうであるなら余計に、極端な発想などには批判することもあります。
 

とはいえ、基本的には、感謝の気持ちで暮らしたい。いわゆる天下人はえらく持ち上げられますが、その反面、戦に明け暮れたという点で私の心情からすれば尊敬すべきではない。また当時の差別意識を超えて阿弥陀様の下の平等を唱えた浄土真宗にあっても当時の男尊女卑の厳しい中で、完全な平等を成し遂げるのは難しかったでしょうし、それは差別がいくらしてもなくならない現代社会を見ていれば致し方なかったと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 

人間、誰しも批判されるべき点が多々あるのは間違いないとしても、私が今ここにある礎を気づいていただいたご先祖様や、直接のご先祖ではなくても多くの先達の屍(しかばね)の上に私の命がある。批判的な視点を持ちつつも、感謝の気持ちを強く持って、この世の生を全うしたいと思います。
 

さて、近々法要もあることなので、佛華をお供えしました。以前のものは、ここ最近の暑さでしっかり枯れてしまっておりました。いくつかの花の名前を確認し忘れたのですが、ご了承ください。店頭でひまわりが一際目立っていたので、それを主にしてみました。また施主さんのお母様の法要ですので、カーネーションもお供えしました。ヒバと菊は、レギュラーメンバーです。
 

 花は、差別なんかしないですよね。よほど人間より崇高な気もします。
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引用元:差別に対する昔と今の認識の違い-佛華をお供えしました