『お念仏を称える人としての生活』 | 浄土宗長福寺のブログ

浄土宗長福寺のブログ

埼玉県深谷市の浄土宗長福寺のブログです。おもに『今月の言葉』を毎月1日に公開します。

 お念仏は、大変功徳のあるものです。そして、阿弥陀様の極楽浄土へ往生させていただける素晴らしいものです。では、お念仏を称えながら、どのような生活を心掛けたらよいのでしょうか。

 

 法然上人の御法語に

念仏して往生するに不足なしといいて、悪業をもはばからず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をもはげまざらん事は、仏教のおきてに相違するなり。たとえば父母の慈悲は、よき子をも、あしき子をもはぐくめども、よき子をばよろこび、あしき子をばなげくがごとし。仏は一切衆生をあわれみて、よきをも、あしきをもわたし給えども、善人を見てはよろこび、悪人を見てはかなしみ給えるなり。よき地によき種をまかんがごとし、かまえて善人にしてしかも念仏をも修すべし。これを真実に仏教にしたごう者というなり。詮ずるところ、つねに念仏して往生に心をかけて、仏の引接を期して、病にふし、死におよぶべからんに、おどろく心なく往生をのぞむべきなり。

【念仏往生義・昭法全691】

 

訳:「念仏さえ称えれば往生に不足はない」などとうそぶいて悪事さえも憚らず、なすべき慈悲の行いを実践もせず、ましてお念仏に励まないようでは、仏教の定めに反するというものです。たとえば、父母は慈悲の心で良い子も悪い子も同様に育みますが、良い子のことは喜び、悪い子のことは嘆き悲しむようなものです。同じように、仏さまはあらゆる人々を哀れみ、善人も悪人も仏の世界へ導き渡してくださいますが、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しまれるのです。いわば、肥沃な土地に良い種を蒔けば良質の作物が実るようなものです。是非とも善人となるよう心がけてお念仏を称えなさい。こうした人を「真に仏教に従う者」というのです。要は、常にお念仏を称えて浄土往生に心を向け、阿弥陀さまのお迎えを強く願い、たとえ病に倒れて死が迫ろうとも、うろたえることなく往生を心待ちにすべきなのです。

【法然上人のご法語③ 対話編 279P 浄土宗出版局】

 

 お念仏をお称えすれば、必ず阿弥陀様の極楽浄土へ往生させてもらうことができる、とてもシンプルな教えです。そのため、その教えの意味を曲解する人が多く出ました。特に、先月お話ししたような一遍のお念仏で良いという考え、そして、今月の悪事をはたらいても構わないという考えです。

 法然上人は、阿弥陀様の大慈悲である本願に順ずれば、悪事を行ってしまったとしても極楽往生できるとされます。しかしながら、悪事を行い、慈悲の行いをしないのは、仏教の教えに反していると戒めています。そして、父母が子供を慈しみ育てる例えを示します。親が悪事をするような子でも嘆きながらも見放さず育てるように、阿弥陀様も悪事を行っても救ってくださること、しかし、良い行いをする子を喜び育てるように、阿弥陀様も善なる行いをする人を見れば、喜ばれるのです。そして、慈悲の心を持ち、善なる行いをするよう心がけ、お念仏を称える人を『真に仏教に従う者』であるとされました。

 私たちの世界では、善なることだけを行うことは難しく、心に邪な想いが芽生えてしまうこともあります。しかし、でき得る限り悪事を行わないように、阿弥陀様、御先祖様が自分の行いを見守られておられることを意識して、日々の生活を送りましょう。

合掌