美味しいって笑おう♡ -16ページ目

美味しいって笑おう♡

10年間におよぶ深刻な摂食障害から
それはそれは大きくて温かな学びと
愛の本質を知る喜びを体験しました。
すべてが必然すべてがギフトです♡
ここからありったけの「ありがとう」を込めまして。




美味しい!って笑おう☆~我慢とはバイバイ~

今日はとてもイイお天気。早起きして、地元周辺をお散歩。
春のにおいと呼吸を愉しみ、大切な人のことを想いながら歩いた。
ayuの“YOU”を聴きながら。


... 私はここ数年ずっと、≪愛≫について感じ考え学んできたように思
う。
目に見えないからこそ、時にその存在に疎くなったり、疑ってしま
ったりする。
そして、ついついカタチあるものに流され溺れてしまうこともある




あまりに非生産すぎる日常の中では、≪愛≫の存在が浮き彫りにな
った。
そして、人はそれなしでは生き得ないことを知った。


しかし、≪愛≫の本質はズレやすい。
もちろんその定義に正誤はない。でもやはり、ズレやすいと思う。


そのズレは、きっと人生を大きく乱す鍵にもなる。


ちょうどそのズレを自分の中に感じた頃。
ある尊敬する方から、教えてもらった言葉がある。



『魅力あるもの、キレイな花に心を惹かれるのは誰でもできる。
だけど色褪せたものを捨てないのには努力がいる。
色の褪せるとき、本当の愛情が生まれる。』(遠藤周作氏)


私は大きく心を揺さぶられた。
そう、これがずっと探し求めていた答えだった、と。

『花は咲き誇っている時より、枯れ落ちた時、いかに愛せるか?』

これが、≪愛≫の本質だ、と、私は自分自身に決めた。
もう二度と自分を見失わないために。


大切な人を、共に生きていきたい人を、私はそう愛したい。
そして、私もそう愛されたい。

そんな嬉しい気付きを、なぜか父と共有したくて、メールをした。
父はこう返した。
「月はくまなきをのみ見るものかは、って兼好法師も言ってるなあ
。」と。

ふと思えば、私はいつだって、こういう情緒を父と分かち合ってき
たなあと思う。
そして今、こうして変わらず、その共有を出来ていることが尊い。


春の風に包まれながら、大切な人を改めて大切に想った今日の午前

散歩道に散り落ちた桜の花は、優しさと柔らかさに満ち満ちて、私
には何より愛おしく思えた。


そして、すべて、これらの感情を経験するために、私は摂食障害をやりきっているのだ。




美味しい!って笑おう☆~我慢とはバイバイ~


一年が経ったのだなあ、と不思議な感覚さえする。



一年前。

私はインフルエンザにかかってくたばっていた。体重は28kg。

退院してから30kg弱を保っていたのに、2月末に母と大きな喧嘩をして、ゆるゆる体重が落ちていってたっけ。

まだ、祖母は生きていた。ちょうど入院して一週間くらい経ったときだったかな。だから、祖母もあの地震のことは知っている。病室のTVで見てたって、聞いた。


私は、高熱で頭がぐるぐるしており、地震が起きたとき、大きく船が揺れるみたいな感覚がしたけど、自分の熱のせいだと思った。でも、同じ居間にいた父、妹、お互いみんな目配せして、何となくわかった。

そしてそこから、この国が目まぐるしく崩壊していくような、恐ろしい報道の連続がやってくることとなった。


私たちは小学生の頃、阪神淡路大震災を経験しているから、地震に対しては昔からものすごい恐怖心がある。

少し揺れただけでも、挙動不審になるくらいに。だって、あのとき、一瞬揺れただけだったのに。そのあと、猛烈な揺れが約1分止まらなかったから。それを、体が記憶している。



改めて、『命』について、想った。



私は今ここに生きている。



それは奇跡。



私にはまだ祖母が亡くなったこと、よくわからない。

18日で一周忌。どこに行ったの?おばあちゃん。



でも、確かなことはあれから一年。私にはたくさんのことが動き、起こったと思う。

そして、今ここに生きているということ。



摂食障害。何度、この病気を恨んだだろう。この病気さえなかったら、と何度泣きじゃくっただろう。



でもね、今はっきりと言えることは、私には摂食障害を通して学ぶべきことがあるからなったんだ、いやならされたんだ、と。『生きること』をココロの底から味わい尽くせるように、そのためのステージなんだということ。



“体重”ってなんでしょうか?

私の重さ、ですね。

私の重さ、は何かの基準でしょうか?

それは、私の大切な人や愛や絆、それらのものとリンクするものでしょうか?

骨や血や内臓や筋肉、そういうものの重さ、それは一律であるわけがないでしょう。

私とあなたの身長が同じでも、臓器は違い骨は違い筋肉は違うでしょう。

違うことが怖いですか? 同じであることが安心ですか?


そんなことを自分自身に問いかけている。

私は、違う、ことが怖かった。同じであれば、安心だった。

そして、いつだって何かになろうとしてた、何かを手にしようとしてた、その過程で自分が幸せかどうかなんて考えたことがなかった。苦しくても、何か、が欲しかった、弱い自分を守るための。


そのうちに、私は大切なものが何か、わからなくなってきた。

恋愛=お金?

私=肩書き?


自分を愛することも、誰かを愛することも、出来なくなってしまってた。



その大切なものを取り戻させるためのステージ、『摂食障害』。


きっとみんなそうなんだと思う。それぞれに、学ぶべき意図は違っても、必ずそこに必然として、意味が存在していると思う。




私は今でも毎日一回は泣く(苦笑) それは悲しい涙、嬉しい涙、さまざまだけれど。きっと10年間、涙一粒流さずに生きてきた分、今流しているんだろう。


辛いとき、私はSHIHOさんの本のあるページを開き、じっと見つめるようにしている。


『何にもなくても幸せだと思えるようになろう』と思った。



この一文を穴があくほど、見つめてみる。


そうなりたい、私もそうなっていきたい、と切に願う。


人間は執着の生き物だから。誰だってそう、何かにしがみついてしまうもの。私たちが体重計にしがみつくように、必ず誰しも何かにしがみついてしまうものだから。


『何にもなくても幸せだと思える自分』


そこにはきっと、愛に満ち、柔らかな呼吸で自分を包み、好きなものを素直に好きだと選び、愛する者を迷わず受け容れ、そういう循環があるんだろうな・・・・・。



最近、tomoko先生のもとへ戻り、ヨガを再開した。そこには温かなコミュニティが私を待っていてくれた。

彼らは、何を言うでもない、しかし私の明らかなる変化を喜んでくれているように感じる。


春を迎えるにあたって、先生は言った。

『私たちは、寒く厳しい冬を超えて、春を迎えます。でも、それは単に冬が過ぎて行くのを眺めていたのではありません。みなさんは、積極的に凍える厳しい寒さを耐え抜いたんです。』


そう。私たちが今生きているということは、自らが生きようと必死にもがいてきたから、なんだ。

どんな毎日を送っていようとも、今生きているただそれだけで、既に生き抜いたという証拠。

何を取り立てて頑張らなくていい、生きているだけで、もう既に頑張っているのだから。



一年経った。また同じ春がやってくる。

私はもうそろそろ10kg増えた体になりそうだ。昨年から思えば信じられない数字。

いや、正直今でも全然ビビッテる。全然体重計怖い。でも、それでいいと思える。

私はまだまだ器が小さいから、体重計なんかにしっぽ巻いてやがる、と客観視して嘲笑してやる。

そしてこの苦痛も、きっと私の器を大きくさせるためのものだって、思うようにしてる。



人は必ず、親からやがて巣立ち、愛する者と共に生きていく。


どんなしょうもない自分でも愛してくれる人の存在、それは大きな土台となって苦しみを解放へと向かわすのだろう。私にはまだ与えられていないけれど、諦めたくない。


今私がここに生きて、そして自分の“生”に責任を持とうと決められたのは、あの日彼と交わした約束のおかげ。

それは、揺るぎない私の真実。

私のなかで勝手に紡がれたストーリーなのかもしれないけれど、私にとって本当に大きな存在。

初めて、私が自分を愛してみたいと思え、そして、誰かを愛することの本当の意味を学ばされ始めたのだから。



私たちが生きる“今日”は、生きたくても生きられなかった誰かの“明日”だったということ。


自分の“生”を喜んで。愛する人の“生”に感謝して。

一歩一歩、積み重ねたい。