○「ちょこボラ」な気持ちがうずき始めた! 二十一世紀
・「ちょこボラ」という感覚は、私たち自身の良心のカケラ
体の不自由な人が頼りなげに階段を昇る姿を目にしたとき、「手を取っていっしょに昇ってあげようかしら」ととっさに感じたこと、ありませんか? 電車のなかで、年輩の人が自分の席の前に立ったとき、「席をゆずったほうがいいかナ」とソワソワした気持ちになった経験って、一度や二度ならず、あなたにもあるのじゃないでしょうか?
「困っている人に手を貸そう」と理屈抜きに感じるこの気持ち。ちょっとくすぐったいような、もどかしいようなこの感覚。
これって、私たちの心のなかにある“良心のカケラ”のなせるワザ、じゃないかと思うんです。心のなかに慎ましやかに存在する良心、文字通り「良い心」のカケラが、私たちの魂に「これは捨ておけぬ」「見て見ぬフリなんかできないよ」と呼びかけるからこそ、私たちは“人助け精神”に駆り立てられるのじゃないか。
この、一見とってもささいに見える良心のカケラこそが、ボランティアする気持ちの種、そして芽になっていく、いわば「ちょこボラ」精神を生み出す、かけがえのない「人間の性」なんじゃないかと思います。
・「他人のため」は、すなわち「自分のため」
とはいえ、日ごろはそれほど人助け精神に満ちた“いいヒト”じゃなくても、いざそういう場面に出くわすと、なぜ良心のカケラがポンと出てくるのか。自分のなかの“いいヒト”的な部分が顔をのぞかせるのか。ちょっと不思議な気もしますよね。
先ほど、良心のカケラは人間の性からくるものだといいましたが、良心というのは、アタマで考えて感じるようなものじゃなく、むしろ私たちが生き物として生まれもっている本能の一部にすぎないのじゃないでしょうか。
私たち人間に限らず、生き物はみな「自分がいちばん、自分が大事」で生きています。これは、生命を営むものの基本中の基本。生き物はみなすべて原則“自己チュー”でなければ、この世を生き抜くことはできません。
でもその一方で、「いざというときに助けてくれる他人がいてこそ、自分は生きてゆける」ということも自然界の重要なオキテです。“自己チュー”を実践するためには、時として他人の窮地を助ける労力を惜しんではいけない。そのことを、私たちは直感的に知っている。だからこそ「手を貸そうかしら」という気持ちがおのずと芽生える。
“良心のカケラ”が生み出す“人助け精神”は、「よいことだからやる」といった道徳やキレイごとではなく、自分自身を守る本能の発露、つまり生き物としてもつ本能が、「目の前の相手に手を貸しなさい」と私たちに命じるから感じるもの。そう考えると、人助け精神が予期せず不意に顔をのぞかせるのも、うなずけるような気がしませんか?
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