春「人工の滝に、桜の花弁が浮かんで揺れていた。女将の立てた抹茶を前に、足を痺れさせた冬馬が騒いで、秋羅がいさめていたように思う。女将と話していた夏輝は、謝っていた気がしている。それが、女将の言う『あの日』、だ」
(それが、『あの日』……)
自然と鼓動が速く刻みだして、だけど私の手当てをする春の手は動揺することもなく、ひねった手首に冷たい湿布を貼りつける。
春「春の裏庭も見応えがあって、そこに一組の恋人同士らしい男女が姿を見せた」
私が意地になって、おかしな行動をとらなければ紅葉で同じような光景を見られたのかもしれない。
(これも、自業自得だな……)
こっそり溜息を吐きだして、春に視線を戻すとなぜかふいっと目が逸らされた。
(え……?)
手当をする手も動きを止めて、あさっての方向を見つめたまま春が口を開く。
春「彼らは、誰の目にも幸せな2人に映ったらしい。それを羨ましいと冬馬たちが言った時……女将が笑いながら言った。『この状況で静かにお茶を飲まれている姿を見ると、神堂さんは一途な方なのでしょうね』……と」
(確かに、あの女将さんならサラッと言いそうな言葉だけど……)
春「そして、こうも続けた。『神堂さんが一心に想いを傾ける、そんなお相手を連れて、ぜひまた当館へ』おそらく他意のない言葉だったと思う……」
春は相変わらず私を見ないまま、だけど急速に声のトーンが弱まっていく。
春「最も……そんな会話など、女将に会うまで忘れていたが……」
(そう、なんだ……)
春「ここに来ると決めたのも偶然だったが……女将の語る未来になったのだと気付き、少し気恥ずかしくなった。その思い出遮った結果が、キミを不安にさせたようだ。事実、キミに会うまでは、一心に誰かを想うこともなかったのだから」
予想も出来なかった言葉を語られて、私は呆然と春を見つめる。
(春が、そんな事を思っていたなんて……)
春「――だから女将は、キミになら話しても問題ないと言ったのだと思う。玄関をくぐった瞬間、彼女の目には俺の彩を見る様子が、あの時幸せそうにより相談所に重なるものがあったのだろう……」
そんな言葉で話を締めくくると、春は手早く手当てを再開した。
彩「それが、『あの日』の春といえば……だったんだね」
少ししみじみとした気持ちで言った時、ふと手当てされている右手を見る。
(え、うわ……)
いつのまにか処置が完了した右手は、手首にはシップと手のひらにはガーゼ、そして全体を覆うようにしっかりと包帯が巻かれてしまっている。
彩「は、春……? これはちょっと大げさというか、やり過ぎなんじゃ……」
春「痛めた手は極力、使わない方がいい」
彩「そうだけど、ここまでしなくても大丈夫だよ?」
春は真顔で、重症すぎる処置をした私の右手をどこか満足そうに見ている。
春「これ以上、知らぬ間に彩が傷つくのは見たくない……」
低い声でそう続けられてしまうと、身勝手な感情で飛び出した負い目からもう何も言えなくなってしまった。
しばらくして、離れの部屋にはすっかり夕食の準備が整えられていた。
彩「えっと……」
春の大げさな処置で利き手が使えなくなった私は、座卓いっぱいに並んだ料理を前に、少し黙りこむ。
(どうやって、食べよう……。スプーンで食べられるものは左手で――)
春「彩」
呼ばれた声に視線を上げると、春が立ちあがろうとしているのが見えた。
素早く隣に移動した春が、何も言う間も与えずに私の口に料理を運ぶ。
彩「あ、おいしい……!」
美味しい料理に思わず笑顔がこぼれて、すぐにハッと我に返る。
(……って、そうじゃない!)
春に食べさせてもらうことを一瞬、何の違和感もなく受け入れかけていた。
彩「あの……春、左手を使えば何とか食べられるか……」
春「気にしなくていい」
彩「き、気にするよ……」
春「その怪我の引き金になったのは、俺だ」
春は強引にそう言い切って、その後もずっと私に食べさせながら食事を続けたのだった。
結局、なすがままの食事が終わりに差し掛かり、春は茶碗蒸しを手にした。
彩「それはスプーンついてるし、左手でも食べられるよ?」
さすがに食べさせてもらう恥ずかしさも限界で、そう訴える。
春「遠慮しなくていい。どの具から食べる?」
まったく一歩も引こうとしない春に、私は迷いながらも言う。
彩「じゃあ、銀杏かな……」
春「入っていない」
言い切られて私はビックリしながらも問いかける。
彩「この時期なら銀杏も入ってると思うけど……底の方にも、ない?」
ふと春を見ると、困ったような顔で茶碗蒸しを手にしたまま目を伏せた。
春「彩は……銀杏が、好きなんだな……」
彩「大好きとは言わないけど、やっぱり茶碗蒸しといえば銀杏は外せない……とは、思うかな?」
春「そうか……」
今までの強引さが消えて、春はコトンと静かに茶碗蒸しを座卓に戻す。
春「すまない、女将に頼んで料理から銀杏を抜いてもらったんだ」
彩「え?」
春「あの独特の香りが苦手で……」
春は少し気まずそうに視線を逸らした。
(意外。春にも苦手なものがあるんだ……)
彩「それならそうと、言ってくれれば良かったのに」
私がそう言うと、微かに頬を赤くして、春が小さな声で言い訳のように呟く。
春「銀杏が苦手だなんて、子どもの好き嫌いのようだろう……」
そう言って、銀杏の入っていない茶碗蒸しをすくって自分も一口食べた。