『もらとりあむタマ子』について | 24時のブルース

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映画・音楽などに関することを、ひねもすのたりと語ります。

とある理由がありまして(その理由はあまりにも低級すぎて言えませんが)
現在前田敦子さん推しというか、ほぼストーキングに近い状態。

そんな私なので、前田敦子主演の『もらとりあむタマ子』を
素面な状態で評するなんてのはどだい無理な話だし、
何を言っても贔屓目に見られちゃうとは思うけども。

でも。
本当に、良い作品なんです。

派手さや話の高尚さばかりが映画の価値を決めない。
この作品が山下監督の手腕、向井さんの本の巧みさ、
そして前田敦子さんのカメレオン的演技を元に
証明されたと思います。

『もらとりあむタマ子』
「苦役列車」でもタッグを組んだ前田敦子と山下敦弘監督が、実家で自堕落な日々を送る女性タマ子の姿を描くドラマ。
東京の大学を出たものの、父親がひとりで暮らす甲府の実家に戻ってきて就職もせず、
家業も手伝わず、ただひたすらに食っちゃ寝の毎日を送る23歳のタマ子が、
やがてわずかな一歩を踏み出すまでの1年を追う。

もともとはCSの「M-ON!」のステーションジングルを
目的に短編以上に短編用に撮影されたドラマ。

それを約30分のドラマ枠に編集して今年の4月に放映されたが、
さらに春と夏を追加して、タマ子のモラトリアム期を1年間通して見つめた
一つの映画として編集され、完成したのが今作です。

さてと。

5億点の連続の映画なので、どこから言及すれば良いのか分かりません。

まずは何と言っても、冒頭のシーンでしょうか。
物語の始まり、布団の上で悶えるところから、
食事をしトイレである単語を絶叫しながら、
排泄しながら漫画を読む、という一連の流れをもって
全く説明セリフを用いずに彼女のパーソナリティと
父親との関係性を表現出来ています。

映画全編を通じて、前田さんの食事シーンが盛り沢山ですが、
正直な話、この食事の作法やその様子が全く可愛くない。
しかし、全く可愛くないのが超絶に可愛いのです。
このロジックはなかなか分かりにくいでしょうが、
映画を鑑賞された方には120%伝わると自負します。

そして、今作では何と言っても特筆すべきは食事シーンであろう。
父親の作る、派手ではないが日常的な風味が視覚から読み取れる手作り感。
そして、「クチャクチャ」と咀嚼音を強調する事で、鑑賞している観客に
その場に居合わせている感覚を巧く共有させていると思う。

今作は、ストーリーだけでなく登場人物の人間性や関係性や環境等、
観客のほぼ全員がベン図的にこの作品に心情を重ねられると思う。
それ故に、観客に「この場に居合わせている感」を抱かせる事は重要です。
だから、鑑賞した方々の感想の多くが似通っているのだと、僕は思います。

そして、例の「少なくとも………今ではない……!」のシーン。
僕はそのセリフの可笑しみよりも、演出上巧いなと思ったのは、
父親の康すおんさんと前田さんの、顔の筋肉をワナワナさせる感じが、
対立はしつつも口論しつつも、どうしようもなく父子なんだな、と
感情が昂った時の表情というか癖が同じというところで表せている。

冬のシーンにおいても、5億点シーンはあります。
伊東清矢君演じる中学生が交際中の女子の帰り道、
コートにぐるぐる巻きのマフラー(でも中身はジャージ)姿の
タマ子が、慈しみとじゃじゃ馬感を両立させた笑みを浮かべる。
この表情、5億点でしょ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ここについて言及する人いないから、強調しました。

そして、大晦日の夜。
父親に小言を言われながらも、携帯を駆使し新年のメール送付に勤しむタマ子。
その後、彼女はメールの問い合わせを繰り返すも、返信はない。
下手な監督だったら、タマ子の後ろから携帯の画面を映し出す
カットを描きそうなもんだけど、山下監督はそういう不細工な事はしない。
それに至る彼女のセリフと行動だけで、それを観客に伝えられている。流石。
そして、このシーンは『ソーシャル・ネットワーク』のラスト的な
悲哀も少し込めている。こういう所も抜け目なくて、やはり流石。

春。
僕は前髪パッツン×ボブカット×猫目、という三種の神器を兼ね備えた女性に弱い。
タマ子は髪型に満足いっていないようだが、僕は目がハートになる程大好きです。

フェティッシュの話はどうでも良い。

ここからは半分はステーションジングル用、半分は映画公開用に
作られていると思われる為、話に膨らみをもたせ始めている。

ここでは、タマ子の能動性を垣間見せている。
ここで、結果として分かるのは、やはり食事シーンでそれを表している事である。
なるほど、彼女は芸能界入りを密かに目標とし、動き出している。
それをやはりセリフではなく、彼女の食事の摂り方の変化で表せている事に、後になって気付くのだ。

そして、父が彼女の目指す目標の一端を目にしてしまう。
それを、相変わらず漫画を無防備に読み耽っている彼女の表情をバックに、
彼女自身のモノローグとして語られる。

僕がこの映画で一番目にハッとさせられたシーンである。
「今の自分は、本当の自分ではありません…」と語られるモノローグ。
これは破棄された履歴書の自己PRの一文であり、観客もクスクスと笑っている。

でも僕にとっては、『桐島、部活やめるってよ』の野球部キャプテンの独白シーンと同様、
「お前ら笑ってんじゃねーよ!!」と思わず憤りそうな場面だった。

これは、彼女が常日頃感じていた違和感の現れなんだと思った。
今までの彼女の言動を見るだに、ジョークとして描いていると思われるかもしれないが、
もちろん一部は誇張はされているだろう。だけど、この文を書いた履歴書を捨てているという事は、
「これはちょっと本気過ぎる」と彼女が判断した事の現れではなかろうか?
そう感じ取った僕は、このシーンがとても笑えるものではなかった。
この映画を通じて、彼女のある種の孤独感を描いていたと思います。

でもね、そんな感慨を吹き飛ばす、20億点のシーンがあるんですよ。
タマ子が中盤で「嫌がらせ?」とまで評するある写真が
春のシーンで撮影されるんですが、その写真の前田さんの可愛さが20億点なんです。
元国民的アイドルの不動のセンターが、アイドルとはほど遠い女の子を演じて
その子が振り絞ったアイドル感を出し切った表情、それを切り取った写真…
この写真自体が20億点ですよ。僕は昇天するかと思いました。
先述したロジックと同様、とにかく可愛くないけどそれが超絶可愛いんです。

僕は、春のシーンが一番好きです。


夏のシーンは、本格的に劇場用に撮影されていると思うので、
ストーリー性も増しているし、他の季節よりもガッシリしている。

タマ子は、父親の再婚話を知る。
今までは彼女は彼の存在自体を疎ましく思っていたが、
先述の通り、そうはいっても彼女はその父の子、
離婚している親とはいえど、それは認めたくないのだ。子の心理。
中学生をパシリに使ってその再婚相手を思しき女性に接近する
(その前後の2人のやり取りは本当に面白いけど、語り出すと終わらないので割愛)

そして、タマ子自身が父の交際相手に接近する。
交際相手を演じるのは富田靖子さんなんだけど、本当に、絶妙に魅力的。
絶世の美女と言うかけ離れた存在ではなく、市井の中で目立つ美人。
タマ子は口コミ的風評で彼女を断じていたけど、彼女の飾らない人柄を
認めつつも、やはり無意識に父を閉じ込めようと
(というよりも、現状の家庭というぬるま湯を変えない為に)
ある事ない事を嘯いて彼女に父親を断念させようとする。

けど、実際に彼女が少し(タマ子を含めた)父に少し懐疑的な言動を認めると、
「あ、ちょっと言い過ぎたかも」とすぐに自分の行動を省みて、
すぐ前まで言っていた事の正反対な事でその場を繕おうとして
とにかく言葉を重ねまくる。彼女の不器用さが、このシーンでわかる。

父の幸せを願いつつも、でも父は自分のものでもある。
そしてそれは、中途半端に繋がっている実の母、という存在も大きい。

その実の母の存在が初めて現れるのが、橋のシーンである。
ここが、本作でハッとさせられるシーンの二つ目。

タマ子は、母親に父の再婚の可能性を示唆し、明確に意図しないまでも
「これは可能性あるし、やばいよ」「寄り戻した方が良いよ」と暗に伝える。

ここで、タマ子は全編を通じて初めて、親子間における「子どもっぽさ」を垣間見せる。
離婚した両親を表面上は認めつつも、やはりその繋がりは絶対なものだと思っている。
でもここで、母は「タマ子にとっての母」ではなく「1人の女性」としての発言をする。
それに対し、タマ子は「冷たい」と言う。ここで、タマ子は父と母に関係性的にも依存している事を表している。
これはね、子としては当然だと思うんです。ただ、それは作中に今まで現れていなかった事なので、
個人的にはハッとさせられたわけです。
何て言うんだろう、「家庭というものは、もっと言えば血というものは、思っていたよりも強固じゃないんだな」って事がちらと顔を覗かせた場面だと思ったわけです。

その後の、父と子の物語上の最後の食事シーンは言うまでもないでしょう。
今までの描写と、直近の登場人物の心情やその吐露が全て結集された場面です。
タマ子が父に発したある短い言葉。上から目線と言われても仕方ないギリギリのラインかもしれないけど、
僕はこの場面、とても大好きです。坂井家にとって、父と子かくあるべき、というお話の集結として最良の掛け合いだった。

この作品は、本当に唐突に終わるし、そのラストに語られるやり取りというのは
作品を通じての結末、というわけでは決してないけれども、
僕には、超良い意味でのこの「呆気なさ」というには心地よいしリズム感も良いと思う。
というより、明確な「終わらせ方」を設けないのが、このストーリーにとって
大切なオチの付け方なんだと思った。
終わらせ方を明確にしてしまうと、その善し悪しが付帯されてしまう。
「モラトリアムな期間」というのは、人生にとって善し悪しではなく誰にもで訪れ得る、但し人生において必要な場面でもある、ということなのかなと。

そういった心地良い読後感を味わった後、とあるシーンが
エンドロールに差し込まれ、それに拒否反応を示される方も多いようだが、
僕は、この映画は『今の前田敦子のポートレート感』を魅力最大限に切り取った
映画だと思うので、あのエンドロールは丁寧なカーテンコールだと感じました。


……自分の文章を改めて見返したけど、長い。とにかく長い。

改めて言葉を重ねるけど、これは語りがいのある作品だと思う。
ベン図的に重なる部分が多い分、皆が自分の心境と照らし合わせて語りたくなる作品なのだろう。

演出や脚本、そして演者の演技のアンサンブルを含めて、
語りがいがあるというのはとても価値のある映画だと思います。


自信を持って言えます、オススメの作品です。



今日の一曲  季節 / 星野源