佐藤あかねです✨
初めての方はこちらをどうぞ
メッセージやコメントは
なるべく返信しようと思います🎵
続きです☝️
そして実家大パニック編の
最終話です✨
この度『実家大パニック編』を
数日に渡りご覧くださりありがとうございました✨
そんな中多数の質問があったのですが
今回そのうちひとつお答えしたいと思います
それは
お父さんはこんなに頼りなくて
よくあかねさん達3人のお子さんを
育ててきましたね。
当時はどうしていたんですか❓
というもの
母が生きていた頃は
母が育児をしていました
そして母が体調を崩す前から
うちの父は単身赴任をしていてですね☝️
家にいることがほとんどありませんでした
母が病気になった時、亡くなった時の
子供達の年齢は
【母病気発覚】
姉11歳
私9歳
弟1歳
【母他界】
姉16歳
私14歳
弟6歳
でした💦
私と姉の母がいないという心の寂しさは
一旦置いておいて。
実生活で1番大変だったのは弟の存在でした
母は亡くなるまでの5年間
元気な時があまりありませんでしたから
1歳児のお世話をするって
大変なんですよね(泣)
お忘れの方も多いかもしれませんが
我が家は父の父、私からすると
おじいちゃんと一緒に住んでいたのです
父の母は私が生まれてすぐに他界したので
私は父方のおばあちゃんの記憶がありませんが
おじいちゃんは元気に長生きしてくれました✨
私の中で実家のメンバーといえば
おじいちゃん、両親、姉弟、私の6人なんです☝️
このおじいちゃんが
なかなかのスーパーおじいちゃんでした
姉は小学校高学年になると
部活動やら塾やらで忙しかったので
基本的には私とおじいちゃんとで
家のことや弟の面倒を見ていたのですが
おじいちゃんはなんでもしていました❗️
昔の人なのに料理や家事もこなすし
私たちの宿題のチェックや
学校で必要なものの用意も
全ておじいちゃんがしてくれていました💦
おんぶ紐で弟を背負いながら
洗濯物を干している姿は
今でもすぐに思い出せます
弟が小学校に上がる時算数セットの
名前シール貼りを私とおじいちゃんと2人で
ピンセットを使ってペタペタしたのを
今でも覚えています(笑)
これね、これ
ひとつひとつに名前シールを貼るのが
大変なんですよね‼️
自分の子供じゃなくて弟で経験済みという
無口で全然喋らない人だったのですが
おじいちゃんは黙々と家のことをして
それでいて私にも姉にも弟にも
みんなに対して平等でした。
おじいちゃんは婿養子だったせいか
父方の家系の長男長女至上主義者ではなく
普通に私にも接してくれていました
私は次女だったので本家からの
扱いが酷かったんです💧
そして彼は元教員だったので私や姉に
これからの時代は女も男と同じくらい
勉強しないといけない
とずーーーーっと言っていました
父方の本家の人は長男長女こそいい大学に行って
それ以外の子供達は家の手伝いをしろ
的な考えの人たちで💦
父は素直に本家の人たちの
言うことを聞くのですが
それに対しておじいちゃんは
そんなわけない、根拠がない
なんてことを言うような
人だったんです
だからおじいちゃんは毎日毎日
学校の宿題を孫達がちゃんとしているか
そういう確認までしていました(笑)
私や姉は真面目なタイプなので
きちんと宿題をこなすため
怒られたりはありませんでしたが
弟がわりかしパッパラパーなので
しょっちゅうおじいちゃんから
怒られてましたね笑
孫の宿題事情までちゃんと把握するような
マメな方だったんです
私が部活動をしたがっていたのも
おじいちゃんは知っていましたが
弟が小さいこともあり
私が部活動をしない選択をしたことに対して
申し訳ないと謝ってくれたり。
本家からのお年玉に姉や弟と
『差』をつけられたりすると
差額を影でこそっとおじいちゃんがくれたり。
そういうおじいちゃんでした
ただ超無口で理屈っぽい人だったので
楽しい思い出はあまりないんです(笑)
嫌な思い出もないけど
大笑いとかしない人だったし
志村けんのだいじょうぶだぁを見ても
表情ひとつ変えないような
人だったんですよ笑
私なんかこのDVDの
パッケージだけで笑えるっていうのに
ただ、やはり私たち3人が
ちゃんと育ったのはおじいちゃんの
影響が大きいです
私はもうすでにお袋の味も忘れ
父から料理を作ってもらったことがないので
父の味もありません。
が、おじいちゃんの味はあってですね(笑)
すき焼きっぽい味付けのタレに
卵と豆腐を入れて煮こんだ料理を
よく出してくれたんです✨
これがすき焼きっぽいタレなのであって
すき焼きの割下ではないですよ✋
すき焼きっぽい味のタレ、なんです(笑)
あれ、どうやって作ってたんだろう
全然再現できなくて
もう一回食べたいなぁ💦
こんなおじいちゃんだったからこそ
父と比べてしまって
何もできない父に対して子供達みんなが
厳しくなっちゃって
そこはちょっと可哀想と言うか
申し訳ないなと思うのですが
父子(おじいちゃんと父)の差が凄くて
父は母が亡くなった直後
単身赴任先からあまり帰らなくなった時期があり
そのことでよくおじいちゃんから
怒られていました
もしかしたら母がいた家に
帰るということが嫌で
現実逃避していたのかもしれないし
純粋に子供達の面倒を見るのが
疲れて嫌だったのかもしれないし
単身赴任先に彼女がいたのかもしれないし
帰ってこない理由はわからないのですが
とにかくあまり家にいませんでした💦
でも母が亡くなって2・3年くらい経つと
月に1度しか帰ってこなかったところが
月に2回帰るようになり
少し頻度が上がった気がします
私が高校3年生くらいの時には
毎週帰ってくるようになったかな❓
彼なりに何か環境や心境が
変わったのでしょう。
ここまで書けばもうお気づきでしょうが
多分みなさんの想像する
男手ひとつで育ててきたシングルファーザーと
うちの父はちょっと違う気がします💧
強いて言うならおじいちゃんが
シングルグランドファーザーとして
本当によく頑張ってくれたと思います
おじいちゃんはピンピンコロリで亡くなったので
入院なんかもしなかったんです
だからこそ亡くなった時の
ショックも大きかったですが
でも病気で苦しむ姿を見ることもなく
そこは気持ち的に助かったといいますか・・・
母の闘病の姿を見てきた私たちにとっては
それを見なくて良いだけで
本当に本当に気持ちが楽でした
棺桶に入ったおじいちゃんは
まさに『眠ったような』いつもより
色白になっただけのおじいちゃんで
母の時と違って
もしかしたらこのまま目を覚ますんじゃ❓
というくらい穏やかでした
幼少期の思い出は父とのものよりも
おじいちゃんとの思い出の方が断然多く
今でも鮮明に覚えていることがあります✨
昔おじいちゃんは貸家をしていて
契約が終わって店子がいなくなると
その貸家に行って掃除をするんですよ☝️
今なら業者とかにしてもらうんでしょうけど
おじいちゃんは自分でしていました
その掃除について行った時に
昔のこういうダイエット器具が
置き去りにされていて(笑)
多分処理や運搬に困って
そのまま放置して出て行ったんでしょうね
例の放置されていたダイエット器具です(笑)
一時期流行りましたよね⁉️
おじいちゃんはこの器具の存在を知らなくて
でも私は志村けんさんが使っているのを
何回も見ていたので使い方を教えたのですが
おじいちゃんはイマイチぴんときていないようで
おじいちゃんはこの器具を
粗大ゴミで処分することに
凄く嫌悪感を持っているようでしたが
私は興味津々だったので勝手に
試してみたら想像以上にブルブルしまして(笑)
私は掃除をしているおじいちゃんに向かって
大声で呼んだのですが
その時の声が扇風機の前で声を出しているような
細かく震えている声になって
おじいちゃんはちょっとだけ笑ってくれて(笑)
後日軽トラの後ろにこの器具を付けてくれて
自宅までもってきてくれたんです
なので私の自宅にはしばらくの間
このダイエット器具があったんです
そのあと台風19号が直撃して
我が家の屋根が雨漏りしてしまい
その真下にあったこの器具に雨水が
かかってしまったせいで配線が悪くなったのか
使えなくなってしまいました(泣)
おじいちゃんがいよいよ本当に
あの器具を粗大ゴミに出していた日は
本当に悲しかったです
オチはないんですよ、オチは✋
でも私はおじいちゃんとの
こういう小さい思い出が
たくさんあってですね
言葉で表現するのは難しいですが
凄く楽しかったですよ
おじいちゃんとのなんともない日常が
ということで‼️
父の子育て術になるかと思いきや
私とおじいちゃんとのセピア色の
思い出話になりました(笑)
結論をいうと我が家は
おじいちゃんがめっちゃ頑張って
家のことをしてくれていました(笑)
めっちゃ長くなっちゃって
すみませんでした