審神者(サニワ)〜ジャッジも必要〜 | チキチキ☆トレイン

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笑いあり☆涙あり☆チキチキあり☆
チキチキ列車に乗りながら
行こうよ愛の終着点

(同じ議題を何度もあげるようだけど…(^^;;)

私はスピリチュアルな体験を結構しているけれど、
最近のスピリチュアルのネガティブを否定した
ポジティブ過ぎる傾向に、
逆に不自然さ(アンバランス)を感じてきみが悪く、
スピリチュアルを信じ、
スピリチュアルに生きることは大切だと思っているけれど、
スピリチュアル恐怖症になって来ている…
(↑私がいうか?(^^;;  すんません;)


ポジティブ過ぎる傾向にある人たちは
お釈迦様の言葉を借りて
「宇宙は空、何も無い。
故に物事に正解不正解はありません。」
と言ったり、
現場にいて事を実践して得たマザーテレサの言葉を借りて
「ジャッジメントしてはいけません。」
と、何でもかんでも
ジャッジメントが悪である様にジャッジメントしたり(^^;;
そして思い切り周りと変わらない人間なのに、
天使にでもなったかの様に
「どんなあなたも完璧ですよ♡
どんなあなたも受け入れますよ♡」
なんて、ネガティブを受け入れられないのに言ったりして、

「さぁ♡ポジティブは素晴らしい!!」

と言われても、

「イエーイ!ポジティブバンザーイ!!\(^o^)/」

なんて、これっぽっちも思えないよね…。

逆に超不信感が募るばかりむっ台風


ネガティブを否定してポジティブに偏り過ぎると、
それがネガティブなエナジーになっていることに、
ポジティブ(まさか自分に限って!という思考)だから
気が付かないのかも知れない…

私たちはネガティブもポジティブもあって
人間の生きる世界で人間として学び、
生きていることを忘れてはいないだろうか?

ポジティブ過ぎる傾向にある人ほど、
実は「愛を基準に物事をジャッジメントしている」
そしてネガティブ傾向にある人を上から諭す行動を起こす。
つまりポジティブな言動を取りながら
誘導的支配をしてジャッジメントしている。

それは、してはいいこと、悪いことを
一番分かっているからではないだろうか…?

彼らは度々、この世の全てが「愛もない無の世界」と表現する。
確かに世の中の全てが無であるのかも知れない。

けれども、彼らの言動を観る限り、、

彼らの求めているものは、

「愛」という世の秩序、正しさだと感じる。


それなのに、他者のジャッジメントは否定し、
上から諭す。


ネガティブとポジティブは鏡だというのに、
ネガティブを否定する人たちは自分たちを
中道だと言うのだから、
これは永遠に相容れないわけだ…なんてことを感じる。

(大抵は、ネガティブ傾向にある人たちがポジティブ過ぎる傾向にある人たちのエナジーを受け入れることになるのだけど、、
だからネガティブな人たちはストレスが溜まるのだというのにね…(^^;;
言いたい放題のポジティブ論者はそりゃ幸せだと感じると思う。
けれど、みんながポジティブになってネガティブがいなくなれば
ポジティブはポジティブでいられるかしら?(^^;; )

だから私はcase-by-caseでジャッジは必要だと思う。

ここで共感できる面白い記事を見つけたので
オススメしたいと思う。


↑是非読んで欲しい。

豊かさとはどういうことか、
何が正しくて、何が間違いか、
何を赦して、何を拒否するべきなのか、
何を選択するべきなのか、、

自分の心が何にどう反応するのか、
それがありのままの自分の答えだと思う。

FBで仲間のcocoさんとコメント欄でこんなやり取りをした。


正解不正解が無い。ジャッジをしてはいけない。
それは間違いではないと思う。
けれど、だからと言って、
人としての罪という過ちを弁明する様な
スピリチュアル表現は、私たちは好きになれない。

cocoさんとのコミュニケーションの中で、
面白い表現があったので抜粋します↓

自分にとってイヤなヤツは結局イヤなやつでしかなく、素晴らしいのはその体験から成長する自分のほうである!!!(はっはっはっ!^0^)  ・・・・・・そのくらいのノリでいった方が逆にゆるしにも早く到達できる気がする。スピ系の美しく無理矢理なネガティブ体験への意味づけには正直、最近はかなり嫌気がさしてきた。「なぜ?」って理由を求めるんじゃなくて、「ならどうするか?」ってかんじで、why ではなくて how の質問をしていくことで、前に進んでいきたいなと最近のわたしには思えます。」


スピリチュアルって、特殊能力や
自分を偽ってまで美化して生きることでも無いと思う。
また罪を赦すことで罪を正当化するものでも無いと思う。


みんな何かしら愛に基づいて
審神者(審判)している星空