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好きという気持ちは、心の奥底にいつのまにかあるもの。
それがいつ現れたのかわからない。
気がつけば心惹かれている。
気がつけば目が離せないでいる。
気がつけば想いが溢れそうになる。
そんな、不思議なものだと思うのです。
それに気がつく時か…
そうですね、失いそうになった時、失った時…でしょうか。
離したくない、離れたくないと思った時、悲しくて、苦しくて…心から好きなんだなと、そう強く思います。
夕餉の時間はいつも慌しいものです。
食事当番でなくても食器の準備をしたりお膳を運んだり。
「よし!俺も手伝おう」
「近藤さんは座っていてください。私が運びますから」
「いや…しかしだな…」
お膳運びを手伝おうとする近藤さんを引き止めたり(笑)
今日は珍しく夕餉の場に全員が顔を揃える事となりました。
だからきっと、近藤さんは嬉しかったのだと思う。
それでじっとしていられなかったのだと思う。
それは私も同じ気持ちだったから。
「今日は豆腐となめこの味噌汁か。美味そうだな」
「はい!なめこを入れたら口当たりも良く、美味しくなりますから。土方さん、おかわりは十分ありますから、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「千歳ちゃん、土方さんには優しいんだね」
「…年上の人を労い、敬う事は当たり前の事じゃないですか?沖田さんはおかわりの前に、まずは完食してください。お酒は食事の後でも楽しめます。」
「はいはいはいはい…。君、やっぱり段々似てきたね。口煩い誰かさんに」
「総司、『はい』は一度でいい。そして雪村の言う通りだ。あんたは酒の前に膳の上にあるものを完食しろ。まさか局長の前で『食欲がない』と言うとは思わんが」
「はーい。あ~あ、煩い人が一人減ったと思ったら、今度は口煩い人が一人増えるなんてね」
いつもの嫌味、いつもの会話、何もかもがいつも通りに過ぎて行く。
すべての膳を運び終えた私が自分の席に座った頃には、少しばかりおかずが少なくなっていましたが、それもいつもの事。
(よかった。お味噌汁とお漬物には手をつけられていないみたい)
隣の平助君と永倉さんがおかずの取り合いをしているのも、いつもの事。
(あぁ…平和だな…)
なんて考えながらお味噌汁の椀を持ち上げた瞬間、平助君が私にぶつかって来て
「えっ?あっ!」
私が手にしていたお椀は小さな孤を描きながら前方へ飛んで行きました。
バシャッ
「あぁ!」
私の眼前には豆腐となめこと汁の無残な姿が広がっています。
「ごめんなさい!すぐに拭きます」
人は酷く動揺しても理性が働くのでしょうか。
心に浮かんだ言葉とはまったく違う、別の言葉を私は口にしていました。
そして次に何が起こるのかもすぐに予測が出来るのです。
私の予想通り、土方さんが大きな音を立てて箸を置きました。
(怒鳴られる!)
体を硬くして更なる謝罪の言葉を口にしようとしたその時、同じように大きな音を立てて箸を置いた井上さんが大声を張り上げました。
「永倉君!平助!君達は食事の時間くらい静かに出来んのかね!いくらかわりがあるからと言って食べ物を粗末にするなど、君達は一体どういうつもりなんだ!そこに零れた豆腐となめこを手に入れるまで、皆がどんなに苦労したかわかっているのかね!ましてや豆腐となめこの味噌汁なんて組合せは滅多にないのだよ!『覆水盆に返らず』という言葉を君達も知っているだろう?起こった事は元に戻す事は出来ん。失われた命は二度と取り戻す事が出来ないように、君達がぶちまけた豆腐もなめこも汁も、雪村君はもう二度と口にする事が出来んのだよ。これがどんなに悲しい事なのか、君達は理解しているのか?雪村君がどんなに豆腐となめこの味噌汁を楽しみにしていたのか、君達はわかっているのかね!」
私が本当に言いたかった事は、全部井上さんが代弁してくれました。
そして私がどれだけ豆腐となめこのお味噌汁が好きなのか、全部無くしてしまってから気がつきました。
お味噌汁のおかわりはおそらくもうありません。
井上さんが怒鳴っている間に、数人がおかわりに行ったから。
「千歳ごめん…」
「千歳ちゃん、悪かったな。あ~食いかけだが俺の味噌汁飲むか?豆腐となめこもまだ残ってるしよ」
そして人はどんなに悲しくても、笑顔を浮かべる事が出来るのですね。
「お気遣ありがとうございます。でも、大丈夫です。皆さんのお味噌汁が零れたのではなくて、本当に良かったです」
嘘じゃない。
だけど本当は…
豆腐となめこのお味噌汁、すごく食べたかったです(泣)