三月五日、今日は【啓蟄】。
【啓蟄】は二十四節気の一つで、草木が芽吹くと同時に、冬眠していた虫たちが地上へと這い出してくる頃の事です。
【啓】はひらく、【蟄】は冬眠している虫の事です。
今日は非番をいただいたので、少し部屋の整理をする事にしました。
と言っても私の持ち物はほとんど無く、身に着けている着物、この日記、日記を書くための筆と硯、それから先日の京散策で手に入れた兎のお雛様…これくらいですね。
私は机の引き出しをそっと開けました。
中には兎のお雛様と、何故かもう一つ小さなお雛様が鎮座しています。
そしてその側には桃を模した鈴が一つ。
三月三日は上巳の節句でした。
女の子の節句、雛祭りとして良く知られているこの日は、元々は季節の変わり目に穢れを祓うといった行事です。
近藤さんの計らいで、この日は酒宴が設けられる事になりました。
広間に集まると、そこにはご馳走が用意されています。
(蛤のお吸い物、ちらし寿司、白酒、おまけに桃の花…なんで桃の節句のお料理がここに?)
「あら?雪村さんはお寿司はお嫌い?」
「いえ、好きです。大好きですけど…」
意味ありげに含み笑いをする伊東さんに返事を返したものの内心動揺していて、なんとか向けた笑顔も引き攣ってしまいます。
「今日は上巳の節句、穢れを祓い無病息災を願うために酒宴を設けましてよ。そのせっかくの酒宴にいつものお料理じゃあつまらないじゃない?今日は特別に、この伊東が食材を用意しましてよ。」
「あの…何故普通のお酒じゃなくて白酒なんですか?桃の花まで…」
「百歳(ももとせ)に繋がる紅い桃の花と白いお酒。紅白でめでたいじゃない。」
「蛤のお吸い物が…」
「たまには旬のものを食べたいじゃないの。それにこんな機会でもないと、貴方はめざしと豆腐以外のおかずなんて食べられないでしょ?」
「…伊東さん。」
「何かしら?」
「ありがとうございます。」
「別に貴方のために用意したんじゃなくってよ。まぁ…このむさ苦しい屯所でそこそこ快適に過ごせるのは雪村さんのおかげでもあるから、今日くらいはいいんじゃないかしら。」
伊東さんの真意はわからなけれど、これは私への気遣いでもあるとそう思いました。
(伊東さんって気遣いが出来る優しい人なんだ…。伊東さん、河童みたいなんて言ってごめんなさい。伊東さんは妖怪の河童じゃなくて、きっと水神様の河童なんですね。)
近藤さんの音頭で酒宴は始まり、皆でご馳走とお酒に舌鼓をうつわけですが、お酒のみの人達は白酒だけじゃ足りないと騒ぎ出し…結局私は広間と勝手場と行ったり来たりする慌しい時間を過ごす事になるのでした。
「千歳ちゃん、ちょっといいかな?」
膳を下げていると、廊下で沖田さんに呼び止められました。
「はい、これ。」
手渡されたものは桃色の箱でした。
「なんですか、これ?開けてみてもいいですか?」
「待て、雪村。その箱を検めるなら注意が必要だ。総司の事だ、中に蝗や蛙を詰めて寄越したかもしれぬ。」
「嫌だな~一君。近藤さんじゃあるまいし、蝗の佃煮なんて詰めたりするわけないじゃない。中は金平糖だよ。今日は桃の節句だよね。おおっぴらにお祝い出来ないし。」
「あっ…ありがとうございます。」
箱の中を開けると、中には淡い桃色の金平糖と…
「桃…の鈴?」
「鬼除け…主に風間除けだけど。桃は邪気を祓う神聖なものだからね。蝗も一緒に詰めてもよかったけどね…たまにはいいんじゃない。」
取り出すと鈴は チリン と小さな音を奏でます。
「音を立てるという行為は神を呼ぶ事に繋がる。縁起物だ。よかったな、雪村。」
「一君もこの子に渡すものがあるんじゃないの?くすくす…ずいぶん苦労して手に入れたみたいだし。」
「…確かに苦労したが、その甲斐はあった。雪村、受け取れ。」
斎藤さんは私の手のひらに小さなお雛様を乗せました。
「かわいい…かわいいです!斉藤さん、これ…どうしたんですか?」
「…慣れぬ事を成し遂げて手に入れた。日頃の感謝の念を形にした。それだけだ。」
「沖田さん、斎藤さん、ありがとうございます。大切にします。絶対に大切にします!」
二人は顔を見合わせ、ふわりと笑いました。
一陣の春の風が私の心の中に吹いて…優しい紅い花が咲きました。
二つのお雛様を丁寧に紙で包み、お菓子の箱に入れてそっと蓋を閉めました。
(江戸から京に来て、怖い事や嫌な事がたくさんあった。でも良い事も楽しい事も…負けないくらいたくさんある。大切なものを見つけて、大切な事を教えられて…私はたくさんの大切なものを手に入れた。皆さんから…)
しかしそんな感傷的な時間は、何故かすぐに破られてしまうのです。
「ちょっと~誰か!誰か来て頂戴!猫!猫!いや~!!沖田さん!私の部屋の前にかつお節を撒くのはやめて頂戴って言ったでしょ!」
「…はぁ…また猫…」
私は箱を机の引き出しにそっとしまい、大きな溜め息をひとつついて部屋を後にしました。