長編小説「生きがい」#2
それから岸谷凪のことが頭から離れなかった。そして、もし自分だったらと考えた。
私は、将来のために、将来困らないために勉強をこんなにもがんばっている。それが、その将来がありませんと告げられたとき、私だったらどうするだろうか。
きっと、勉強なんてしないだろう。遊びふけって、何にも考えずに、残り少ない人生を歩むだろう。
私は、彼のことを何も考えずに説教をしてしまった。
次の日、自習室へ向かうと、知らない3年生に紛れた岸谷凪の姿があった。
「あっ、霧島さん」
そういわれ、ギクッとする。明らかに彼の声だった。
「……また自習しているんですか?」
自習している人もいるため、彼をドア付近に呼び寄せ、なるべく静かな声で話す。
「いや?霧島さんの事待ってた」
「何で私の名前を知ってるんですか?」
「先生から聞いたんだよ。ねえ、今日は勉強やめない?」
「……は?」
「俺、友達がいないから、霧島さんが話してくれて嬉しかった。ね、どっか遊びに行こうよ」
「嫌です。私はあなたの友達ではありません」
「でも、俺は霧島さんの友達だよ」
「それはおかしいです。そもそも私はあなたの友達ではないと言っているので、そこからすると、あなたも私の友達では――」
「あー、もうそういう胡散臭いことはいいよ。とにかくおねがい」
「あなたのその性格なら、友達すぐにできますよ」
「できないよ。俺、プールとか持久走とか休まなきゃだから、どうしても皆が嫌うものだから反感くらうんだよね」
「反感?」
「ずる休みだの、せこいだの。病気なら学校来るなだの。それとも、霧島さんもそう思う派?」
そう思う、と言えば散々私の勉強を邪魔した彼は、私の元から離れてゆくだろう。彼のせいで予定が狂ってしまっている。けれど、私は昨日の相田先生の言葉を思い出した。
――少しでも、声掛けてやれないか?
「……別に、そんなに細かったら激しい運動できないっていうのも、分かりますよ」
ため息交じりにそう呟くと、彼は目を輝かせた。
「本当?良かった。まあいいんだけどね、ずるいとか言われても、学校来るなとか言われても、本当にその通りだと思う」
「……そうやって納得するから反感をくらうのでは?」
「ううん、反論したよ。でも、無理だった。なんかもうみんな、俺のことが気に食わないんじゃなくて、気に食わない人間を無理矢理探し求めて、一致団結してそいつを輪から放り出したい感じ。分からなくはないけどね。まあ、どうせ死ぬから、俺のことを放りなげても――あ、どうせ死ぬから、はだめなんだ」
彼は終始笑顔で話していた。かなしくないのか、恐くないのか、幸せになりたくないのか、生きたくないのか、いろんな疑問が私の頭の中を駆け巡り、出てきた言葉は「すみません」だった。
「……え?何で?」彼は不思議そうに尋ねた。
「昨日は何も知らずに説教垂れてしまって」
「あー、いやいや、本当にその通りだなって思ったから」
「自分だったら、って考えると、あなたに対して言った言葉が申し訳なくなりました」
「気にしないで、俺、メンタルは誰よりも強い自信があるから」
「そうなんですか。よかったです」
「……あ、もう結構時間たっちゃったね。俺、帰るよ」
「え?」
てっきり遊びに行こうとしつこく誘われると思っていたが、意外にも諦めが早かった。
「勉強頑張って」
彼は、自習室に戻って、荷物を片づけて再び出てきた。
「じゃあ、また今度」
後ろを向いていて、そう告げる彼の表情は解らなかった。けれど、すれ違う背中がどこか頼りなく、寂しそうで、私は思わず腕を掴んだ。
「びっ……くりした。どうしたの?」本当に驚いたようで、目が丸い。私は勇気を振り絞った。
「あの……明日、なら……予定、あいてます」
「……えっ」
「明日は、学校自体閉まってるんです。だから……明日なら、遊べます」
彼はずっと目を見開いていた。慌てて掴んでいた手を放す。しかしあまり乱暴に扱うと折れてしまいそうなくらいの手で、慌てて私は謝った。
「あっ、す、すみません、大丈夫ですか?」
「……ありがとう」
切ない笑顔だった。思わず、口をつぐんでしまうくらい、かなしい笑顔だった。
誰よりもメンタルが強いと言っていたが、本当は誰よりも心がボロボロなのではないか。誰よりも、上面を着飾るのが上手なだけではないのか、そう思わざるを得なかった。
「じゃあ、明日、学校前にきてくれる?」
彼はいつもの調子を戻していった。
「はい」
「ありがとうね、俺から言ったんだけど、無理しなくていいからね」
「無理してません」
「そっか、よかった」
そう約束して、連絡先を交換して別れた。
けれど、次の日岸谷凪は学校前へ来なかった。代わりに1通のメールが届いていた。
「本当にごめんなさい、今、病院に居ます」
私は病院の場所を訊いてすぐに駆けつけた。まさか、何か悪いことが――。
話を訊くと、彼は朝突然発作を起こし、倒れたらしい。相当無理していたのかもしれない。
「ごめん、本当にごめんなさい。せっかく約束したのに」
私の姿を見て、そう何度も謝っていた。
「いいですよ、別に……こんなときくらい、自分の体のこと、心配してください」
「俺のことはどうでもいいから。霧島さん、両親に怒られたりしない?大丈夫?」
「何で人のことばっかり……」
そう呟かずには居られなかった。「俺のことはどうでもいい」なんて、まだまだ17歳である彼が言うセリフではない。それどころか、私の心配ばかりしている。まだ出会って1日だというのに……。
「俺には将来がないからさ、霧島さんがこれから困ることがあっても、責任とりきれないから、なるべく迷惑かけないようにしなきゃ」
「……」
「はっ、将来がない、も禁句?」
「本当にないんですか?」
「え?」
「もしかしたら、生きられるかもしれないじゃないですか」
「それはないよ、好きにしてっていわれたんだもん」
「絶対なんて、あり得ないんです。もしかしたら、もしかしたら。くだらない言葉かもしれません。けれど、私はこの言葉にこれまで何度も救われました。『もしかしたら』って……唱えていたら、無責任かもしれませんが、本当に叶う日が来るかもしれないじゃないですか」
「……」
彼は少し黙った後「ふふっ」と吹き出した。
「な、何ですか?」
「俺たち、同い年なのに、何で敬語なの?」
「それは、たまたまですよ……」
「なんか、元気出た」
「今まで元気じゃなかったんですか」
「うん」と困ったように笑う彼の表情が胸に突き刺さった。
「……今度、暇な時、絶対遊びましょう」
そう言いきる。「平気なの?」と心配そうに尋ねられた。
「平気ですよ。かなしいじゃないですか、毎日元気じゃなかったなんて」
「……良い人だね。霧島さんなら、周りに人たくさん集まるね」
「いえ、私は固い人間ですし、集まるなら、テスト前くらいですかね。遊びを優先するのはごく稀なケースです」
「そうなんだ、ありがとうね」
彼は、にっこり笑った。それが、裏のない、純粋な笑顔だとすぐにわかった。
家に帰ると、珍しく和博が玄関に居た。機嫌が悪いのか、いつにもまして嫌な顔をしている。
「お前、どこに行ってたんだ」
「……学校」
「勉強したのか?」
「うん……」
「来年は受験だ。気を引き締めろ」
「わかってる」
私はそそくさと家の中に入った。人のせいにするのはよくないが、友達が出来ないのはこのせいであるとも思っている。私は、遊び呆けている人を見下したことはない。ただ、自分は将来に役立つから勉強を今するのだ、と思っているだけだ。けれど、少しだけ、友達というものが羨ましいと思う時もあった。
続く