長編小説「生きがい」#1
岸谷凪との出会いは不思議なものだった。
1月5日、外に出ると鳥肌が立つような寒さを覚えた。それでも私は勉強をしに学校へ行かなければ行けない。
「お姉ちゃん、遊んでよお」
聞きなれた声に振り向くと、まだ5歳になったばかりの妹の美紅が外に出てきてまで私の服を引っ張った。
「もう、私は来年は3年なんだから、勉強しなきゃだめなの」
軽く叱ると、私の母である沙希が困った顔で家から出てきた。
「桜は忙しいんだから、よしなさい」
その声にやっと美紅は「はーい」と納得した。
足早に学校へ向かう。冬休みである今、朝の8時半から昼の12時まで学校で勉強するのが日課だった。夕方は3年生が増え、教室が使えないのである。
今のうちから勉強を、と何度もいってくれたのは父の和博だった。おかげで成績は高校で常にトップ、いい大学への推薦枠も取れるということだ。
どれだけ成績がよくても、勉強だけは怠らない。そう思ってきた。
自習室を除くと、珍しく誰もいなかった。私は嬉しく思い、自習室へ入った。あいているなら、教室よりは断然自習室のほうが位置的にも部活動をしている生徒の声が届きづらく、勉強する環境が整っているのだ。
窓側の一番前の席で勉強道具を広げる。すると、1時間もしないうちに、バンッとドアが開いた。
「ここで反省して――あ、霧島」
生活指導担当の相田先生だった。あまりにびっくりして、あわててたずねる。
「ど、どうしたんですか?」
「お前、今日も勉強か。えらいな。それでさ、こいつも一緒に勉強していい?」
先生の指差す方向には、見覚えのない男子生徒がいた。
「おら、岸谷、何ボーっとしてんだよ」
彼に対し、随分と怒っているようだった。それに比べ、岸谷と呼ばれた生徒は無言のまま椅子に座り、勉強道具を開いた。
「俺がもう1回来るまでそこから出るなよ、わかったな?」
「……」
「返事しろ」
「……はい」
相田先生はピシャリとドアを閉めた。なんだったんだろう、と勉強に戻った。すると、男子生徒は開いた勉強道具を閉じ、私のほうへ寄ってきた。
「ねえ」
げっ、話しかけられた、と思いながら、「何ですか」と無愛想に訊く。あまり先生に怒られるような生徒とは関わりたくなかったのだ。
「何で勉強するの?」
初対面でしかも勉強中の私に、いきなり馴れ馴れしく話しかけてきて、私は少しの苛立ちさえ覚えた。
「将来に役立てるだめです」
ぶっきらぼうにそう言うと、彼は顔をぱあっと明るくさせた。
「だよね、だよね」
「……?」
「じゃあさ、俺と一緒に説得してくれないかな?先生に」
「は?何を?」
「勉強は将来に役立てるためにしてますって。君、学年トップの子だよね?君が言えば絶対通じると思うしっ」
突然キラキラした表情で話す彼。理解できそうでできない言葉。状況がいまいちつかめずにいたが、次の彼の言葉で、すべて話が繋がった。
「俺、20歳まで生きられないんだ」
「……え?」
「持病で、小さいころに医者に言われた。小学生まではずーっと病院にいて、中学は入退院繰り返してたんだけど、15のときに、治らないからもう好きにしなさいって言われた。だから俺はその辺遊びまわりたかったんだけど、成績だけはよかったから高校に入りなさいって親に言われてさ。ここの学校、出席日数とかあんま見てないから、受かって、今に至る」
「……」
「でも、先生が課題やりなさいだの、授業ちゃんと受けなさいだのうるさくて。だから、一緒に説得してくれない?」
いきなりの重い話に、彼の軽い口調が似合わなかった。それにしても、彼はまるで生きる希望を失っているようだ。死ぬと告げられたのなら当たり前かもしれないが、もう少し、生きたいって思ってもいいんじゃないかとこちらが考えてしまうくらい、死ぬことが当たり前のような振る舞いだ。
すると彼は、いたずらに笑った。
「あ、それなら退学すればって顔でしょ、それ。それがねえ、親に何度も言ってるんだけど、許してくれないんだよね。お父さんには殴られたし」
違ったが、彼の言葉に驚いて訊き返す。
「えっ?」
「どうせ死ぬんだから、いいでしょ、俺の好きで。勉強なんてしたくないよってずーっと言ってたらね。俺にはあの人が理解できないわ。たぶん、俺のこと嫌いだと思うし」
「……馬鹿ですか?あなた」
それまでのイライラもあり、思わず口が悪くなってしまった。彼は「へっ?」と変な声を出した。
「大好きだから、殴ったんじゃないですか」
「何それ」
「どうせ死ぬって言葉、最悪ですよ。あなたは入院中、家族に支えられてきたんじゃないんですか?家族はあなたを信じて、看病してきたんじゃないんですか?それなのに、そんな簡単に『死ぬ』なんて家族に言ったら、悲しみますよ。殴りもしますよ。もっと愛されてるって自覚持ってください」
自分で言ってはっとする。勉強をそっちのけで説教たれてしまった。彼は目を見開いて何も言わなかった。
慌ててペンを進めた。集中しなければ。12時まで2時間くらいしかない。そう思っていると、ずっと黙っていた彼は突然笑った。
「そうだね、ごめん」
「……」
「でも、俺も気持ちもわかるよね?もう無理だから好きにしろって、15で言われたんだよ」
「そうなんですか」
「……みんな、俺の気持ちはわかってくれないんだよね。興味ないって感じかなあ」
「初対面ですし」
「まあ、理解者がいて、生きたいって思ったら、死ぬことも怖くなっちゃうもんね。先生の言うとおりの、つまんない日々を送ってるほうがいいね」
彼はすたすたと歩いて勉強へと戻った。途中あくびが聞こえたり、顔を伏せたりしていたが、何とか次に先生が来るまで耐え切ったようだ。
「岸谷、お前、逃げずによくがんばったなあ」
相田先生も意外だったのか、笑いながら男子生徒の頭をたたく。普段悪い生徒に注意している中で、こんなにすんなり言うことを訊いたのも珍しいケースなのだろう。
「課題はまったく進んでないが。まあ、今回は居ただけでも許してやろう」
「じゃあ、帰ってもいいですか?」
「ああ」
「やったあ」と少年のように喜ぶ彼に、本当に病気なのかと疑った。明るく元気で、死にそうとは思えない。けれど、異常なまでにやせ細った体を見て、現実を突きつけられた気分になった。
「じゃあ、先生、また明日」
彼の笑顔に、いつも威厳を持ったきつい顔をしている先生も思わず頬を緩めていた。
「明日は悪さするなよー」
「はーい」の声とともに、彼は自習室を出た。
「ごめんな、霧島」
「彼が何か悪さしたんですか」
「ああ。まあな。たいしたことじゃないんだけど、学校で携帯ゲームをいじってたんだよな。ちょっと怒ったけど、あんだけ素直だと、甘くなるな」
「……」
「あいつ、学生時代なかったも同然だから、ふざけたいってのもわかるけどな。って、話しすぎたな」
「いえ、彼からもういろんな話聞いてるんで大丈夫です。なぜ勉強しているのか聞かれ、将来のためと答えたら、じゃあ自分は20歳で死ぬから勉強しなくていいんだよね、というようなことを訊いてきました」
「そうか……」
「私は、そのことに関しては何も答えられませんでした」
そう言うと、相田先生は悩むように言った。
「先生も、なるべく力になってあげたいんだが、何だが、生きる事を望んでいるのはあいつの周りの人間だけな気がしてな。あいつ自身は、どうでもいいんだろうな……そこで、それで納得しちゃだめだが」
「そうですか……」
「お前も、あいつのことが気になるなら、少しでも声掛けてやれないか?同じ学年で、3組の岸谷凪だ。あいつも、誰にでもそういう話するわけではないだろうし、お前だからしたんだろう。最初は相成れないと思うが……」
「……暇があったら、施行してみます」
「よろしくな。勉強もがんばれ。期待してるからな」
先生はそう残して自習室を出た。
続く