8月15日、終戦記念日。ご英霊、そして戦後の日本を支えてこられた全ての方々に感謝する日<(--)>合掌

 

海軍航空隊串良(くしら)基地(鹿児島県鹿屋市)、特攻隊員363名、一般攻撃隊員210名、573名もの方々が飛び立ち、散華されました。

 

この基地の地下壕第一電信室で隊員のモールス信号を受信、「セタセタセタツー……(我、戦艦に突入す)、「クタクタクタツー」(駆逐艦に突入)、「ホタホタホタツー」(空母に突入)「ツー」は戦艦に突撃する直前の音。

<(--)>合掌

 

 

 

実際に突入できたのはわずかで多くは撃墜、すぐに「ツー」が途切れ、24時間3交代制で勤務した関連部隊の通信士が記録され、この最期を伝えられるよう、現地でQRコードにアクセスできるそうですが、私はお聞きできないと思いました・・・

 

当時の通信士、市田謙三さん(元兵曹)は「死に水をとるつもりで通信を聞いた」、平和ガイドの迫睦子さんは「見学に来ても騒いでいた子も、命が消えた瞬間の『ツー』を聞くと黙り込む。特攻隊員たちにも夢や希望があったと想像してほしい」、と語られます。

 

現在の基地跡には串良平和公園があり、散華された573名のご英霊の慰霊塔が建立されています・・・。

 

終戦の日、多くの方が大東亜戦争に関するご投稿をされていますが、また韓国が「靖国参拝に遺憾表明、歴史を直視し真の反省を行動で示すよう求める」と一報が。

 

本日、作家の山下弘枝先生(楠木正成公ご子孫)はXに【大東亜戦争では韓国も日本として戦った。特攻で散華された韓国の英霊も鎮まっている。海軍中尉で多くの特攻機を整備士として見送った父からは、韓国の戦友が飛ぶ前日、祖国の民謡「アリラン」を歌って送り出したという事実を聴き、驚いた事もある。韓国政府は「遺憾表明」を政治利用するのではなく、共に自国の英霊を弔う事に専念すべきだ】とご投稿。

 

反日政策で、日本が【併合の36年間で、63兆円もの国家予算をかけ、韓国の近代化に尽くした】という歴史的事実を知らないのでしょう、真実の日韓史を知るには、近・現代史研究家、水間政憲先生の『ひと目でわかる日韓併合の真実』、中杉弘先生の『帰化人が国を亡ぼす』を是非、お読み下さい!

 

日韓併合時代とは、身分制度、両班(貴族階級)による搾取や拷問などの悪習が廃止され、国民全員が教育を受けられるようになり、朝鮮の歴史上、最も国民が幸福であった時代です。

 

水間先生のご本には、日韓併合時代の写真が豊富で、朝鮮ホテルの着飾った優雅な朝鮮人女性、遠足に出かける子供たちの笑顔が、真実を物語っています。

 

昭和19年10月25日から終戦まで300日間、海軍2431名、陸軍1417名、計3848名(航空特攻のみ)もの方々が、日本を守るため散華されました。ご英霊に謹んで哀悼の誠を捧げます・・・

本日、早田ひな選手「鹿児島の特攻資料館行きたい」、「生きてる事、卓球できること、当たり前じゃない」、との発言が話題、早速、「特攻は犬死だ!」等々、とわめく者が絶えませんが、日本を、家族を、日本の未来を守るため、散華された方々は決して犬死などではありません。

 

まだ24歳とお若い早田選手、その年代の若者が特攻、わずか17歳で特攻されたご英霊もいらっしゃいます<(--)>合掌

 

 

鹿児島には知覧(ちらん・陸軍)の他、鹿屋(かのや・海軍)、万世(ばんせい・陸軍)に特攻平和記念館があります。

 

鹿児島県南さつま市の、日本三大砂丘と呼ばれる、夕陽の美しい吹上浜のすぐ近く、大戦末期、陸軍最後の特攻基地「万世飛行場」が建設。戦局激化により滑走路は短く、終戦前のわずか4か月しか使われなかったため、「幻の特攻基地」とも呼ばれ、ここから201人もの若者が特攻、散華されました<(--)>

 

あの小野田寛郎さんの、「私の仲間は皆、俺たちがやらなければ、誰が日本を守るんだ!と散華して行った。何故、日本を守った方々に靖国神社で有難うと言えないのか」とのお言葉が忘れられません。

 

歌手・MISIAさんの「逢いたくていま」、知覧の平和記念館を訪れ、ご英霊のお手紙に「これ以上、切実に会いたいという思いが込められた手紙はない」と、命の重さ、絆を改めて実感し創られたとお聞きしました。

 

♪・・・もう二度と逢えないことを 知っていたなら 繋いだ手を いつまでも 離さずにいた 「ここにいて」と そう素直に 泣いていたなら今も あなたは 変わらぬまま 私の隣で 笑っているかな・・・

 

 

先日も、「戦争反対!話し合いで解決しよう!」などとのぼり旗を立て、座り込みをしている活動家がおりましたが、「戦争反対!」と叫べば平和になるのではありません。

 

現行の、「日本国憲法」とは、英文で書かれた占領基本法であり、占領下の国に憲法を押し付けることは「国際法違反」、石原慎太郎先生、田母神先生も教えられる通り、【自主憲法と自国軍をもって初めて独立国】なのであり、現在は石原先生のおっしゃった通り、「日本はアメリカの属国としての平和を享受しているに過ぎない、平和の毒にやられている」のです。

 

「物事は入り口が大事。入り口を間違えると出口も全て間違えてしまう」、「日本国憲法前文にある、平和を愛する諸国民などどこにもいない。日本国憲法とは、いないものを前提につくられた虚構の憲法」(中杉弘先生著・虚構の憲法)

 

15日の終戦記念日、ご英霊に感謝し、「憲法問題の解決」を国民一丸となり願う日にしなければならないと思います。

硫黄島で栗林中将と共に散華された、市丸利之助(りのすけ)中将はパイロットを志し、大正15年、霞ヶ浦での訓練中に墜落、瀕死の重傷を負われ、約4年間の闘病の中で、漢詩、短歌等を学び、人格修養に努められたと伝わります。

 

日本軍の最終突撃終了の1945年3月26日、米軍は洞窟陣地に、ルーズベルト大統領宛の遺言状を発見。その原文は「日本海軍市丸海軍少将書ヲフランクリン ルーズベルト君ニ致ス」に始まる堂々たる文章。

 

 

 

 

・・・・あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくにアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたではありませんか。

好計を弄して有色人種を騙すといういわゆる悪意のもとの「善政」によってかれらから考える力を奪い、無力にしてきたのです。

 

近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を試みましたが、 あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、ひたすら有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口々にするようになったのです。

 

どうして神意に背くのでしょうか。

 

大東亜戦争により、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれ各地の民族が善政を行い、 そしてあなた方がこれを破壊しなければ、全世界が恒久的平和を実現するのも決して遠くはないのです。

 

・・・しかしながら、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂のときに失脚したのです。願わくば、わたしの言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないように。

https://x.com/2RmmXGd8Jk61753/status/1722998555881660573

 

中将の遺された一句。

「夢遠し 身は故郷の村人に酒勧められ 囲まれてあり」

 

ご英霊の皆様は、日本の平和と遺されたご家族、未来の日本人のために散華されました。

そして生き残られ、戦後日本を支えられた皆様も、このような「ありふれた」日常、平和を願われ、戦ってこられたことでしょう。

 

ですが、いまなお世界では戦争が絶えたことがありません。

 

「人類は今こそ、人間の生きる目的と、人類の使命を自覚しなければならない、人間は欲求を満足させれば、それが人間の最終の幸福なのだろうか」

「世界は日本人により平和になる」(中杉弘先生著・日本人の使命)

大戦末期の「硫黄島の戦い」では、日本軍2万900人に対し、米軍は11万1000、日本は5倍の敵と戦い、米軍は2万6000人以上の死傷者、精神を病む兵士多数、硫黄島、沖縄戦で死傷者のあまりの多さから、米軍は本土決戦回避したのです!

 

圧倒的優勢な米軍に対して、最後まで将兵の士気を低下なく戦い、米軍からも「屈指の名将」と大変高く評価、恐れられました。

 

【アメリカ海兵隊公式戦史】には、

「栗林中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十代の“サムライ”は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。

 

これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。

 

現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った・・・・

 

チェスター・ウィリアム・ニミッツ元帥(第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官、太平洋戦域最高司令官)も、「硫黄島防衛の総指揮官である、卓越した栗林忠道陸軍中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞にすることに着手、この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いて他に求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、偵察写真に現れた栗林の周到な準備を一見して舌を巻いた」

 

 あるアメリカ海兵隊員は、「ジャップのなかに栗林のような人が他にいないことを願う」

・・・・

 

このように、敵のアメリカ側が中将から多くを学んでいるのに対し、日本では学校で教えません。硫黄島の死闘から学び、「ご英霊あっての日本」と教え、伝えていくことが「教育」です。

 

 

 

 

あまり知られていませんが、日本の誇る憲法、社会学者のお一人、小室直樹先生「硫黄島栗林忠道大将の教訓」、「野辺には朽ちじ 硫黄島栗林中将の戦い」、中将に関するご高著を執筆されています。

 

【訣別の電文】

国の為重き努を果し得で

 

矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

 

茲に将兵一同と共に

 

謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ

 

永へ御別れ申上ぐ・・・・

 

1945年 享年わずか54。

文才に秀で、校友誌などに美文が残されている中将らしい高潔な電文、

1967年(昭和42年)、中将は勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲されました。

<(--)>合掌

先の大戦末期、昭和19年10月25日、フィリピンのクラーク基地から、最初の神風特別攻撃隊が出撃。この慰霊碑は当時、特攻隊員から可愛がられた少年、後に歴史研究家となったダニエル・ディソン氏が中心となり建立。また、マバラカット市にも特攻隊員の像があり、真心あるフィリピンの方々に心より感謝致します。現地の方々は、日本からの参拝者は大変少ない、と嘆いておられると聞きました。

 

そして、「特攻の母」として知られ、あの石原慎太郎先生にも敬愛された鳥濱トメさん。

石原先生が制作・総指揮の映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」にもなり、「靖国のご英霊と、生き残られた現在のご年配の方々の懸命な努力の上に、日本と私達がある」、このことを教えるのが子供たちにとって一番の「教育」です。

 

 

トメさんは昭和4年、27歳で知覧町に「富屋食堂」を開き、昭和17年には陸軍指定食堂となり、多くの飛行兵の方々が訪れ、皆様から「お母さん」、「おばちゃん」と親しまれ・・・

 

知覧は大戦末期、航空機に250キロ爆弾を抱え、敵艦に体当たり攻撃を敢行する「特攻隊」の最前線基地となり、昭和20年3月からは毎日のように沖縄へ出撃、その出撃前の日々を食堂で過ごした皆様はまだ10代、20代の若者たち、トメさんは皆をわが子のようにかわいがられ、私財を投げ打ってまで尽くされました。

 

勝又勝雄少尉は、「俺の余した30年分の寿命は、おばちゃんにあげる」と出撃、合掌。

 

終戦直後、トメさんは飛行場跡地に1本の棒を立て「これがあの子たちのお墓だよ」、それから毎日、手を合わせ続け、町長に働きかけ、飛行場跡に観音堂が建立、さらに近所の子供たちにもお参りをさせ、掃除をさせてお菓子を配り、特攻隊の方々について語り続けられました。

 

 

 

今では毎年5月3日、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が執り行われ、全国から1000名以上もの参列者が訪れるようになり、トメさんは平成4年(1992年)4月、終戦から47年後、89歳で隊員たちのもとへ旅立たれ、隊員さんたちとトメさんが、再会を喜び合う姿が目に浮かびます<(--)>合掌

 

1933年、国際連盟総会では、日本がロシアの南下に備え、独立させた満州国を国際管理下に置くよう提案する、リットン調査団の報告書を採択。日本全権大使であった閣下は、連盟脱退を宣言し退場、その直後に行った公演が書籍化され(『政党を脱退して日本国民に訴う』)、未曾有の国難を乗り切るため、政党政治ではなく、各議員が主体的に考える大切さを語られ、現代にも通ずることです。

 

よく言われますが、「満州国は日本が大陸を侵略するために建国した傀儡政権」などではなく、日露戦争に勝利したとはいえ、当時はまだ大国ロシアの南下を防ぐため、あくまで日本の自衛のためでした。

 

さらに、いまなお「日本は無謀な侵略戦争をし、諸外国に迷惑をかけたので謝罪すべき」などと言う社民党議員もおりますが、当時の政府も、閣下も軍人も日米開戦など望まれませんでした。

 

閣下の洞察力、先見性は大変すぐれ、例えば「ドイツ人やロシア人は信用ならないと思いながら、アメリカやブリテン(英国)等との、全面戦争回避の為なら手を結ぶ」、このような腹芸(はらげい・深謀遠慮を表面に出さない)のできる大臣、議員など日本にはいません。

 

閣下のお言葉、「外交とは、大和民族の生存権の主張である」、「世界を救えるのは、日本精神」、現在の首相や大臣、国会議員、官僚からこの言葉が出てくるでしょうか。

歴史的事実、偉人から学んでいない、首相、政府、官僚、この閣下のお言葉すら知らないことでしょう。

 

 

閣下のご著書『政党を脱退して日本国民に訴う』(1934年)は、GHQにより焚書(ふんしょ)、「なかったこと」にされ、戦後教育では東條英機元首相、閣下は悪人扱いされますが、お2人とも戦争には消極的で、ハル・ノート(※日本のこれまでの対外行動を全否定する内容)で最後通牒を突きつけられても、外交官、外相である閣下は、粘り強く交渉されました。

 

閣下は、「国際連盟の脱退を決め戦争に導いた極悪人」とも言われますが、もしそうであれば、閣下の国連演説などが収録された『松岡全権大演説集』がGHQによって焚書されることはなかったでしょう。

 

1938年3月、樋口季一郎少将(当時)は、ロシアのオトポール(現・ザバイカリスク)駅で、ナチスの迫害から逃れて来たユダヤ人が立ち往生、凍死する危機を伝え、閣下は無賃輸送で助け、このことをナチスに抗議されるも、東条英機首相(当時)は拒否、ユダヤ人を排斥しない事を日本の国策にすべき、と政府に求めた板垣征四郎陸軍大将、当時、このような活躍をされた方々が、GHQの陰謀により、A級戦犯にされたのです。

 

 

ゆえなくして戦犯とされた方々は、政府が世界に働きかけ、国会において1956年3月までに赦免、釈放、名誉回復されたのであり、いまだに「靖国神社にはA級戦犯が合祀されている」という者がおりますが、A級戦犯など存在しないのです。 

 

歴史的事実を知りましょう!

8月6日、9日、黙祷の日。原爆投下とは「戦争だから仕方ない」のではなく、何の罪もない、「無辜の人々が大量無差別殺人された」と覚えて下さい。

 

よく「歴史と政治、歴史と私達の生活は関係ないのでは」と言われますが、そうではありません。Xの自己紹介にも記しておりますが、戦後、日本の偉人、歴史的事実を教えない教育が、国益や人々の幸福のためではなく、私利私欲で判断する官僚、国会議員を生み、日本の国力低下、社会荒廃の根本原因となっています。

 

歴史を学ぶと、「原爆投下とは戦争だから仕方ない」と後ろ暗い米国が日本人を洗脳しようとしていること、歴史的事実や偉人から学ばない、今の国会議員は「日本の首相となり、最高権力者になり、国家予算を自分の自由にすること」を目指し、官僚は「いかに良い天下り先を確保するか」、私利私欲しか考えていない、このことが国力低下の原因であることが、分かってきます。

 

岸田首相が自分の息子を補佐官にするなどまさにそうです。

国家有為の政治家として育てようとするならば、まず県会、都議会議員から始め、駅前に立ち演説し、国民の皆様の声を聞き、困っている方がどれほど多いか、肌身で感じ取らせ苦労をさせなければ、良い政治をすることはできないはずです。

 

本日、作家の早坂隆先生が特攻隊のご英霊の写真と共にXご投稿。

【祖国の行く末を案じながら、特攻で命を散らした若者たち。現在の日本は、天上の彼らが喜ぶような、微笑むような国になっているか。歴史の重みを忘れた、軽薄な、芯も軸もない国家になっていないか。彼らの眼差しを軽んじていないか】

 

 

 

まさにそうです。

現在の国会議員や地方議員、官僚で靖国神社に参拝する者がどれだけいるでしょうか。

 

先の大戦では、日本の自衛とアジア植民諸国を独立させ、特攻されてまで日本を守ろうとしたご英霊、戦前から戦後、激動の大変な世の中を生き抜いてこられた、今のご年配の方々があってこそ、今の平和な日本があり、「自分はご英霊の尊い犠牲の上にある」ことを教えないからこそ、若年層の自殺やいじめ問題が増加、大切に敬うべき、ご年配の女性を殴り殺し現金を奪う、ルフィ事件などが起きてくるのです。

 

「よい教育がよい人・よい家庭・よい社会・よい国をつくります」

私は、ご英霊の願われた、よい日本を目指し、次世代にひきつぐため、政治家を志しました<(--)>

 

いまだに巷間では「〇〇朝が正統」、「今の皇室は〇人」等々、陰謀論を聞きますが、それらに惑わされると、「思考が拡散」してしまい、現在まで存続するご皇室を国家の中心としなければ、日本という国家はまとまらなくなってしまいます。

 

日本史をひもとくと、朝廷内での権力闘争、南北朝分裂もありましたが、時代が進むにつれ、国家が一つにまとまらなければ、日本全体、国民もまとまらなくなる、そしてまた戦乱の時代になり、外国の侵略の可能性もあることを皇族、公家、武家の方々も【学習】されたのでしょう、武家政権の時代となっても、ご皇室を武力で滅ぼすことなく、自分より家柄の古いご皇室から征夷大将軍の位を授かり、陛下に代わり日本を統治する、という統治構造とし、公家、武家がまとまりました。

 

この【学習】がなければ、諸外国のように異民族支配の王朝が交代、そのたびに大虐殺の起こる「易姓革命」の、中・韓国、諸外国のような政情不安の国となっていたでしょう。

 

最初に日本を統一された、初代神武天皇から続くご皇室、という「中心点」から国家の秩序が生まれ、諸外国の人々が驚く、「道路で寝ていても、追いはぎに遭うことはまずない」、安全・安心、清潔な国家であるのです。

 

日本には、北畠親房公の『神皇正統記』と双璧(そうへき・甲乙がつけられないほどにすぐれている二つのもの)とも言われる、中世日本で最も重要な歴史書と評される『愚管抄』(ぐかんしょう・愚管は私見の謙譲語)があります。

 

 

『神皇正統記』は、神代から当代までの神話、天皇のご事績、皇位継承について記し、後醍醐天皇の項には特に力を入れ、南朝の正統性を主張、近世の歴史家、水戸学派に多大な影響を与えました。

 

中国南宋の朱子が大成した「朱子学」は鎌倉時代末期に入り、当時の朝廷でも盛んに講じられ、名分(めいぶん)とは、地位身分に応じ、尽くすべき人それぞれの本分のことであり、君臣の道理を説きました。

 

親房公は朝廷に逆らう足利氏を非難し、南朝に人々をまとめるため執筆したとも言われ、天皇に君主としての「徳」を求め、三種の神器を有する天皇は、同時に神器が象徴する君徳を養い、それが天下に示されるような国家が理想、と説かれました。

 

日本神道には【中心・分派の法則】という教えも伝わります。

(※中杉弘先生著「日本原理公論」

 

国家の中心、政府の中心、一家の中心が乱れたり、失ったりすれば、それはその組織全体が混乱するのであり、今の岸田首相に「徳」がないため政界は混乱、再び、南北朝のような混迷の時代でもありますが、昭和天皇には徳がおありであったからこそ、日本は「奇跡的戦後復興を果たし、世界で一番安全な良い国」となったのであり、現在の陛下の御名前に「徳」の字がおありになるのは、偶然ではないような気もします・・・

8月1日は、菅原道真公のお誕生日。道真公は「日本文化、国風文化の祖」とも言われます。

 

道真公は学問を通して人づくりにも取り組まれ、書物を書写、音読が主流であった当時、要点を抽出し集中的に学ぶ、現代にも通じる学習法を考案、その結果、門下生から秀才が多数輩出、「龍門」と呼ばれる一代学閥も生まれました。

 

道真公は、文章博士(もんじょうはかせ/漢文学及び中国正史など、歴史学を教授)、朝廷の文人社会の中心的存在、学者、忠臣として名高く、宇多天皇、醍醐天皇より信任され、宇多天皇の治世「寛平の治」を支えたお一人、学者の家系であり、母方・伴氏は、大伴旅人、家持、高名な歌人を輩出、菅原孝標女(『更級日記』作者)は、六世のご令孫にあたります。

 

国家事業である国史編纂にも取り組まれ、『日本書紀』をはじめとする五つの国史を、テーマごと分類、再編集された『類聚国史』(るいじゅこくし)は、学者必見の文献となり、大陸の国々に対して日本の立場を示す上で、大きな役割を果たし、大陸の書物を和訳する一方、日本文学を翻訳、大陸の国々へ紹介、文化交流に大きなご功績を残され、このことが後に「国風文化」の開花につながりました。

 

当時、学者としては異例の右大臣昇進、ご活躍に嫉妬した、左大臣・藤原時平一派の策略により左遷(昌泰の変)、大宰府(現・福岡県太宰府市、筑紫野市)へ大宰員外帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)として左遷、大宰府で亡くなられました。

京では、藤原時平が39歳で病死、右大臣・源光が狩りの最中に泥沼で溺死(!!)、因果応報、当時、誰もが道真公の怨霊によるものと恐れ、やはり人間は、悪いことはできないのであり、一条天皇の御代、道真公に正一位左大臣、太政大臣が贈られました。

 

清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人とされ、後に天満天神、学問の神様として信仰され、太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されています。

 

 

 

 

道真公の知られざる一句があります。

 

このたびは 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随(まにま)に

(古今和歌集、小倉百人一首/今度の旅は急のことで、神様に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。神様、手向けの山の紅葉を捧げますので、神様、どうか御心のままにお受け取り下さい・・・)

 

「幣(ぬさ)」

色とりどりの木綿や錦、細かく切った紙。旅の途中で道祖神にお参りするときに捧げました。「取りあへず」は「用意するひまがなく」という意味になります。

 

「手向(たむけ)山」

山城国(現在の京都府)から大和国(現在の奈良)へ向かう時、越す山の峠を指し、さらに「神に幣を捧げる」という意味の「手向(たむ)け」が掛けてあります。

 

千年もの時を経て、神様を敬う真心、当時、道真公がご覧になった、紅葉の鮮やかさや秋風まで、感じ取れる名句ではないでしょうか(^^)

(個人的に、この句を超える句はないのでは・・・と思います)

崇徳天皇、菅原道真公、平将門公、非業の死を遂げたこの方々、日本三大怨霊とされます。将門公の祟りは実際にあり、首塚はいまも大切にされています。

 

千代田区大手町の「神田明神」は、730年に大己貴命(大国様)を祀り創建され、14世紀初頭、将門公の祟りとされた疫病が流行、そこで将門公の首塚の近くにあった神田明神が、将門公を供養したところ疫病がおさまり、1309年に将門公を祀りました。

 

江戸時代では大切にされましたが、明治7年に明治天皇が行幸する際、逆臣が祀られているのは良くないと祭神から外され、境内摂社へ左遷されるも、昭和59年にめでたく本社復帰、これはまさに摂社(支社)から本社への栄転、今では出世のご利益がある、とビジネスマンの参拝が多いと言われます(^^)

 

「将門公の祟り」とは、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎の再建時、首塚を壊し仮庁舎建設後、わずか2年間に大蔵大臣、関係者14名も亡くなり、それ以外にも多くの怪我や病人が続出したため、この仮庁舎は取り壊されました。

 

戦後、米軍が首塚を壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなるなど事故が相次ぎ、地元の方が米軍関係者に「将門公の祟り」について説明され工事は中止、昭和の高度成長時代、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の行員が次々と病気で倒れ、お祓いしたとも伝わります。

 

現在でも隣接するビルは首塚にお尻を向けないよう、首塚を見下ろすようなことのないよう窓は設けないなど配慮、地元の皆様は気をつけられています。

 

現在、首塚は令和の時代を迎え非常に洗練され、周りのビルには窓はありますが、首塚の正面にはビルがなくなり、見晴らしがよくなったので将門公も良い景色をご覧になり、怨念も和らぎますよう願います<(--)>

 

 

 

怨霊、幽霊、祟り、これらは迷信だと完全否定する人もいますが、私は実在すると感じます。

 

かつて、神札を破った近隣諸国の人々がおりましたが、帰国し交通事故に遭い、体が真っ二つになり即死、神罰は存在するのであり、伊勢神宮や靖国神社を冒涜して、ただでは済みません。

 

現代でも、全て科学や学問で説明できることばかりではないのであり、かつて大戦末期、アメリカ軍はご皇室、日本の守り神・伊勢神宮を爆破しようと、大量に爆弾を投下するも、いきなり風が吹いたり、落下しても不発であったり、とうとう爆破できなかったそうです。

 

数年前、不妊に悩む方が出雲大社に参拝し、その夜、お子さんが授かる夢を見て、本当に子宝に恵まれた、という実体験もお聞きし、記録もない太古から、この日本列島に祀られ、大切にされてきたのは、ご利益があり、地元の皆様がご神威を感じ、大切に守ってこられたからでしょう(^^)