大戦末期の「硫黄島の戦い」では、日本軍2万900人に対し、米軍は11万1000、日本は5倍の敵と戦い、米軍は2万6000人以上の死傷者、精神を病む兵士多数、硫黄島、沖縄戦で死傷者のあまりの多さから、米軍は本土決戦回避したのです!

 

圧倒的優勢な米軍に対して、最後まで将兵の士気を低下なく戦い、米軍からも「屈指の名将」と大変高く評価、恐れられました。

 

【アメリカ海兵隊公式戦史】には、

「栗林中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十代の“サムライ”は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。

 

これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。

 

現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った・・・・

 

チェスター・ウィリアム・ニミッツ元帥(第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官、太平洋戦域最高司令官)も、「硫黄島防衛の総指揮官である、卓越した栗林忠道陸軍中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞にすることに着手、この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いて他に求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、偵察写真に現れた栗林の周到な準備を一見して舌を巻いた」

 

 あるアメリカ海兵隊員は、「ジャップのなかに栗林のような人が他にいないことを願う」

・・・・

 

このように、敵のアメリカ側が中将から多くを学んでいるのに対し、日本では学校で教えません。硫黄島の死闘から学び、「ご英霊あっての日本」と教え、伝えていくことが「教育」です。

 

 

 

 

あまり知られていませんが、日本の誇る憲法、社会学者のお一人、小室直樹先生「硫黄島栗林忠道大将の教訓」、「野辺には朽ちじ 硫黄島栗林中将の戦い」、中将に関するご高著を執筆されています。

 

【訣別の電文】

国の為重き努を果し得で

 

矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

 

茲に将兵一同と共に

 

謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ

 

永へ御別れ申上ぐ・・・・

 

1945年 享年わずか54。

文才に秀で、校友誌などに美文が残されている中将らしい高潔な電文、

1967年(昭和42年)、中将は勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲されました。

<(--)>合掌