8月1日は、菅原道真公のお誕生日。道真公は「日本文化、国風文化の祖」とも言われます。

 

道真公は学問を通して人づくりにも取り組まれ、書物を書写、音読が主流であった当時、要点を抽出し集中的に学ぶ、現代にも通じる学習法を考案、その結果、門下生から秀才が多数輩出、「龍門」と呼ばれる一代学閥も生まれました。

 

道真公は、文章博士(もんじょうはかせ/漢文学及び中国正史など、歴史学を教授)、朝廷の文人社会の中心的存在、学者、忠臣として名高く、宇多天皇、醍醐天皇より信任され、宇多天皇の治世「寛平の治」を支えたお一人、学者の家系であり、母方・伴氏は、大伴旅人、家持、高名な歌人を輩出、菅原孝標女(『更級日記』作者)は、六世のご令孫にあたります。

 

国家事業である国史編纂にも取り組まれ、『日本書紀』をはじめとする五つの国史を、テーマごと分類、再編集された『類聚国史』(るいじゅこくし)は、学者必見の文献となり、大陸の国々に対して日本の立場を示す上で、大きな役割を果たし、大陸の書物を和訳する一方、日本文学を翻訳、大陸の国々へ紹介、文化交流に大きなご功績を残され、このことが後に「国風文化」の開花につながりました。

 

当時、学者としては異例の右大臣昇進、ご活躍に嫉妬した、左大臣・藤原時平一派の策略により左遷(昌泰の変)、大宰府(現・福岡県太宰府市、筑紫野市)へ大宰員外帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)として左遷、大宰府で亡くなられました。

京では、藤原時平が39歳で病死、右大臣・源光が狩りの最中に泥沼で溺死(!!)、因果応報、当時、誰もが道真公の怨霊によるものと恐れ、やはり人間は、悪いことはできないのであり、一条天皇の御代、道真公に正一位左大臣、太政大臣が贈られました。

 

清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人とされ、後に天満天神、学問の神様として信仰され、太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されています。

 

 

 

 

道真公の知られざる一句があります。

 

このたびは 幣(ぬさ)も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随(まにま)に

(古今和歌集、小倉百人一首/今度の旅は急のことで、神様に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。神様、手向けの山の紅葉を捧げますので、神様、どうか御心のままにお受け取り下さい・・・)

 

「幣(ぬさ)」

色とりどりの木綿や錦、細かく切った紙。旅の途中で道祖神にお参りするときに捧げました。「取りあへず」は「用意するひまがなく」という意味になります。

 

「手向(たむけ)山」

山城国(現在の京都府)から大和国(現在の奈良)へ向かう時、越す山の峠を指し、さらに「神に幣を捧げる」という意味の「手向(たむ)け」が掛けてあります。

 

千年もの時を経て、神様を敬う真心、当時、道真公がご覧になった、紅葉の鮮やかさや秋風まで、感じ取れる名句ではないでしょうか(^^)

(個人的に、この句を超える句はないのでは・・・と思います)