憲法記念日やかかわった功績の記念日には、必ずX、ネットで話題になり、NHK大河ドラマでも取り上げて欲しいとのお声も聞かれますが、ご実家の白洲家は、摂津国三田藩(現・兵庫県三田市)の儒学者の家系であり士族、遺された業績やお言葉から、「武士」としての誇り、矜持をお持ちであったと伺えます。

 

戦後、GHQにより、わずか8日間で「英文で書かれた」日本国憲法。この憲法に真っ向から異義を唱えられました。

 

 

日本は明治憲法をベースに改正案を進めるも拒否され、アメリカの「敵国」である日本の弱体化を図ることが明確な、戦争放棄を定めた9条。

 

「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに評されたとも伝わりますが、「私はGHQに殺されはしないと思うが、もしかしたら…」とご家族に伝えられた日もあり、次のようなお言葉を遺されています。

 

「敗戦最露出の憲法案は生る。『今に見ていろ』という気持ち抑えきれずひそかに涙す」、「この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」

 

「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない」

 

「今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い」、

まさに現在の政治家です・・・

 

 

ご逝去からほぼ四半世紀が経過する24年後の2009年、マッカーサー記念館の倉庫から、白洲氏が設計され、マ元帥に贈られた椅子と書簡が発見。書簡には“Your most obedient servant. Jiro Shirasu.”(あなたの最も従順な下僕 白洲次郎)」と署名。

 

実際はその正反対であられました。

この署名に、マ元帥は苦笑されながら、日本での攻防の日々がよみがえっていたことでしょう。

 

激動の昭和史、大東亜戦争終戦時、多くのご英霊、生き残られたご先祖様、そして自決をもって青年将校の決起をとどめられた阿南惟幾大将、鈴木貫太郎首相をはじめとする偉人、その日本人の中心に昭和天皇がいらっしゃったからこそ、現在の日本があります。

 

元祖・日本保守党の石濱哲信先生、その他元自衛官の方々が匿名でコメントされていますが、「岸信介首相の時代、アメリカが日本の自衛隊を自由に使えるようにするため、日本国軍にしないように日本国憲法が制定され、秘密協定が結ばれた」、とも言われます。

 

「自国軍を持ち、日本人による自主憲法をもって初めて独立国」と、石原慎太郎先生、田母神先生も教えられますが、そのことすら日本の教育では教えません。

 

日本を良くするためには、子どもたちにより良き日本を引き継いでいくためには、まず歴史的事実、日本の置かれている現状を知りましょう<(--)>

中学時代にご同郷の福井藩士・橋本佐内公が、わずか15歳で書かれた『啓発録』を拝読、「偉い政治家になり、国のために働きたい」とご決意、以後勉学に励まれたと伝わります。

 

佐内公は、早くも積極的に西欧技術の導入・対外貿易を考えられ、帝国主義と地政学の観点から、日本の安全保障を訴えられた先覚者でもあられ、当時の偉人たちからも大変尊敬され、あの西郷公も「同輩としては橋本左内を推す」と遺されていますが、わずか25歳で、安政の大獄により死罪とされました<(--)>合掌

 

 『啓発録』

去稚心(稚心を去る) : 目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。

 

振気(気を振う) : 人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。

 

立志(志を立てる) : 自分の心の赴くところを定め、一度決めたら失わないように努力する。

 

勉学(学に勉む) : すぐれた人物の素行を見ならい、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、慎むとともに、それを指摘してくれる良い友を選ぶよう心掛ける。

 

択交友(交友を択ぶ) : 同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」の見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。

 

益友には、次の5つを目安とする。

厳格で意思が強く、正しい人であるか。

温和で人情に篤く、誠実な人であるか

勇気があり、果断な人であるか。

才知が冴えわたっているか。

細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。

 

 

1930年、閣下は軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議にご出席、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき、海軍内のまとめに奔走され、条約締結を実現など、ご一生のご功績には、佐内公に学ばれたことがうかがえます。

 

1936年、陸軍将校らによるクーデターの2.26事件発生。

この事件で亡くなられた金融の天才・高橋是清閣下は、かつて共立学校の英語教員を務められ、恩師でもありました<(--)>

 

事件で海軍の重鎮・斉藤大将を失い、鈴木大将は重傷、閣下も助かったものの家族を失い、この責任から首相は総辞職を決意、その後、陸軍は「軍部大臣現役武官制」を復活させ、現役軍人のみしか陸軍大臣になれないようにし、陸軍は軍主導の内閣には出来ないため、大臣就任を拒否し続け、内閣総辞職が続き、日本陸・海軍には大きな溝が生じたとも言われ、「激動の昭和史」が始まったのです・・・。

 

 

早くも1943年(昭和18年)の正月、ミッドウェー敗退、ガダルカナルの戦いの消耗戦、もはや勝ち目はないと見抜かれ、小磯内閣退陣後、鈴木貫太郎を首班に推挙、和平に全力を尽くされ、鈴木内閣を全面的に支えられ、当時の新聞にも、「鈴木内閣は岡田内閣」とも書かれたようです。

 

閣下は、ポツダム宣言受諾決定の御前会議の模様を聞き、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木(貫太郎)だから、陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった・・・」と落涙されたと伝わります。

昭和天皇は、「鈴木は良くやってくれた・・・」とお言葉を遺されています。

 

閣下は生涯、「清貧」で過ごされ、1952年にGHQの統治が終了すると、日本の主権回復を見届けられたかのように、84歳で激動の生涯を閉じられました<(--)>合掌

7月28日に、さいたまスーパーアリーナで予定される「Yogibo presents 超RIZIN.3」、試合前にタレント・手越祐也さんの国歌斉唱が予定されていましたが、突如中止になり炎上、再び注目を集めています

 

国歌「君が代」は、大変短く、世界中で最も古い国家の歌詞とも言われ、そのルーツは平安時代の「古今和歌集」に遡ります。そこには「君が代」の初句が「わが君は…」と記され、作者不明のため「読み人知らず」と伝えられています。 

 

ある人が、日本とヘブライの関係を知り、「君が代」はヘブライ語で書かれているのではないかと考え、歌詞をへブライ語辞書で調べると、

 

君が代は「クム・ガ・ヨワ」→立ち上がり神を讃えよ

千代に「チヨニ」→シオンの民、イスラエルの歴史的地名・形容詞

八千代に「ヤ・チヨニ」→神の選民

さざれ石の「ササレー・イシィノ」→喜べ残された民よ 救われよ

巌となりて「イワオト・ナリタ」神の印(預言)は成就した

苔のむすまで「コ(ル)カノ・ムーシュマッテ」全地に語れ

 

一見するとこじつけのようにも見えますが、約2千数百年前、イスラエルを追われた一部の古代イスラエル人(=ユダヤ人、ヘブライ人)日本渡来説があるのです。

 

ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグ氏の著書によると、他言語との類似点が少ないとされる日本語には、ヘブライ語と類似した単語が3000語を超え、例えば「サムライ(侍)→シャムライ(守る者)」「シャムショ(社務所)→シャムショ(ユダヤの社殿)」「ネギ(禰宜)→ナギ(神官)」・・・。

 

 

 

約2千数百年前、紀元前722年、北イスラエル王国(イスラエル10支族、部族)がアッシリアにより滅ぼされ、滅亡後の10支族については記録が少なく、いつの頃からか「失われた10支族」と呼ばれ謎多き存在とされてきました。

 

中杉弘先生著【日本建国の謎に迫る】によると、「少なくない数のユダヤ人が、シルクロードを経由し中国に流入、日本に渡来した徐福(神武天皇)のルーツにあたる・・・これは現在まで続くユダヤ人」とあります。

 

本年6月27日にも掲載しましたが、40%近くの日本人男性には、「YAP遺伝子」があり、これはアジアでは大変珍しく、全世界のユダヤ人の20~30%は日本人と同じく、YAP遺伝子配列を持つ、つまり遺伝子的にみて親戚関係にあります。

 

筑波大学名誉教授、村上和雄先生は、「YAP遺伝子は自分を捨てて他人に尽くす遺伝子」と教えられ、先の大戦で私達のご先祖様が、アジア植民地解放にご尽力、特攻隊となられたのも、この遺伝子によるものではないでしょうか<(--)>合掌

 

閣下は、現代の銀行家、経済学者などから今なお尊敬され、「日本のケインズ」、「金融の天才」として知られていますが、米国留学時代、悪徳商人に騙された上、英語が読めないことも利用され、奴隷契約書にサインさせられ、後にストライキを起こされましたが、この「奴隷時代」に英語力を培われたようです。

 

 

 

1904年、日露戦争が開戦すると、当時日銀副総裁の閣下は渡英、戦費調達に奔走、西洋諸国から日本は信用が全くなかったのにも関わらず、あの苦難の奴隷時代に培われた英語力を駆使され、9億円もの資金調達に成功、この功績により男爵に。

 

さらにこれだけでは終わらず、ペルー銀山の経営に挑戦されるも、出資した鉱山は廃坑寸前、詐欺であったことに気付かれ、諦めて帰国、家を売り出資金を清算されたため、一時期ホームレス状態に。

 

1927年、昭和恐慌が起きると、金融の手腕を買われ田中義一内閣に入閣、当時の日銀総裁井上準之助と協力、金融危機を42日間で鎮静化、1931年、犬養毅内閣に入閣、4回目の大蔵大臣にご就任。積極財政施策で世界恐慌から最速で日本経済を復活、閣下のご登場は、当時の日本人に「ダルマさんが出てきた。もう大丈夫」という安心感を与えたとも伝わりますが、インフレの兆候が見られたため、軍事予算の縮小を図り軍部の恨みを買い、2.26事件で斃れられました。合掌<(--)>

 

 

かつて麻生財務大臣は 「デフレ不況を好転させた経験者は、現在いない。ならば我々は、歴史に学ばなければならない。一番は高橋是清です」と語り、再び閣下に注目が集まりました。

 

閣下の遺された言葉、【順境は、いつまでも続くものではない。だが、逆境というのもまた心の持ちようひとつで、これを転じて、いくらでも順境にすることができる】、【機会は決して作るべからず、自然と自分の前に来たところの機会を捉えなければならぬ】

 

閣下の人生そのものではないでしょうか。

奴隷にされた苦難の時代に奮起、英語力を培われ、日露戦争での多額の軍資調達に成功されるなど、順境に変えられる「強さ」をお持ちであったからこそ、今なお国内外の銀行家や経済学者などから尊敬され続けているのでしょう(^^)

日本人に向けての、様々な激励メッセージが話題になっています。

 

「日本人、過労自殺が多いと聞いた。死なないで欲しい。仕事は辞めていい。世界はとても広い。アフリカに来い」

「日本人、今日も労働お疲れ様。あなたはとても頑張った。家でゆっくり休んで下さい」

「日本人学生へ伝えたい―日本の受験はとても厳しい。あなたはすでに勇敢です。あなたはアフリカに来るな。必ず勝者になってください」

 

 

 

コンボさんの紹介記事を執筆された、小川尭洋さんは、

「日本人は失敗が悪いことで、成功が全てだと信じていませんか?」

多くの日本人の悩みに耳を傾けてきたコンボさんから投げかけられた言葉に、筆者は考えさせられました。

 

デュラ村では毎日のように停電が起き、安定したインターネットがないそうで、今回のオンラインインタビューは都市部で対応してくれました。インタビュー後、コンボさんや仲間たちはマラリアに感染して命の危機に瀕し、経営する養鶏場には強盗が入りました(汗)

ご無事を祈っています<(--)>

 

常にさまざまなリスクが隣り合わせにあるデュラ村の人々にとって、トライ&エラーは当たり前のことです。

私たちは恵まれているがゆえに、転んで痛い思いをすることを極端に避けようとしているのかもしれません。

 

コンボさんは「失敗は悪」との思い込みが自殺につながっていると指摘した上で、「失敗は全ての終わりではない、他にも色々な選択肢があると気づいてほしい」

 

コンボさんの言葉、「自殺するな日本人!世界は広い!アフリカに来い!」、

コンボさんの言葉とこの記事、「世界は広い」、大変印象深く心に残り、皆様にも是非、お知らせしたく、投稿致しました。

 

悩んだり、自殺まで考えるのは「視野狭窄」に陥っている状態ではないでしょうか。

 

コンボさんのおっしゃる通り、「世界は広い」のであり、一旦、悩みから「離れ」、日本から「離れ」、アフリカの大自然に降り立つと、何だか小さなことに思えたり、「心の変化」が起きてくるのではないでしょうか。

 

あるインドネシアの方が、日本に来て仕事も何もうまくいかず、自殺を考えた時、あの志村けんさんのコントを見て、1時間も爆笑していると、悩みが小さく思え、「もう一度頑張ってみよう!」、「頑張ってまた志村さんを見よう!」という「心の変化」が起き、その後、日本人女性と知り合い結婚、子どもにも恵まれ、「あの時、自殺しなくて良かった、あの時、頑張ろうと思わなかったら、今も自分も家族もない」、と志村さんが旅立った時、志村さんに感謝の言葉を寄せられていたことを思い出します・・・。

 

先人と靖国のご英霊が守られた日本が良くなるよう、少しでも皆様のお役に立てれば、大変幸甚に存じます<(--)>合掌

Xで話題にもなっていますが、法政大教授の発言「奴隷制度は日本起源」、あのラムザイヤー教授が告発。

 

世界で初めて人種差別撤廃を世界(国際連盟)に呼び掛けたのは日本、本来は過半数で可決ですが、当時の米国大統領が全会一致を求めたため潰されました。

 

 

日本では、奴婢の制度は律令制の崩壊とともに瓦解、平安時代の半ばには法令で禁止されましたが、戦国時代には人や物資の略奪を意味する「乱取り」が行われ、現実的には奴隷相当の境遇となった人々は存在しましたが、日本が奴隷制の起源ではありません。

 

豊臣秀吉公の右筆・大村由己(ゆうこ)の『九州動座記』に、

 

「日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する」

 

秀吉公は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買、家畜のように扱われていることに激怒、1587年に「バテレン追放令」により、キリシタン宣教師は追放、日本には、諸外国のような奴隷制、人身売買は存在しません。

 

 

あのビリー・ホリディの「ストレンジ・フルーツ」(奇妙な果実)

(略歴:「レディ・デイ」と呼ばれる、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の一人。人種差別や薬物、アルコール依存症との闘いなどの壮絶な生涯。ジャニス・ジョプリンをはじめ、多くのミュージシャンに影響を与えたジャズ・ボーカルの古典、ロックの殿堂入りを果たす)

 

「ストレンジ・フルーツ」(奇妙な果実)

南部の木は、奇妙な実を付ける

葉は血を流れ、根には血が滴る

黒い体は南部の風に揺れる

奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

 

勇敢な南部(the gallant south)ののどかな風景、

膨らんだ眼と歪んだ口、

マグノリア(モクレン)の香りは甘くて新鮮

すると、突然に肉の焼ける臭い

 

カラスに啄ばまれる果実がここにある

雨に曝され、風に煽られ

日差しに腐り、木々に落ちる

奇妙で惨めな作物がここにある・・・

 

当時のアメリカ人はこの歌により、差別的な考え方を少しずつ変え、多くの人々の運動の成果もあり、それが後の「公民権法」の成立、1948年に採択された世界人権宣言では、奴隷制度並びに奴隷売買を明確に禁止されました。

 

いまだに左派や統一協会などが「日本は無謀な侵略戦争を行った」、「日本は韓国を強制的に植民地にした」(※日韓併合と西欧列強の植民地強奪は別物)等々、証拠もある歴史的事実と正反対のことを言い洗脳、あるいは買収してウソを言わせていますが、まず「それは本当か」疑問を持ち、調べてみましょう。

1941年オランダ領東インド諸島 (インドネシア) 攻略軍 (第 16軍) 司令官ご就任、終戦までインドネシアにおける陸軍最高指揮官、陸軍士官学校を首席で卒業されるも、ご親友、本間雅晴中将と共に、温厚篤実な名将として知られます。

 

大将の任地、ラバウルは敵の上陸こそなかったものの、爆撃は何度もあり、大将は士気の低下を防ぐためにも、その経験から1トンの爆弾を落とされても耐え得る、洞窟の防空壕を掘り、地下軍需工場も整備、最後まで戦闘訓練を怠らず、また芋畑を開き、大将ご自身も、暇があれば畑仕事をされ食料増産に努め、「鉄壁の要塞」と知った米軍はラバウルを素通りして先に進むことにしたほどであり、文字通り鉄壁の要塞として終戦まで持ちこたえました。

 

驚くことに、病院施設もすべて地下、15カ所の病院5500名が収容可能、すべて手作業で行なった洞窟陣地建設、その総延長距離は450キロにも及び、ラバウルの将兵は皆、自信を持ったほどでしたが大将は、「食糧があり、地下壕が完備されても、武器がなければ戦闘は出来ない」ので、火薬類も製造を始め、終戦までに4トンも製造、太平洋の孤島としては出来得る限りの準備を整えて「その時」を待ちましたが、終戦を迎えました。

 

その上、驚くことに、戦争末期に戦後を見据えた指導を行い、終戦2ヶ月前の昭和20年6月には、大将は若い尉官(いかん・中尉、少尉)を集め、戦闘とは関係のない技術教育(講座を開始、終戦後にオーストラリア軍の管理下に置かれた後も、将兵に旧制中学校卒業程度の学力をつけさせるため、一般教養科目の教科書を作られ臨時教育、早くから「現地自活」を率先、将兵を飢えさせない、士気を低下させない両面の指導、大将は【部下のために、現実を適切に判断】されていたことに驚くばかりです。

 

戦時中から「兵隊たちを大切にして欲しい」と士官たちにキリスト教や仏教の教えを交えながら、「尊い命であるだけに無駄にしてはならない」と教え、終戦時の混乱でも大将の部下は秩序を維持し、戦後も彼を慕う部下たちが後を絶えませんでした。

 

大将は、オーストラリア軍の有罪判決により、巣鴨拘置所服役を申し渡されましたが、部下とともにマヌス島で服役することを申し出、マッカーサー元帥は「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て初めて真の武士道に触れた思いだった」と驚嘆されたほどです。

 

 

 

1950年3月~1953年8月までマヌス島豪軍刑務所に服役、刑務所廃止に伴い、他の日本人受刑者とともに巣鴨に移され、1954年1月に刑期満了。獄中から執筆を開始され、出獄4年後に『今村均回顧録』を完成。

 

出所後は、東京の自宅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版。その印税は全て戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に寄付、元部下に対して出来る限りの援助をされましたが、元部下であるとウソをつき近づく者もおりましたが、ウソと知りながら援助されたとも伝わります。

 

1955年(昭和30年)9月24日、防衛庁顧問にご就任。翌1956年(昭和31年)、全日本銃剣道連盟初代会長にご就任、1968年(昭和43年)、82歳で旅立たれました。

 

かつてラバウルで大将の部下であった太田庄次氏は翌日、ご遺体と対面され「昨日の大将もきょうの大将も、神さま、仏さまであることに変わりなく、ただ生理的に心臓の鼓動が停止したことが違っているにすぎないのだ。つまり、生き神様の呼吸が止まり、お声が聞けなくなったというだけのことである。大将はいまも生きておられるという感じであった。私はもう一度合掌した・・・・」合掌<(--)>

 

靖国神社で、ご親友の本間中将と何を語られているのでしょうか。

 

かつて2019年、区議選に出馬することとなり、靖国神社に参拝、もう10年以上前にお目にかかった海軍兵学校教官であられた先生、陸軍士官学校を首席で卒業された、ある先生、この両先生に初めてお目にかかって感じた「雰囲気」が、境内を進むうちに思い出され、戦後、散華された戦友の分も日本に尽くされた方は皆、「靖国神社にいらっしゃる」ことを実感する、不思議な体験をしました。

 

心の中で、「先生、このたび立候補することになりました。浅学菲才の身ではありますが、白羽の矢が立ちました。精一杯頑張ろうと思います」等々、申し上げ、「初心忘るべからず」、靖国のご英霊、正しき日本の歴史、偉人を次世代に語り継いでいきたく存じます。

中将は180センチもある大柄ながら、大変温厚篤実、陸軍一英語が堪能、英米通として知られ、また『朝日に匂ふ桜花』、『台湾軍の歌』、多くの軍歌の作詞もされるほどでした。

 

かつて、ジャワやラバウルでの戦闘で10万もの将兵を救った「徳」の人、名将として知られ、マッカーサー元帥からも尊敬された、今村均陸軍大将とは同期、親友であられたと伝わります。

 

 

 

 大東亜戦争において、第14軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮、当初の戦況は順調、マニラ占領、マニラ進駐にあたり、将校に「焼くな。犯すな。奪うな」を徹底し、違反者は厳罰に処すると訓示。

 

一方、マッカーサー元帥は「破竹の勢い」で進軍する日本軍の捕虜になりかねない状況となり、マ元帥は「敵前逃亡」。この「私怨」により、本間中将は処刑されることとなったのです・・・。

 

軍事裁判での、富士子夫人の証言「私は本間の妻たることを誇りにし、感謝しています。娘も本間のような男に嫁がせたい、息子には日本の忠臣である父のような人になれと教えます。私が証言することは、ただそれだけです」、その毅然としたお姿に中将だけでなく、裁判官や検事までも落涙。

 

中将は英国通、人道主義者であることは連合国側にも知られていましたが、バターン死の行進における部下の行為の責任を問われ、銃殺刑となりましたが、真相はマ元帥の、敵前逃亡した後ろめたさ、自分の軍歴に傷つけられたという一方的な「私怨」でした。

 

中将は目隠しを断り銃殺隊をカッと睨み、ご最期のお言葉は「さあ来い!」であったと伝わります。

 

中将はまた、昭和天皇弟宮、秩父宮御附武官であり、同妃勢津子妃殿下(松平容保公ご子孫)もゆえなき最期に大変心を痛められ、「誠実な、良い方でした」とご著書「銀のボンボニエール」に中将を書かれています。

 

当時の連合国側の一方的な「私怨」により、ゆえなくして処刑された本間中将、前田利貴(としたか)大尉、東京裁判で戦犯とされた方々、いまだに左派が「無謀な侵略戦争の犠牲者、無駄死、犬死」と言い立てますが、日本は自衛のため、アジア植民諸国独立の為に大東亜戦争を戦ったのであり、力の支配する当時、「日本の人財」がことごとく刑場の露と消えられ、彼らの理不尽さに怒り心頭に発しますが、日本のため、世界平和のために殉じられた偉人、その上に私達は平和な日本に生きられる、平和や豊かさは、自然に与えられるものではないことを、子々孫々にずっと語りついでいかなければならない、それこそ教育であり、政治であると思います。

 

【人は自分個人の人生を生きると同時に、歴史を生きる存在である】

(正理会 中杉弘名誉会長)

 

靖国のご英霊は、日本を守る護国の「神」になられ、日本の歴史に永遠に生き続けられています。合掌<(--)>

かつて日本には、余りにも美しき大和魂を持つ偉人が沢山おられました。

そして余りにも早く、旅立たれました。

 

前田利貴陸軍大尉もそのお一人、加賀・前田藩分家ご出身、馬術のオリンピック候補、文武両道、まさに前途洋々たるお方でした。

 

小林よしのり先生もベストセラー『戦争論』で大尉の気高きお姿を描かれ、ご存じの方も多いと存じます。

 

小林先生に「慰安婦、南京事件などなかった」資料を提出され、『戦争論』の生みの親として知られ、石原慎太郎先生もご著書に推薦文を寄せられた、水間政憲先生(ご著書『ひと目でわかる日韓併合の真実』、『完結「南京事件」--日米中歴史戦に終止符を打つ』多数)、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」顧問、阿羅健一先生(ご著書『決定版南京事件はなかった』多数)、この両先生のご功績により、日本の自虐史観は一掃されました。

 

大尉はインドネシアの皆様から慕われ、裁判でも皆様は大尉に有利な証言をしたにもかかわらず、死刑判決、オランダ側は植民地を奪われた恨みに加え、文武両道で、すべてに恵まれていると見えた大尉に対し、最初から敵視していたからとも言われます。

 

兄の帰りを待つ弟さん、妹さん宛てのご遺書には、

「兄が死の判決を割合に平然と受けることが出来たのは、之全く御両親の御教養の賜に外ならず、之を見ても我々の御両親は我々が知らぬ間に人間最大の修養をちやんとして居て下さつたのだ。(中略)今となつては其の高恩を何一つ御報いすることが出来ないのは慙愧に耐へない。故に皆は是非兄に代わつて御両親を大切に孝養を尽くしてください」、「如何に兄を極悪人なりと軍法会議で決定しても一般の声は善人なりと言ふ。之れ丈でも充分ではないか」(TT)

 

植民地を奪われたオランダ側の「私怨」は、大尉死刑のみならず、インドネシアの日本人捕虜の方々に対しても、皆が半死半生となるほど大変な虐待、犬や猫の物真似をさせ、夜中に突然起こされ、コンクリートの上に二時間も座らせられ、罵詈雑言を浴びせ、日本人同士の殴り合いをさせ、床にまいた米粒を這いつくばって食べさせる等々、かつて日露戦争で、捕虜となったロシア兵を手厚く遇したのとは大違いです。

 

大尉は死刑執行に際し、

1.目かくしをせぬ事

2.手を縛らぬ事

3.国歌奉唱、陛下の万歳三唱

4.古武士の髪に香をたき込んだのに習い香水一ビン(之は死体を処理するものに対する私個人の心づかいであります)

5.遺書遺髪の送付以上全部承認。

 

当時私の決心は、自動車から下りたら、裁判長並びに立会者に微笑と共に挙手の礼をし、最後に遺留品として眼鏡を渡し、それから日本の方を向いて脱帽最敬礼、国歌奉唱、両陛下万歳三唱、合掌して海行かばの上の句を奉唱し、此の世をば銃声と共に、はい左様なら、と言ふ順に行くつもりで、私の様な凡人に死の直前に歌が唄へるかどうか、之が最後の難問題だと思います。皆様に対し遺留品として糸、針、古新聞、本、燐寸、其の他手拭、歯ぶらし、衣類なんでも申出に応じます。前田』

 

処刑前夜、大尉は共に処刑される穴井秀雄兵長に対し、

「穴井君。左のポケットの上に白布で丸く縫いつけましたか」

「はい。明るいうちにつけておきました」

「白い丸が心臓のところにあたる。明日は早いから目標をつけて置かぬと弾が当たりそこなったら長く苦しむだけだからね。発つ時は、毛布を忘れないように持って行きましょう。死んだら毛布に包んでもらうのです。砂や石が直接顔に当たって、ちょっと考えるといやな気がするからね」・・・

 

翌朝早く、二人は願われたとおりの手順と態度で処刑、大きな声で歌も歌い、何かお言葉を交わされ、静かに笑い声を上げられた直後、昭和23年9月9日午前5時45分。

わずか31歳、ゆえなくして刑場の露と消え、余りに早い旅立ちでした・・・

真実を知る現地の方は、今なお「日本は悪くない」と語り継いで下さっているそうです。

 

大尉の辞世の句

「国のため棄つる命は惜しまねど 心に祈るはらからの幸」

「身はたとえ南の島に果つるとも 留め置かまし大和魂」

 

 

オランダ側も、このお二人のご最期には、大変な恐れと後ろめたさで一杯になったのでしょう。あれほどひどかった虐待も、その時以来なくなったのだそうです。

 

「我々はどうせ死ぬのだ。この虐待は我々一身に引き受け(中略)、同胞の人に少しでも虐待の及ばぬように!と申し合わせ神に祈っている」お二人の祈りは神に通じ、お二人とも靖国の神になられました。

 

靖国神社のみたままつりは明日16日まで、まだの方は是非、ご参拝下さい<(--)>

そして遊就館も。

ご英霊のお写真、今もなお生きていらっしゃるとしか思えないお顔に驚きます。

自決されたあの阿南惟幾大将のお写真にもそのように感じましたが、「神」となられたからでしょう。合掌<(--)>

沖縄県の本土復帰は1972年5月15日、復帰50周年の2022年、映画「生きろ 島田叡 ー戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)が公開、広く知事の存在が知られました。

 

 

当時、米軍の沖縄上陸が予想されており、人選は難航、知事は周囲から当然ながら止められましたが、「誰かが、どうしても行かなければならないならば、俺が断るわけにはいかん。誰か代わりに行って死んでくれとは言えん」と、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせ、当時の知事とは天皇陛下の勅任官、その責任の重さもお感じになり、死を覚悟してご着任、まさに日本人の鏡です。

 

今もなお、左派、悪の勢力が「沖縄は捨て石にされた!」などと言いますが、嘘です。

このような知事が着任され、戦艦大和、神風特攻隊が出撃、沖縄を守ろうとされ、占領下での沖縄はアメリカのドルが流通しており、それを本土復帰後に日本円にされ、沖縄の方々の財産を守るため、戦後も金融、政界の方々が大変苦労され、Xなどでも告発されていますが、「アイヌ独立」、「沖縄独立」の国賊活動をしている者は同じ、と証拠写真も出ております。

 

「島田叡氏事跡顕彰期成会」会長、元沖縄県副知事の嘉数昇明氏は、「知事は赴任後、県民疎開、台湾米入手を指揮、疎開の大切さを訴えるため人々と泡盛を酌み交わされ、知事として沖縄のためにやるべきことを尽くされ、方言とともに禁止された「村芝居」を復活、統制下のたばこや塩が県民に届くよう手配、県民の心に接しようとされたんだと思います・・・」と語られました。

 

沖縄に守備軍の駐屯以来、沖縄の方々は陣地構築などに大変なご尽力、それに報いようと必死であられたお姿が目に浮かびます<(--)>

島田知事でなければ、もっと多くの犠牲者が出ていたことでしょう。

 

沖縄戦で自決された、大田實海軍少将とは密に連絡を取り合い、やがてお二人は「肝胆相照らす」仲となり、少将の最後の電文、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」・・・既に沖縄に通信能力はなく、少将が知事に代わり県民の姿を伝えられました。<(--)>

 

 

昭和20年4月、米軍の沖縄上陸後、戦局は悪化。沖縄戦最大の悲劇、ひめゆり学徒隊に解散命令が出されたのは6月18日、犠牲者は約20万、県民の4人に1人が亡くなったともいわれ、日本軍の組織的戦闘が終結したのは6月23日、知事殉職の報に際し、安倍源基内務大臣は行政史上初の内務大臣賞詞を贈り、「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称えた。内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは、前例がなかったと言われます。

 

 

わずか43歳で旅立たれた、知事のご遺体は発見されませんでしたが、早くも昭和26年、県民からの寄付により、知事と殉職された県職員453名の慰霊碑と、「島守の塔」が建立、2015年には、那覇市の県営奥武山運動公園に島田叡氏顕彰碑が、島田叡氏事跡顕彰期成会により除幕、また公園内のグラウンドは知事のご出身地を冠し『兵庫・沖縄友愛グラウンド』と命名、県民から最も愛され、今なお語り継がれる知事、知事も大変喜ばれていることでしょう。合掌