学科試験が終わった。

●得点

自己採点結果、ピッタリ60/125点。
速報によると総合点の予想合格基準点は91点になりそうだ。
遠い…。なんて遠さだ。

[法規]は14/30点、[構造]は9/30点で足切り点に及ばず。
希望をもつ余地すらない。

●試験準備の振り返り

 

晩秋に思い立ち、私には通学が向いていると考え資格学校を探し、
S社、N社に見学を申し入れ、TACの体験授業を受けて、
講義前の宿題無しの講義形式というので初学者向けと思いTACに決めた。

私が落ちたのはTACのせいではない。
圧倒的に覚悟と勉強時間が不足していたのだ。

11月からプレ講座に通い、その時は追いついていけたが、
1月に本講義が始まると、間もなく仕事が増え、追いつかなくなった。

宿題は出しても正誤の見直しをする暇をとれないままでいたし、
法規の講義が始まると時間のかかる宿題は出せなくなり、
正月中に終えられなかった法令集の線引きも最後まで後回しで、
「できない」スパイラルに陥っていった。

●勉強時間

11月から1月まで

…休日は4日の内2日、1日7時間、平日3日は1日1時間、週17時間
 休みには子供を連れて遊びに出かけたり、家事や用事をしたり
 平日にはジムや買い物や映画など、まだ余裕だと思っていた
※この時に講義を待たず先取りで学習できた 

1月から4月まで
…スクールのみ、週7時間

 転職のためWワークで週5勤務になり、通勤にも往復2時間半
 週末は1日はスクール、1日は家族や家のために使うことになり
 宿題や復習も殆ど手つかずのまま
※在宅ワークの日や週末も2、3時間は捻出できた

5月から6月まで
…スクールのみ、週7時間
 1つ退職し、仕事は1つになった上、週4勤務にしていただく
 しかし通勤時間が増えたので時間的余裕は4月までと殆ど変わらず

※休みの日に用事があっても半日は集中して勉強できた

7月

…休日は1日は7時間、ほか2日は4時間ずつで週15時間
 最後の8日間は休暇をもらい連日で計56時間
 模試を受け、講師に「諦めるな」と励まされて奮起

※この間、家事は夫に甘え、子供は遊びに連れて行かず、ジムも行かず
 もちろん自分の買い物や用事は後回しで、美容院も根元カラーのみ

7月のペースでずっと続けるのは家族にも負荷が大きく無理だったと思うけど
それでも勉強時間はもっと増やせたし、電車の中や昼食の時間を活用できた。

●モチベーションの浮き沈み

1月からのWワークで勉強時間が減ることは覚悟の上だったけれど
それを言い訳にして、自分を甘やかしていたところがあったし、
「今はペースどおり」「後で追いつける」という見込みの甘さもあり、
「できない」の繰り返しにモチベーションが落ち込んでいった。

それでも最後になぜ集中して勉強できたかというと
講師の「1日1問ずつ得点アップできたら1カ月で30点アップ」
という魔法の言葉の効果が大きい。

「「できない」と思うより「昨日よりできるようになった」と思え」
「「できるようになった」ことを日々喜ぶように」という言葉も。
ポジティブの力は偉大。

何もかも後回しにして集中できるだけの土壇場のタイミングというのも。

●最後の伸び率

模試から本番までの間にやったのはTACの直前テストと直前ゼミの復習。

先月の模試と比較すると
[計画]は変わらず
[環境・設備][法規][施工]は2点ずつ上げ
[構造]は5点下げた。

上がった3教科は苦手意識があったので集中して取り組んだものの
[構造]は以外に点が取れていたので、油断してしまった。
模試の結果を鵜呑みにしてはいけない。

「法規:構造:苦手科目:他科目の時間配分は3:3:2:1:1」
という模試後のアドバイスを思い出す。

やっぱりスパートが遅かったし、元々範囲が膨大なので、
TACの直前ゼミの範囲だけの復習では、とても追いつかなかった。

TACの問題集は10年分。
「最低でも3~5周(理解不不足の設問に絞りながら)はやるように」
と言われていたのに、問題集は年明けまでしか手が回らなかった。

計画力と実行力不足。

●これからどうするか

ここにもあるとおり

 

 

 

学科は1年半がかりで受かることを前提としたコースもあるくらいだから
今年の経験と幾ばくかの知識と資料と問題集を布石に来年の合格を狙う。
スクールにはもう通わなくていいだろう。
流行りのアプリを使った学習は検討するかもしれない。

問題は製図。学科終了後2カ月は短い。
折角ここから丸1年あるのだから今年製図を受けるつもりで2か月やってみようか。

先の計画は追々考えることにする。

インターナショナル・スクールの模索。

転勤妻」という掲示板にインター関係の口コミ情報が詳しく載っていたけど、残念ながら数日で(2016年4月末に)閉鎖されてしまった。拾い読んだ記憶を頼りに、試験の度合いや学校の特徴を思い浮かべる。

 

学費面での検討も不可欠。会社の補助額は日本人学校相当額年50万程度が上限。すると話題に上がっていた4校の中でもAmericanやEuropeanは手が出ない。ESLやELLと呼ばれる英語の補講クラスを含めると年200万。現実的なのはAdventist かDomincan。

しかしDominicanは辺鄙なところにある。台湾の知人に聞けば日本のお台場のようなポジションで、ここに住むなら車が必要だろうとのこと。天母からは電車でも車でも距離がある。そこで送迎バスを調べると、あった。天母にも送迎バスコース。

 

ところで、インターの放課後にも、台湾の放課後には常識の補習班や安親班や課後班みたいなものはあるのだろうか。一番関心のあった私立の日本語児童館(習い事もある外部の学童保育のようなもの)ヒロカに尋ねたところ、学校終了後の迎えのバスは日本人学校と天母の現地校前までで、Dominicanまでは遠くて出していないとのこと。

 

台湾の小学校は午前中までだというし、昼も夜も英語では娘の負担も大きそう。私は語学の学習やその後の仕事も検討していたので、一瞬どうしたらいいのか頭真っ白。

いや、待てよ、インターまで迎えのバスを出している班も市街地の方にはあるかもしれない。その場合は班の傍に住むことになり天母には住めない。もしかしたら、ESLもあるからただでも帰りは遅いかもしれない。しかし、ESLやクラブ活動の後も送迎バスで送ってもらえるのだろうか。もしバスがないならやはり学校沿線に住むべきで天母には住めない。

という訳でDominicanに問い合わせ。天母以外に住むことも覚悟しつつ。

同時に、市街地で日本語によるアフタースクールを検索。まずは台北101近くの白百合幼稚園が該当。しかしここは狭いという噂。HPには日本人学校や現地校まで迎えのバスがあるとあり、ここは大分遠くまで出しているなと思ったものの、Dominicanまで迎えがあるかは不明。要問合せ。探せば他にもあるかもしれない。

さて、日本語アフタースクールと並行して、もう一つの検討。インターナショナル・スクールにも他の候補があるんじゃないか?あった。外務省のページにも紹介なかった学校が沢山。

List of international schools in Taiwan, Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_international_schools_in_Taiwan#Taipei

「地球の歩き方」の巻末では、15ページに渡って、歴史や民族、文化、政治、更には参考文献も紹介してある。色々読んでたけど、あぁ、最初にコレ読むと、一番端的で分かり易いかも。

 

李登輝元総統は、本省人(蒋介石による接収前から台湾に住んでた人)初の総統で、日米の教育を受けた台湾民主化の父だから、戒厳令解除・日本語解禁・言論自由化・自由選挙にする中で、それまで排除されていた日本の文化・記憶の特に良い面にフォーカスして呼び覚ました。

 

けれど、ガイド内の日本人による解説はまた味が違う。

 

統治時代は、実はそりゃ反発も多くあった訳で、はじめに抗日闘争の鎮圧に明け暮れた武力統治の数年があり、落ち着いた頃に起きた原住民による凄惨な事件もあり。

 

植民地としては前代未聞の規模でインフラ整備や教育に力を入れ、台湾を大きく近代化させた反面、日本人と台湾人の間で教育や給与の待遇は大きく違ったし、経済的にもちろん本土に搾取されている面もあった。

 

それでも今、台湾が親日家なのは、なぜか。

 

戦後、中国大陸からの外省人(蒋介石とその同伴者達、現在その子孫は全国民の13%、今なお支配階層)による、2・28事件での本省人(特にエリート層・知識階級)の虐殺への恨みと、日本統治時代を経た本省人と外省人とは既に別の文化人であると感じる意識が強いためでもある。

 

あんなに嫌だと思ってた外国人による統治だったけど、同じ民族と思って受け入れた奴らはもっと蛮族で、自分たちの尊敬する人達を次々に殺して行った。しかも蛮行・汚職・差別も酷かった。あぁ、日本の方がマシだった。

 

私達は大陸の奴らとはやっぱり違う。一緒にされてたまるか。となる。

 

では、17世紀に福建省から移住した(それも原住民がいて内乱ばかりでマラリア流行の未開の地へ)本省人と、大戦後にやってきた同じ民族の外省人は何が違うのか。そうか、その違いは日本統治時代だ。ということは、台湾の、国として、人としてのアイデンティティには、その要素は欠かせないはずだ。となる。

 

17世紀以降、日本の前にも、オランダ、スペイン、その後清国に統治されていた。しかし、いずれも疫病と内乱には手を焼いていた。そんな中、アメ(開発と教育と知識層の懐柔)とムチ(軍と警察による統制と時に武力)によって、国を文化的に進展させ、一国にまとめあげたのは、日本だった。すると、大陸との分岐点は、やはり日本統治時代に求めることになる。

 

同じ民族でも。複雑な心理。

 

それから、原住民は今も少数部族がたくさんいるのだけど、その合計人口なんと45万。80年代以降ようやく原住民の文化を振り返り、後世にも伝えようという動きも起こっているらしい。

 

と、ここまで、「地球の歩き方」流、日本に対して割と淡白に捉えながら台湾の歩みを振り返る一方、それでも改めて思い起こされるのが、後藤新平や八田与一に限らず、台湾人から慕われる沢山の尊い日本人達。彼らのような人達がいたからこそ、そして今なお台湾の人が大事に語り継いでくれるからこそ現在進行形の親日があるんだな、と感慨深く思ったり。

 

【世界を感動させた日本】台湾で神になった日本人 漁民に寄り添い自決した巡査 - ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140225/dms1402250719000-n1.htm