<2>修正部、百島移住の赤松一族 7名
瀬戸内海に浮かぶ尾道市の百島(ももしま)を訪れました。
対岸の福山市常石港からフェリー(12分)、高速船(9分)で渡れます。
写真①、常石港を出発したフェリーから百島の全景を東側から見た
ところで左のピークが島の最高峰の十文字山184mです。
写真②、フェリーが百島の福田港に到着する処です。
写真③、乗ってきたフェリーが尾道港に向けて出港します。
総重量174トン、最速12ノット、150名乗り「百風」
写真④、島内に残る東映の映画館跡で、往時の住民は2,000人だった。
写真⑤、最高峰の十文字山184mへの登山道、よく整備されていたが
往復約90分ほどで、かなり急な坂道で途中標高120mぐらいの所に
雨上がりの日の当たるところで「蛇さん」が日向ぼっこをしていました。
山頂は、木々に覆われて展望がききませんでした。
写真⑥、島の泊地区の南端にある「だんご岩」と称する場所で地元の
方の話では、昔は「だんご」のような大きな岩だったが波浪により侵食
されてほとんどなくなった現在の姿です。
写真⑦、その「だんご岩」から南の対岸の横島を見る。
横島は田島大橋経由で本土に繋がっている。
下図は百島の位置図です。
対岸の福山市常石の南約2kmにあり、交通手段はフェリーと高速船
のみです。 面積約3km2、海岸線長さ約12km、最高峰・十文字山は
184m、 人口500名です。
集落は北のフェリー発着港の福田地区と南の泊地区になっている。
写真位置 ①~⑮
写真⑧、百島の西側海岸で海岸より上はかなり急な斜面になっている。道路は海岸より海抜20~50mのところを通っている。
写真⑨~⑬は、今回百島訪問のお目当ての百島八幡神社です。
写真⑨ 鳥居
写真⑩ 拝殿正面
写真⑪ 拝殿と本殿
この百島には、嘉吉元年(1441)の応仁の乱の前哨とも云われる
「嘉吉の乱」を起こした、4職の一人播磨守護の赤松満祐の一族7名<2>
が幕府の追討を逃れてこの島に定住したと伝わっている。
その一族が追手に備えて弓の訓練をしたのが始りで、現在・百島
八幡神社において正月「お弓神事」として行われいてる。
15人の射手が距離15m、的径60cmに向かって各30本の矢を放つ
盛大な神事です。
写真⑫ 「お弓神事」の広場、令和2年3年はコロナ感染で中止
写真⑬、西側の鳥居
写真⑭、尾道港を出港した帰りの高速船が百島に入港
写真⑮、帰路の高速船より、常石の造船中の船舶
今回は、帰りの高速船の時間まで約3時間半ありましたので十文字山
に登りました。 百島には15年ほど前に訪れましたが当時「お弓神事」の
事を知らず、次は正月の「お弓神事」の時に再訪したいと思っています。
<ご参考>
①、嘉吉の乱、嘉吉元年(1441)6月24日室町幕府の4職の一人播磨守護
赤松満祐、教康父子が第5代将軍足利義教を自宅に招待して殺害
した事件
②現在も赤松一族の子孫の方が多く住んでおられるようです。
実家が赤松さんというご婦人と少しお話を聞きました。
③百島の名の由来
(1)島には「桃の木」が多かった事
(2)島は、昔は潮が満ちると「五十島」と「磯島」の二つの島になって
いたが、その後土砂がたまり一つの島になった。
50+50 = 100 → 百 →百島
④戦国時代は、因島水軍の村上氏の一族が百島の茶臼山城を築城
して居城とした。
<参考資料>
百島八幡神社聞書き、森本繫著備後の歴史散歩(上)