安芸の山城④竹原木村城跡/小早川隆景ゆかりの城 | 史跡散策

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古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 沼田小早川茂平(本家4代)の4男・小早川政景(竹原初代)が正嘉2年 

(1258)安芸国賀茂郡都宇竹田庄地頭職を分与されて築城し竹原14代 

小早川隆景が本家の沼田小早川氏を統合して沼田高山城へ移る天文 

20年(1551)まで約300年間竹原小早川氏の居城だった

木村城跡を訪れました。 

 写真①は、城下の西を流れる賀茂川の上流からの木村城跡 

 

 写真②は、西側より木村城跡を見る、山頂部が主郭・標高150m 

 

    下図Aは竹原木村城跡の付近図です。

現在の竹原の中心部の北約5km、中世以前の都宇・竹田庄の中心部 

と思われる新庄町(旧山陽道の都宇駅があった)の南約1.5km地点で

惣領家(本家)の沼田小早川氏の居城・高山城の南西約10kmです。 

 

 写真③は、登山口のある東側より木村城跡を見た処で、正面の高い 

所が主郭(本丸)でここからの比高差は約100mです。 

 

 下図Bは、木村城の概略縄張りで、東側の山麓は今は笹薮ですが 

当時は棚田だったようです。 

 

 写真④これより登城路を登りますが、山頂まで谷側は急斜面が続き、 

主郭廻りは図Bの如く堀切や竪堀でガードされている。 

 

 写真⑤は「馬返しの段」の登山道の標識ですが、登山道は良く整備

されていて山頂まで各所に設置してあった。 

 写真⑥、馬返しの段の上にある若宮社跡、この前には「兵糧の段」と 

呼ばれる広場があつた。 

 

 写真⑦、「井戸の段」 と呼ばれる曲輪跡の井戸跡、他に2ケ所あり、 

 

 写真⑧、「井戸の段」から主郭への上り道 

 

 写真⑨、正面上が主郭(本丸)で約20×12mのやや楕円ぎみの長方形 

 

 写真⑩、主郭から西側下方を見た処で賀茂川が見えます。 

 

 写真⑪、下山し賀茂川を渡った西側の山麓に竹原小早川氏の墓地

で、宝篋印塔10基、五輪塔20基があります。 

 

 写真⑫、墓地の上に、小早川隆景の養父・第13代当主の小早川興景 

夫妻の宝篋印塔があります。 

 

 

 写真⑬、墓地の南約300mの家臣の屋敷跡と云われる場所から 

木村城跡を見る。 

 

 写真⑭、家臣の手島氏の屋敷跡と伝わる立派な石垣(長52m高さ3m)  

 

 今回は、ゆっくりと見てまわりましたので約2Hrの散策でした。

これで、安芸・備後地方の城、新高山城跡、三原城、 高山城そして今回の木村城跡と小早川隆景の所縁の4つの城の散策は終了です。 

 

,<ご参考>

①竹原小早川氏は初代政景(1258)から第13代興景(1544)まで代々血統 

  を続けてきたが嗣子が途絶え興景夫人が毛利元就の姪であったこと 

  が縁で元就の3男・徳寿丸が養子に入り小早川隆景となる。(1543年) 

②小早川隆景は、当時の中国地方の覇者・「大内義隆」の「隆」と竹原小 

  早川氏の通字の「景」から「隆景」を名乗った。

  なお、本家沼田小早川氏は初代小早川実平より代々「平」を通字とす

 

③本家の沼田小早川氏は、勢力拡大に分家を周辺に配したが、竹原小

  早川氏は、庶子を被官して独自性を持ちながら室町初期から戦国中

  期には本家と対立 していた。

④小早川隆景の初陣は天文16年(1547)に大内義隆の先鋒として備後 

  守護職山名氏の支城・坪生要害を攻めて勝利しているが、この時は 

  竹原小早川氏の当主として出陣している。 

 

天文20年(1551)隆景が本家沼田小早川氏を統合し沼田高山城に移 

  ってからは、竹原木村城は廃城された。 

⑥隆景は、沼田・竹原両家の統合に当たっては、沼田小早川第16代の 

 小早川繫平の妹を正室とし仲睦ましく子には恵まれなかったが生涯 

 側室は置かなかった。

⑦小早川隆景ゆかりの城 chikuzen1831史跡散策

      新高山城跡、三原城、高山城と今回の木村城 

 

      ご訪問ありがとうございました。

 

<参考資料>

  現地の説明板、国土地理院1/25,000地図 

  本郷町観光協会・高山城物語