備後御調郡海裹(うつど)荘/広島県世羅郡甲山町宇津戸(うつど) | 史跡散策

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古代からの歴史や史跡散策が趣味です。
プロフィール写真は、備後・福山城

 現在の世羅郡甲山町宇津戸には中世に備後国海裏荘という荘園があり

ました、尾道市から国道184号を北へ12km進と山陽古道の駅家の者度(いっと)址といわれている御調町市(いち標高70m)に至りさらに6km進と宇津戸に着く。

 国道の西側に昔の石見国(島根県)に向かう石州路(石州街道)があり 

写真①はその石州路から宇津戸(標高300m、後ろの山は約600m)を見た風景です。

 写真②は、旧石州路と国道184号の交差点近くにある「黒木一里塚跡」の石碑です。

 写真③は、更に石州路を進むと宇津戸の町の中心部に観音寺という備後国鋳物師惣大工職を務めた丹下氏の菩提寺が見える。

この丹下氏は、東大寺再建に従事した草部助延を祖としているという。 

 その観音寺の入り口に石州路の道標が残っている(写真④)、それには「左 甲山 石州はまだ道、右 上下 庄原 みよし 西城雲州近道」と刻まれている。

 写真⑤は、道標を左に甲山へ向かう石州路です。

 

  下図は、旧海裏荘(現宇津戸地区)の概略です。

宇津戸は標高300mの田園で周りを400~600mの山に囲まれた盆地になっている。

 

 この中世の海裏荘は、延慶2年(1309)6月20日付で鎌倉幕府の六波羅探題の下知状によって領家と地頭の間で下地中分が行われている。

その書状の内容が甲山町史に記載されてあるが、両者の代理人の氏名花押はあるが主家筋の氏名は判らなかった。

 

 南北方向は、宇津戸地区の中央を流れる宇津戸川(写真⑥)の北側(右)が領家分で南側(左)が地頭分と定められている。

東西方向は、石州路の東側が領家分で西側を地頭分と定めている。

「黒木一里塚跡」の西側の田圃の中にその境界としての堺石(姥石)があり丁度稲刈りの後だったので判りやすかった。写真⑦

 

 今回、宇津戸を訪れました理由の一つは、この海裏荘が下地中分された後に、神社も分祀して「領家」と「地頭」の名を冠した神社が一つの村に残っていることを知ったからです。

 まず領家方の領家八幡神社は、石州路の道標の北側の丘に鎮座する。

神社の説明板によると鎌倉時代の延慶年間(1308~1311)に創建され、現在社叢にはツクバネカシ、ウラジロカシ が群生して県の天然記念物となっている(胸高幹囲3m) 

写真⑧参道石段、⑨拝殿、⑩拝殿と本殿

 

 一方、地頭八幡神社は領家八幡神社の南700mの小高い丘に鎮座する。写真⑪鳥居と神楽殿、⑫拝殿正面

 両神社の氏子は領家と地頭が争った事から大変仲が悪く、毎年別々に秋祭りを開催してきたが、近世(江戸時代)になって、やっと同じ日に祭を実施するようになり江戸後期には獅子舞を奉納するようになった。

写真⑬は獅子舞の記念の獅子頭の石像です。

 写真⑭は、宇津戸から下流4kmの所の芦田川に建設された八田原ダム(6,000万トン)で宇津戸川もこのダムに流入している。

 今、稲穂も色づき稲刈りも始まって、気候も少し涼しくなって約2時間の散策は快適でした。

 

 <ご参考>

1)宇津戸と云う地名は海裏荘に由来するとのことで、江戸時代までは備後御調郡でしたが現在は広島県世羅郡に属している。

2)山陽古道の者度(いっと)いっと駅をこの宇津戸(うつど)と云う説もあります。

  

 

 <参考資料>

地元説明板、甲山町史、森本繁著 、備後の歴史散歩(下)

甲山町宇津戸地区の自治センターの方の話

尾道市「尾道文化 古代山陽道」

国土地理院1/25,000地図