山陽自動車三原久井IC入口の国道486号(山陽古道)の交差点から御調川に沿って県道25号を北上すると約8kmで久井町下津に至る(写真①)、御調川もここまでくると小川になる。--標高350m地点
さらに2km進むと写真①の奥中央に建物が見える久井稲生神社の鎮座する久井町江木地区に至る。
井町は、中世において杭の荘と云われ京都の伏見稲荷大社の荘園だった、写真②③は、稲荷神社独特の朱塗りの鳥居が美しい。
久井稲生神社(いなり)は、当初下津三橋に585年頃、伊奈利大明神として祀られ938年頃に現在地せ遷座され、伏見稲荷大社の分霊としては日本最古と云われている。
写真④は、拝殿と本殿
写真⑤は、須佐之男命を祀る摂社の八重垣神社(創建785年)
備後杭の牛馬市について
平安時代の天暦5年(951)頃、牛馬商人が牛一頭をこの神域で商ったところ、この牛の生育が大変よく、これは稲生神社のご神徳によるものとの評判が立ち、更に961年ごろ伯耆大仙神社を勧請した以降多数の牛馬商人が集まるようになった。
その後、江戸時代の1680年には芸州広島藩の公認となり、山陰の伯耆大仙、九州の豊後浜とともに、この備後杭の牛馬市は日本三大牛馬市と云われるまでになった、昭和の初めごろは1萬数千頭の牛馬が集まったが農作業の機械化が進み昭和59年(1964)に歴史の幕を閉じた。
稲生神社の境内には牛馬市の繁栄を祈念して大正15年(1926)に奉納された牛像がある。 -- 写真⑥
旧・荘園
杭の荘の村々へ
現在の久井と云う地名は、その昔に杭を持ち寄って稲生神社の神殿を造った事に由来して杭の荘が久井となったという。
伏見稲荷大社のの荘園の時代には杭の荘は、泉、下津、吉田、筋原(あぞうはら)、羽倉、江木、和草、黒郷の八か村から成り立っておりその位置関係を下図に示します。
今回この八か村を訪れました、以前は遠足がてら数回に分けて訪れています(もう十数年前のことですが)。
先ずは、吉田地区です写真⑦ ここは標高430m
次は、筋原です、ここが最も標高は400m --写真⑧
次は、泉地区ですが、ここは室町幕府・足利尊氏によって三吉鼓氏覚弁が地頭職に任じられており、その山城かと云われる城山の名の付く山
(標高463m)です。 -- 写真⑨
次は、泉村からの泉川が村の中央を流れている和草村で標高380m
―ー 写真⑩
次は、和草の下流にある黒郷村、中央を泉川が流れる。写真⑪
泉川はこの後、御調川に合流する。
次は、前回ご紹介した小早川隆景の家臣の末近信賀の所領の村です。室町時代後期に安芸国豊田郡の沼田小早川氏が杭の荘を横領したか??
杭の荘の八か村は、標高350~400mの高地にあるがいずれの地区も今でも豊かな美しい田園地帯になっている。
杭の荘は、江戸時代の生産高は、5,000石程度だったか?!
<ご参考>
1、現在の久井町は、2005年に三原市と合併した。
人口5,000人、面積62km2で、小学校3校、中学校1校、高校1校、
の規模の町です。
2、米の品種は、20~30年前より「コシヒカリ」が多く「久井のコシヒカリ」
として中国地方で広く販売されている。
3、久井の中心は、稲生神社のある江木地区だったが、学校など老朽化
が進み三原市久井支所など和草、黒郷などにシフトされているように
感じました。
<参考資料>
現地の説明板、久井町の歴史民俗資料館見学、国土地理1/25,000
森本 繁著、備後の歴史散歩(下)