備後国は、七世紀中頃に吉備国が備中・備前・備後に三分割された時に行政区として成立した。
備後国は、下図①の如く14郡から成り国府は芦田郡の中心部(現・広島県府中市)に置かれて最近の発掘などに
よって更に明らかになっている。
明治以降は、備後国と安芸国とで広島県となっている。
① 備後国14郡
下図②は、国府付近の史跡位置と写真場所。
② 国府跡付近
写真③は、国府跡の説明板、国府跡は住宅地で現在は埋め戻されている。
④は国府跡の背後の総社山にある小野神社でここに総社神社があったと云われている。
⑤は総社神社跡から国府跡を眼下に見る。
③ 国府跡
④ 小野神社
⑤ 国府跡
写真⑥は、2年前に府中市の広場の整備工事の事前の発掘調査の時に発見された山陽古道と国府に至る
分岐点のイメージ図が現場に展示されている。
山陽古道は都から九州大宰府に通じる大路で道路幅は12mで国府への道幅は6mが確認された。写真⑦
⑥ イメージ図
< ⑦ 分岐点の看板
<参考>
古代の七道の内、都と太宰府を結ぶ山陽道が最も重要で大路とされ、東海道・東山道が中路、そして他の山陰・北陸
南海・西海道は小路と定られている。
写真⑧は、その分岐点にある日吉神社(後述)の鳥居で江戸の元文年間(1740ごろ)に暴風雨で倒壊したものを宝暦10
(1760)に再建されたものーー 柱が短くなっている。
この鳥居の前のアスファルト道が山陽古道の跡です。現在の道は一車線分しかないが、地下は12mだった。
⑧ 日吉神社鳥居
この場所から約1Km南を芦田川が流れている。 写真⑨
⑨ 芦田川
この芦田川の南側の丘に明治時代の旧・芦品郡(芦田郡と品治郡合併)の郡役所の建物があり、今は府中市の民俗
歴史資料館として利用されており、国府跡などからの発掘資料が展示されている。
写真⑩は、当時の国司の模擬服装が展示してあり興味深かった。
国司も中央と同じく四部官(四等官)制で政務を執っており、備後国は上国なので守・従5位下、介・従6位下、掾(じょう)・
従7位上、目(さくわん)従8位下の4人の国司がいた。-- 服装の色が面白い
⑩ 国司の服装
<参考>
備後国の国力は、太閤検地では186千石、その後、新田開墾や石直しにより元禄時代は295千石となっている。
江戸時代の領主は、南部6郡が福山藩100千石、中津藩飛び地20千石と幕府領で北部8郡はほとんどが広島藩
(含む三次浅野藩)だった。
写真⑪ 綺麗な十二単衣も展示してあった。
⑪ 十二単衣
この資料館から南1Km(国府跡から芦田川を挟んで南へ2Km)に南宮神社がある。写真⑫⑬⑭
国府の南に存在するので南宮神社と称す、祭神は第7代孝霊天皇と吉備津彦命で備後一之宮に次ぐ大社だった。
創建は第51代平城天皇の御世の大同2年(807)で国府の守護神として祀られた。
⑫ 正面、隋神門
⑬ 本殿
⑭ 南宮寺の鐘楼
⑭の鐘楼は、南宮神社の別当寺の南宮寺(神社のすぐ下にある)の物であるが神仏分離の時、この鐘楼だけが
神社の境内に残っていて珍しい。
また、この鐘楼の横300mの所に孝霊塚と伝わる小さな古墳があった。 供養墓碑か??
今度は、国府跡から北に2Kmに日吉神社がある。 第52代嵯峨天皇の弘仁4年(813)に国府の北の守護神として
近江志賀の日吉大社より分霊されたと伝わる。
⑮は隋神門の手前の鳥居(一の鳥居は山陽古道入口にある写真⑧)、写真⑯は左手の手水舎と隋神門、⑰は拝殿
と本殿、 主神は大山咋神
⑮ 入口の鳥居
⑯ 隋神門
⑰ 拝殿と本殿
国府跡のすぐ西側に浄土宗金龍寺(写真⑱)があるが、ここは大同元年(806)に建立された法起寺式伽藍配置の
吉田寺跡と云われて境内には石田寺の塔礎石が残っている。 (写真⑲)
寺域の広さや伽藍配置などから最初の国分寺ではないかとも云われている。
⑱ 金龍寺
⑲ 塔礎石
過去の発掘調査では、塔基壇、講堂基壇、苑池跡、瓦類、唐三彩、墨書土器などが多数発見されており、現在も継続
して調査が行われている。 写真(20)
(20) 発掘調査現場
丁度9月2日府中市のフェスタが開催されていて、これまで遺跡の発掘調査に携われてきた府中市教育委員会の方に
色々とお話を伺って有意義だった。
国府跡などは現在、ほとんど住宅地になっており発掘調査も大変のようだが地道な調査には感心するばかり!!
<参考資料>
1)府中市教育委員会、国府発掘などの資料
2)現地の説明板
3)森本 繁、備後の歴史散歩
4)和田英松、官職要解