伊能忠敬の備後での足跡と榎本武揚との縁 | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

 今年は、伊能忠敬の文政元年4月没後200年に当たり、福山市の県立歴史博物館において

7/19~9/24間「日本人の地図づくり、行基図から伊能図まで」の企画展が開催されている。

郷土出身の「守屋 壽氏コレクション」で今回は新たに発見された室町時代の「日本扶桑国の図」(行基図)が展示されている。

内部は撮影禁止で「展示図録」を記念に購入した。

 ① 企画展看板

 ①の企画展の看板の背景の地図が行基図で鎌倉時代から江戸時代初めまで使われて

いたそうです、行基図は諸国が「団子」が連なったように描かれている。

 

 行基図、伊能図以外では、大阪冬の陣・夏の陣の両軍の諸将の配置図や江戸時代諸藩

が幕府に提出した城下町絵図や領内絵図が展示してあった。

そしてそれらを基に幕府が作成した日本全図が、寛永・正保・元禄・享保の時代にそれぞれ

作成されていたことを知った。

 伊能忠敬は、寛政12年)(1800)4月の奥州・蝦夷の第一次測量から文化13年(1816)の

江戸府内の第十次測量まで10回の測量を行っているが1805年の第五次、1809年の第七次

1811年の第八次測量には備後地方に測量または宿泊したようである。

下図は、備後における伊能忠敬のゆかりの地と写真の場所。

     

 第七次の九州測量の時は、1809年に神辺本陣に宿泊して当地の儒者にして歌人の

管茶山と面談して、その後も親交を深めたと伝わる。 写真②③ 神辺本陣跡

  ② 神辺本陣

  ③ 神辺本陣

 

  この神辺本陣から国道182号線を北へ20Km行くと神石郡井関村に、さらに8Km進むと

油木村に至る。 この両村に伊能忠敬の測量隊の宿泊跡がある。

写真④は井関村の年寄・門田久治良邸に1811/2/14 宿泊して夜天体観測したとあり、

写真⑤は油木村の庄屋・七郎左衛門邸には、1811/2/10に支隊泊、2/15に本隊泊で夜

天体観測したとある。 写真⑥は油木村の庄屋屋敷跡

  ④井関の碑

  ⑤ 油木村の碑

 ⑥ 庄屋屋敷跡

 

 伊能忠敬(1745~1818)と備後の縁として箱田良助(1790~1860)がいる。

良助は、備後国安那郡箱田村(現・福山市神辺町ー神辺本陣から2Km)の庄屋・細川園右衛門

の次男に生まれ、名字を「箱田」とし1807年7月17才の時に江戸へ出て伊能忠敬に入門した。

測量術を学び第七次、第八次の九州測量(中国内陸測量も)に参加し、のち忠敬の筆頭内弟子

として測量・地図作成に尽力した。(1821大日本沿海與地全図完成に大きく寄与した。)

 その箱田良助の生家が残っている。 写真 ⑦⑧⑨

 ⑦ 生誕地碑

  ⑧ 正門

 ⑨ 生家の外観

 

 1811年の九州測量の帰路に忠敬は良助の生家に宿泊したそうである。

 

 生家の前には、管茶山の「箱田道中」という漢詩の碑があった。

   ""  比経山蹊歳幾回  毎将夜半始遣来

      行思往時停籃與  數点流蛍水竹隈 ""

   <大意>

  この山あいの道を年に 幾度往来することか いつも夜半近くに帰ってくる

 以前は、よくここで籠を留めて、 数匹の蛍が水ぎわの竹藪から飛んでいったことを

 思い返す

 

 その後、箱田良助は、1822年幕臣の榎本家の御家人株を買って、榎本圓兵衛武則と改名

して、1844年には御勘定方となり旗本に加えられた。

 

 武則の次男には、あの榎本武揚(1836~1908)がいる。

昌平坂学問所、長崎海軍伝習所、オランダ留学、幕府軍鑑開陽丸艦長、蝦夷共和国総裁

函館戦争敗北、獄中生活の後、黒田清隆の尽力により助命されて明治政府の要人として

活躍した。

 

   これも 伊能忠敬との「えにし」 か!!

 

 <参加資料>

①現地説明板、記念碑

②福山、管茶山記念館資料

③広島県立歴史博物館発行、 「日本人の地図つくり」