旧山陽道、備中矢掛本陣 | 史跡散策

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プロフィール写真は、備後・福山城

  広島県福山市(備後国)から旧山陽道を東に向かうと備中国後月郡高屋宿(岡山県井原市)を経て小田郡矢掛本陣に至る。

この矢掛本陣は、薩摩島津藩、萩毛利藩が定宿とし幕府の長崎奉行などが利用していたと云う。

写真①は本陣の御成門、②は本陣の全容、③④は玄関式台、⑤は主客の御座、⑥は御座所から見た中庭、⑦は嘉永6年

9月17日に島津篤姫が上洛の途中に宿泊した時の供揃い259名中、本陣宿泊53名の内容をしるしたもの。

①御成門

   ②本陣全容

    ③式台の衝立

       ④玄関、式台

         ⑤上段の間

           ⑥中庭

            ⑦篤姫供揃

 

  本陣の石井家は、大庄屋にして酒造業を営み、その跡の酒蔵が現存している。

  写真⑧⑨は酒蔵の外観、⑩は内部の絞り場の跡。

   ⑧外観

   ⑨外観

      ⑩内部の絞り場

 

 写真⑪は、本陣から東へ200m離れた所にある矢掛矢掛脇本陣の高草家

   ⑪脇本陣、高草家

 

現在、本陣と脇本陣の両方が国の重文に指定されているのはここ矢掛だけだそうです。

   

 写真⑫は、昔の雰囲気が残る矢掛町に相応しい「やかけ郷土美術館」も美しい。

    ⑫郷土美術館 

 

   ご参考

 

1、本陣の石井家は、近くにある猿掛城の毛利元清に仕えていたが関ケ原の合戦後に長子と次子は毛利氏と共に長州へ

  移住したが三子の石井善元は当地にとどまり江戸初期から本陣職を務めながら庄屋のち大庄屋として酒造業を営んだ。

   本陣の敷地面積は、959坪

 

2、脇本陣の高草家は、戦国時代後期に因幡国高草郡鹿野城から当地に移住した。

  代々金融業を営み、庄屋のち大庄屋となる。 敷地面積は600坪

 

3、備中国小田郡矢掛村の歴代領主

 

  ①1600~1617 備中国奉行 小堀新助父子 1萬石  (小堀遠州)

  ②1617~ 庭瀬藩、戸川氏 2萬9200石

  ③1619~ 備中松山藩池田長幸 6萬5000石

  ④1641~ 幕府領

  ⑤1694~1697 庭瀬藩、藤井松平氏 3萬石

  ⑥1699~幕末まで 庭瀬藩、板倉氏 2萬石

 

     <参考資料>

   矢掛本陣見学資料、矢掛脇本陣の説明板、歴代領主はWikipedia より