備後国分寺跡から3Km東に向かうと旧山陽道の次の宿場は、子守唄の備中・後月郡高屋宿に至る。
(現、岡山県井原市高屋町) 旧山陽道に面した町並みは、今も昔の面影を残している。
写真①②、この高屋村は、井戸時代は1,400石の給地の村で、備後と備後の国堺にあり800石が福山藩、600石が
天領の相給の村になっていた。
写真①
写真②
ここ高屋は、中国地方の子守唄として昔から歌いつがれている「ねんねこ しゃっしゃりませーー」がある。
高屋出身の上野耐之が当時の大作曲家・山田耕作に昭和3年2月に独唱披露して認められた。
写真③④は、上野耐之生家前の可愛い案内板です。
写真③
写真④
写真⑤は、歌詞の二番に登場するお宮詣りの高屋八幡神社。
「ねんねこ しゃっしゃりませ 今日は二十五日さ 明日はこの子の
ねんころろ 宮詣り ねんころろん ねんころろん」
写真⑤
高屋八幡神社は、弘長2年(1262)の創建で息長タラシ比売命、誉田別命、宗像三神を祭神としている。
明治15年(1883)までに三回再建されている。
鳥居の注連縄は、龍(へび ?)が赤い舌を出している。
高屋宿より南へ2Kmの所、備後国安那群八尋村(広島県福山市神辺町竹尋)に葛原勾当と葛原しげるの生家がある。
写真⑥
写真⑦
勾当(1812~1882)は、三才で病気で両眼失明、九才で琴を始め11才京都の松野勾当に師事して生田流筝曲をおさめた。
帰国後は地元で琴の教授をしていたが22才の時、再び京都に上がり「勾当」の位を授かった。
のち 二弦琴 「 竹琴 」を創案している。
しげる(1886~1961)は、葛原勾当の孫に生まれた。
東京高等師範学校英語科(筑波大学)の在学中から名曲に詩をつけて合唱用を発表していた。
卒業後は、九段精華高女の教壇に立ちながら「大正幼年唱歌」「大正少年唱歌」などを刊行して童謡運動の先駆けとなる。
作詞は4,000曲に及ぶ、宮城道雄とも親交したという。
大正10年(1921)作曲・室崎琴月の 「夕日 」の代表作がある。
「ギンギンギラギラ 夕日が沈む ギンギンギラギラ 日が沈む まっかっかか 空の雲
みんなのお顔も まっかっかか ギンギンギラギラ 日が沈む」
当初は「キンキンキラキラーー」 だったが小二の長女に「キンキンーー」は朝日で、夕日は「ギンギンギラギラーー」と
云われて変更したと伝わる。
葛原しげるが子供のころ見たであろう、故郷の神辺平野に沈む冬の夕日 -- 写真⑧
写真⑧高屋川の夕日
資料、現地説明会
おかやまの歩み、高屋宿
Wikipedia 葛原しげる