ぼくは老人にそれ以上話しを聞くのを諦め、ハルニレから離れて、広場の周囲に並ぶ小屋を端から覗いてみた。

 どの小屋にも人影はなく、生活の匂いも感じられなかった。

 ぼくたちにあてがわれている小屋は、その作りからして物置のように思っていたが、ほかの小屋の作りもほとんど同じだった。藁束の山が寝床で、食器や農具が隅のほうにきちんと片づけてある。

 囲炉裏の切ってある小屋はたぶん長のものだろう。

 昨日、あの熊が吊るされていた小屋には、血の匂いが濃密に染みついていた。やつはすっかり解体され、奥のほうにしつらえられた祭壇のようなものの前にきれいに切り分けられた肉が笹の葉を敷き詰めた上に載せられていた。その周りに、茸やら野菜やら、徳利のような素焼きの壷やらが置かれている。

 村はまさにもぬけの殻だった。

 急に空腹を覚えた。

 ぼくは、小屋へ戻り、冷えたオジヤを食べた。大きな肉の塊がいくつか浮いていた。それは、少し生臭さがあったが、歯ごたえがしっかりしていて、飲み下すと、体に力が漲るような気がした。

 冷えた朝食をすっかり平らげ、仰向けになってぼんやり小屋の天井を眺める。

 いったい、これからぼくは何をすればいいのか? 

 登季子を置いて、一人ここを脱出することは考えられない。それに、この広大な日高の山中のどことも知れぬ場所から、一人で脱出したとしても、どちらへ向かえばいいのか、見当がつかない。

(それにしても、登季子は、どう思っているんだ?)

 彼女は、ここの生活にすっかり馴染んでしまっているようだ。

 やつらに洗脳されてしまったのか? 彼女の言うように、連中は、彼女が求め続けていた北方民族なのか。だとしたら、彼女は、それを発見して、この先どうしようというのか。このまま、彼らとともに、ここで暮らすつもりなのだろうか。

 彼女の心が、ぼくから遠く離れてしまったようで、憤りとやるせない気持ちで体が震える。

 風が吹いた。

 つむじ風がどこかで巻き起こり、森を揺らして、こちらへ走ってくるのが感じられた。

 風は、東からやってきて、草葺きの扉を叩いた。

(東風、盟友……)

 村長の言葉を思い出し、あわてて表に飛び出す。

 長の姿は、ハルニレの根元にはなかった。

 あたりを見渡しても、姿はない。風は、あの一瞬吹いただけで、その後は森はしんと静まり返ったままだ。

 まるで、さっきの風が長をさらっていってしまったかのようだった。

「盟友か……」

 ぼくは、広場を横切り、沢の辺に出た。

 手の切れそうに冷たい水を掬い取り、顔を洗う。

 様々な思い、記憶が去来する。

『もし道を失ったら、大きな沢を選んで遡上し、主稜線に出るのが最良の策です……』

 帯広のマスターの言葉だ。

 この沢は、けして大きな沢ではなかったが、たしかな水量があった。これを遡れば、きっと見覚えのある稜線に出られると、確信にも似た予感をいだいた。

(登季子がここにいれば……)

 沢を離れると、今度は、昨日村人たちが出てきた細い径に踏み込んでみた。

 深い下生えに微かに残されたトレースは、いくらも行かないうちに消えてしまった。薮をかきわけ、彼らが残した痕跡を探したが無駄だった。

 優秀な猟師は、獲物に自分の存在を感づかれないように、まったく痕跡を残さずに森を歩くと聞いたことがある。この山で何代にも渡って暮らしてきた彼らなら、それぐらいの技術はあるだろう。

 ふだんは村人の多くは下界で暮らしていると長は言っていた。それなら、下界とここを結ぶ径があるのではないかと探してみたが、それも徒労だった。

 たぶん、集落の裏を流れる沢を伝って、行き来しているのだろう。

(あるいは、沢を下れば町へ……)

 だが、はっきりしたルートを知らずに沢を下れば、途中でいくつも分かれる枝沢のどちらを辿っていいのか、わからず、入り組んだ森の迷路に捕らわれてしまうだろう。

 なすすべがなく広場に戻ると、ぼくは、長がそうしていたように、ハルニレの幹に背をもたれて横になった。

 東の峰のほうから風が吹き下ろしてきて、梢をゆさぶった。

(盟友か……)