なぜ生きているのか。
と言われても誰も答えられない。
けれども、
ではあなたは生き延びるために生きているのですか?
例えば人類という種族として
例えば〇〇家という家庭の子孫として
と言われれば、それに対しては物凄く抵抗感がある人が多いのではないか。
単に生き延びるためだけであれば、ゴキブリと同じではないか。
生きる 逃げる 子孫を残す
この三つしか機能がないあの動物と同じではないか。
中には「あぁそうだ。俺らなんかゴキブリと大して変わりゃしねえ」とうそぶく人もいるかもしれない。
でも基本的には人間としての尊厳は誰であれ持っているわけであり、したがって「なぜ生きているのか?」も含めて何らかの倫理観を背負っているはずだ。
とりあえずでも
「家族を守るため」
「彼女を守るため」
「子供を守るため」
「お金持ちになるため」
「東京オリンピックを見るため」
「サッカー日本代表になるため」
と言って、暫定的な答えをこしらえて、この問いを煙に巻くことはできる。
でも本当にそれだけだろうか。
こうした言葉の裏側には間違いなくそれ以前の、さらに根底的な部分においての「なぜ生きているのか?」が隠されている気がしてならない。
有力なのは、「存在の承認」というものが挙げられる。
スポーツで活躍するのは自分の存在が認められるための手段。
親しい人間を守るのは、家族の存在が認められるための手段。
夢をかなえるとかいいつつ、それらはあくまで存在の承認に対する欲求の現われではないか。
というのは僕の勝手な独断と偏見であるが、ある種の確信に近い推論でもある。
ただ、多くの人間にとってはそこまで根本的な部分にまでフォーカスすること自体が、日常的なことではないので、あくまで普段は目の前のタスクをただこなしている。
その様はさながら、プライドの高い人間が、空腹でおなかが鳴っているのに「オレはお腹空いてないもん」という顔をしつつ知らん顔をしているだけのようにも思える。
何のために生きているのかという問いが分からないまま、結論は保留しているけれども、それでもその問いをあくまでも「見ないフリ」をして知らん顔している過ぎない。
人間というのはその程度のものなのではないか。