雨あがる (1999) | チャレンジの日々

チャレンジの日々

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解説
 故・黒澤明監督が山本周五郎の短編をもとに書いた遺稿を、黒澤組のスタッフたちが映画化。剣の達人でありながら人の良さが災いし、思うように仕官になれない浪人をユーモラスに描く。堅苦しくなく、見終わった後に爽快な気分になれる良質の時代劇。お人好しの浪人を寺尾聰が好演。宮崎美子、三船史郎、吉岡秀隆、原田美枝子、仲代達矢共演。享保の時代。浪人の三沢伊兵衛とその妻は、長雨のため安宿に居を構えた。ある日、若侍の諍いを難なく仲裁した三沢は、通りかかった藩主・永井和泉守に見そめられ城に招かれる。三沢が剣豪であることを知った和泉守は、彼を藩の剣術指南番に迎えようとするが…。

以上、映画情報サイトより引用




私が大好きな作家の一人に、山本周五郎という方がいまして。
「柿」とか「義理なさけ」とかね、胸にグッとくる作品ばかりです。
「糸車」や「おもかげ」なんて、涙が止まらない話です。
が、やはり一番はこの、「雨あがる」なんですね。
何度読み返したか覚えがない程、読んだ作品なんです。

それで、次にどの動画観ようかな、と探していたら、YouTubeにこの映画「雨あがる」が上がっているじゃないですか!(^^)!
ええ、山本周五郎作品が、映画になっていたんだ、と、喜び勇んで観ました。

。。。。。。。。

。。。。。。。。が。。。。。。。

。。。。。。。。。。私は、泣くところや、逆に怒る所とか、人と違っているので、きっと私が間違っているとは思うんですがね。
でも、山本周五郎「雨あがる」のラストを、ハッピーエンドにしてしまうなんて、もう呆然としてしまいました。
それが、山本周五郎『らしい』ハッピーエンドへの持って行き方なんですけどね。
そういうハッピーエンドが多いですから。
でも、この山本周五郎「雨あがる」がハッピーエンドでないのは、【ハッピーエンドではない方が実はハッピーエンド】というラストを表現したのだろうと、私は思っていたのです。
だからこそ、原作のラストが大好きでね。
そこから繋がる続編「雪の上の霜」もあるのだし。。。。。
それが、単純なハッピーエンドに変えられていて、ショックでした。

あと、私が胸がキュンとなる部分ばかりが変更されていて、それもショックでした。
大筋は一緒なので、きっと誰にも分ってもらえないとは思います(´;ω;`)ウゥゥ

ですので今回は、映画の紹介に、原作の話も交えながら書いていこうと思います。

主人公は、三沢伊兵衛。
三沢家は、松平壱岐守に仕えて、代々250石を取っていた家系。
三沢兵庫助の一人息子である伊兵衛は引っ込み思案で体も弱かったけれど、宗観寺の住職・玄和に可愛がられ、健康で明るく育ちます。
玄和の口癖である、
『石中に火あり、打たずんば出でず』
という教えを心に刻み、思慮深い人間となります。

『石中に火あり、打たずんば出でず』とは、
石の中に火がある
打たなければ出ない、どのように打つか
どう打ったら石中の火を発することができるか

と、工夫するということです。

そんな風に何事もよく考え、挑戦していき、学問は朱子、老子、陽明、老子にまでおよび、武芸は刀法から、槍、薙刀、弓、柔術、棒、馬術、水練とものにして、しかも全て類なきところまで達します。

なのに、もう7年も、主家を離れて浪人生活をしているのです。
何故なら、伊兵衛の腕前が桁外れな為、あっという間に師範でさえ倒してしまい、場をしらけさせることになるのです。
しかも、優し過ぎるその性格は、自分が相手に勝ってしまったことを申し訳なく思い、
「すみません、すみません」と本気で済まながるので、相手は何か馬鹿にされたように感じてしまうんですね。
そんな風に、優秀なのに危うい立場にどんどんとなっていき、そのうち伊兵衛の両親が相次いで亡くなってしまいます。
居心地も悪いし、それでは自ら退身して、妻おたよと共に見知らぬ土地へ行き、新しく仕官しようと旅する浪人生活に入ったのです。

最初は、これだけの心得があるのだから、何処へ行ったって、仕官先はすぐに見つかるだろうと思っていたんですね。
だけど、何処へ行っても、やはりその気質から、勝っても勝っても、その勝ち方があまりにもあっという間だし、そこへ照れたり謝ったりするものだから、決まらないのです。。。
上手くいきかけることもあったのですが、すると、自分のために職を辞することになってしまう立場の人に泣きつかれ、身を引いてしまうという(-_-;)

「譲る」人生なのですね。
そんなこんなで、主家を出る時はかなりの旅費を持って出たのですが、3年目にはお金も底をつき、やむを得ず町道場で、賭け試合をして生活費を算出するようになります。
群を抜いて強いのでね、必ず勝つので莫大なお金を稼げることとなるのです。
でも、賭け試合というのは勿論ご法度だし、武士としてそんな不面目なことはないのです。
なので妻のおたよは伊兵衛を泣いて諫め、二度としないことを誓わせます。
そうなると、たちまち生活は困窮し、妻の嫁入り道具さえ売り払っても苦しい浪人生活となってしまいます。

妻おたよは良家のお嬢様でね。
950石の準老職の家の出で、豊かにのびのびと育った女性でした。
しかし、伊兵衛について放浪し、すっかり窶れて弱々しくなってしまいます。
でも品格を保ち凛として、そして心根の優しい彼女は、
「私が内職をして支えますから」と伊兵衛に言います。
伊兵衛は、驚き、そこは侍として、妻にそんなことはさせられないと、手作り玩具や、小動物を捕獲して子供相手の商いをして生活費とします。

さて、映画ですね。
そんな放浪生活の夫婦は、ある宿に滞在中、長雨にあい、足止めを食っています。

この映画の伊兵衛は、この方。


。。。。。。。素敵な方なのですけど、何か違う。。。。。
私の中の伊兵衛は、こんな凛々しくてはいけないんですね。
もっと人が良さげで、おどおどした、というか、気が弱そうな男性でないと。。。

例えば、こんな感じの方。


原作中でも、優しい笑顔で、丸顔だったはず。

妻のおたよは、映画ではこの方。


優しそうでね、いいのですけど。。。
ですけど。。。。。
私の中のおたよは、伊兵衛の為に瘦せてしまっているのですが、それでも中から染み出る品の良さが隠しきれない、という感じの人がいいですね。
例えば、この方。


長雨で、足止めを食っている宿で、ある騒動が起きることから始まります。
騒動とは、同宿の人々の中に夜鷹がいて、その女性が、自分の飯を目を離した隙に、盗まれたと騒ぎ出したことです。
皆が困っていたのを見て、伊兵衛は喧嘩を止めるのですが、宿の雰囲気が暗くなってしまって。。。。
考えた伊兵衛は、禁じられていた賭け試合に出かけてお金を稼ぎ、酒や米や魚などの食料を買って帰って来るのです。
そして皆で調理して、宴を開きます。
貧しい人々は、食べ物があることや、皆で宴が出来たことが心から嬉しく、夜鷹とも打ち解けるのでした。

しかし、妻のおたよは、やらないと約束した賭け試合を、また伊兵衛がしたことに落胆します。
それに必死で謝る伊兵衛。

翌日も、何となく宿に居づらくて、一人出かけることにします。
そこで、偶然、刀を抜いた侍たちに出くわすのです。
それは、5対1で、はたし合いをしている現場でした。

つまらない意地とか、武士の面目とかであろうが、親兄弟・妻子もいるであろう人々が、無駄に怪我をすることなどないという考えの伊兵衛は、
「やめて下さい、怪我をしたら危ないですから」と、「どうか、どうか」と、あれよあれよという間に逃げまどいながらも、皆の刀を取り上げて頭の上でまとめてしまうのです。

そこを、ちょうどその地の藩主である青山主膳が見ていたんですね。
刀を抜いた屈強な侍たちを、あっという間に制した伊兵衛に感服した藩主は、後に、伊兵衛を城へ招きに、宿まで迎えを送ります。

藩主は、伊兵衛に酒肴のもてなしをし、その経歴を聞きます。

ここで伊兵衛が説明することが、原作とは違うんですね。
ただ、人に道を譲って、譲って、生きてきた伊兵衛の過去が、私の胸に刺さるストーリーなのに、映画では、主家が退屈で逃げ出したことになっているのです。

。。。。。違うんですよねぇ。。。。。
「凛々しい伊兵衛はちょっと違う」と、先に配役について書きましたが、そこは凛々しい伊兵衛なんですよ。
逃げるのではなく、譲って生きてきたのです。
それは、ある意味凛々しい生き方ではないでしょうか。

そして、お金稼ぎでは、賭け試合で八百長じみたことをして恵んでもらって、生きてきたことに変えられているのです。。。。
違うんですよねぇ。。。。。
伊兵衛は、八百長をして上手く立ち回る人柄じゃないと、私は思うんですよ。
そんな器用な人間なら、元の主家でずいぶん出世していたことでしょう。

不器用で、情に厚く、だからいつも損をして生きるしか出来ない伊兵衛だからこそ、私が大好きな物語なのに。。。。と、残念な気分です。

そして、小説では、酒肴のもてなしで、藩主は意図的に伊兵衛を酔わせたのち、腕前を見せてくれと、あらかじめ呼んでおいた剣の達人たちと試合をさせます。
是非当家に仕えて欲しい、ということでね。
そこで、伊兵衛は、師範クラスの武士をも、軽く打ち負かせてしまうんですね。
例のごとく、
「あ、すみません、すみません、お怪我はありませんか」と済まながりながら。。。。

それが、映画では、剣客たちを打ち負かすのは同じですが、最後は藩主まで泥の中に打ち込んでしまうことになっています。

そしてその帰り道、藩主に恥をかかせてしまったので、ああ、またもこの話はダメかなあ、と、とぼとぼ歩いているところに、賭け試合で負けた侍たちが襲ってくるんですね。

そこで伊兵衛は、
「今日はムカムカしていて、私は何をするか分かりませんよ」と、彼らを切り捨てるのです。

。。。。。。。。
こんな場面は、原作にはありません。

藩主を打ち負かしたシーンは、それは小説の伊兵衛の人柄を映像で説明する為に、負けた人間が勝った人間に憐みを受けるとプライドが傷つくと、言葉で説明したかったのだろうと、そこは譲ります。
でも、この、無駄な殺生のシーンは、何故必要だったのか。。。。。
賭け試合で負けた武士たちの腹いせや、仕官に対する嫉妬を描きたかったのかもしれませんが、そういう部分はもう既に入れられてあったので、それで十分ではなかったかと思うのです。

伊兵衛は、「ムカムカしてるから殺す」という人柄ではないはず。
先の、はたし合いを止めた時の、つまらない意地とか、武士の面目とかであろうが、親兄弟・妻子もいるであろう人々が、無駄に怪我をすることなどない、という伊兵衛の信念の部分との矛盾を生んでしまうのではないでしょうか。

仕官が叶わなくても、7年もずっと、人に道を譲って生きてきたのに、どうして急に仕官が叶わなかったからと言って殺生するのか。。。。
ちょっと分かりませんでした。

でもまあ、剣術も弓も馬術も抜きに出た才能を見せて、まあ、これで採用は間違いないであろうと、伊兵衛は思うのですね。

そして、おたよに言うのです。
これでもう、この生活もおしまいですよ、と。
長い浪人生活も終わりだと告げるのです。
と、云ってもいいと思うんだがとね。

と、云ってもいいと思うんだがというのは、いつも自信なさげな、伊兵衛の口癖ですw

おたよは、これまでずっと、期待してはダメだった7年間があるので、もう期待しないようにいつも心がけているので、伊兵衛はこの、と、云ってもいいと思うんだがというのが、口癖になってしまったんですね。

期待すると、ダメだった時に伊兵衛が落ち込むといけないので、絶えず期待しないようにしているおたよは、長雨が上がった日、そろそろ出立の準備をしましょうと、宿を出る支度をするのですね。

でも、伊兵衛は、そろそろ藩が自分の仕官を決定し、迎えに来るだろうと、ソワソワと待ち続けます。
そして、聞こえる馬の蹄の音!(^^)!

伊兵衛は衣紋を直し、使いの者を出迎えます。

しかし、使者は言うのです。。。。。
類まれなる武芸に人柄、藩主は是非と、ほぼ決定していたのだけれど、伊兵衛本人の問題でダメになったと言うのです。

理由は、賭け試合をしたことへの訴えがあり、それは武士として不面目の第一であるので、手を引かざるを得なくなったと。。。。。(´;ω;`)ウゥゥ

そして、せめて、ということで、旅費の足しにと金子を差し出します。
「とんでもない」と断る伊兵衛。

でもそこへ、おたよが出てきて伊兵衛の横に座り、金子を受け取るのです。
「賭け試合は勿論、悪いことと承知しておりますが、でもやむにやまれない時があったのだ」と。。。。
どうしようかな。
ここ、ちょっと原文を書いてみますね。

「主人が賭け試合を致しましたのは悪うございました。
わたくしも、かねがね、それだけはやめて下さるようにと、願っていたのでございます。
けれども、それが間違いだったということが、わたくしには初めて分かりました。
主人も、賭け試合が不面目だということぐらい知っていたと思います。
知っていながら、やむにやまれない、そうせずにいられない場合があるのです。
わたくし、ようやく分かりました。
主人の賭け試合で、大勢の人たちが、どんなに喜んだか、どんなに救われた気持ちになったか」


「おやめなさい、たよ、失礼ですから」

「はい、やめます。
そして貴方にだけ申し上げますわ」


おたよは向き直り、声を震わせて云った─

「これからは、貴方がお望みなさる時に、いつでも賭け試合をなすって下さい。
そして、周りの者みんな、貧しい、便りのない、気の毒な方たちを喜ばせてあげて下さいまし」


これが、原文の会話の全文ですね。

おたよは、夫が間違ってはいなかったことを使者に伝えたかったのです。
法的に間違っていても、勿論それは受け入れるけれど、でも世の中というのは、真心の方が法よりも、人を助けることが出来る場合があるのだと。。。。
それを、ただ伝えたかっただけなのです。
そして、伊兵衛にも、貴方は正しいと、伝えたかったのです。

だけど、映画では、使者に対して、
「あなたたち木偶の坊には理解できないでしょうが」という言葉が入るんですよね。。。。
それはちょっと。。。。
おたよは凛とした品格に溢れる女性で、殿方に「木偶の坊」なんて言葉を発する人柄ではないんですよね。。。私の中では。
ここはやはり、ショックだったなあ。。。。

そして、伊兵衛とおたよは、頂いた金子の半分を宿に残して、また長雨があったり、困っている客があったら、助けてあげて欲しいと頼んで、出立します。

そして、次の目的地までの道中、おたよは心の中で思うのです。
(口に出さないところが、おたよらしい!(^^)!)

ここも、原文書きますね。

─これだけ立派な腕を持ちながら、その力で出世することが出来ない。
何という妙な回り合わせでしょう。
何というおかしな世間なのでしょう。

でもわたくし、このままでも、ようございますわ。
他人を押しのけず、他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な方たちに混じって、機会さえあれば、みんなに喜びや望みをお与えなさる、このままの貴方もご立派ですわ。


素敵な夫婦です。
この夫にしてこの妻あり、って感じです。

伊兵衛も、一歩ずつ、気を取り直していくんですね。
失望することには慣れているし、感情の向きを変えることも上手な性質なので。

そして、峠の上にきて、景色が開けると、伊兵衛は、パッと顔を輝かせるのです。

折角なので、ここも原文書きます。

「やあやあ。
やあこれは、これは素晴らしい。
ごらんよあれを、何て美しい眺めだろう」


「まあ本当に。
本当に綺麗ですこと。」


「どうです。
身体じゅうが、勇み立ちますね、ええ。」


彼は、丸い顔をにこにこと崩し、少年のように活き活きとした光りでその眼をいっぱいにした。
早くもその眺望のなかに、新しい生活と新しい希望を空想し始めたとみえる。

「ねえ、元気を出して下さい。
元気になりましょう。」


妻に向かって熱心にそう云った。

「─あそこに見えるのは、十万五千石の城下ですよ。
土地は繁盛で有名だし、なにしろ十万五千石ですからね。
ひとつ、今度こそ、と云ってもいいと思うんだが、元気を出してゆきましょう」


「わたくし、元気ですわ。」

おたよは、明るく笑って、いたわるように良人を見上げながら、巧みに彼の口まねをした。

「と云ってもいいと思いますわ」




なんて、可愛らしいおたよさん。
原作のラストは、こうなんです。

またもや仕官の夢は叶わず、浪人生活を続けることとなります。
ハッピーエンドじゃないけれど、ハッピーエンドだと思いませんか?

伊兵衛の性格では、仕官すれば、その社会の軋轢に心が疲弊することもあるでしょう。
職があった方が勿論いいのですが、でもまだ今は2人、夢を見ながらのこんな生活も、幸せだなあと、私は思うんですよね。
だってきっと、いつかは、伊兵衛ほどの人物ならば、それにほれ込むお殿様も現れるはずだもの。
それまでは、こんな幸せがあってもいいんじゃないかな。

けれど、映画のラストは、木偶の坊とおたよに言われた使者が藩主にそれを伝え、ハッと気づいた藩主が、やはり指南役に抜擢しようと自ら馬を走らせ、2人を追いかけるという終わり方です。

私のような人間でも、その名を知る世界の巨匠と言われる黒澤監督の作品なので、深く考えられたストーリーなのだと思います。
ただ、私とは解釈が違いました。(この作品は)
ついでに、配役はこの2人が良かったなw↓


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