まあのブログ -38ページ目

まあのブログ

夢日記や神学などを書いております。

神学大全P36

「賦与知」

外的経験によらず、直接に魂の「うちに、与えられる」知をいう。(cf経験知)

 

トマスはここでこのような人間認識の根本にある賦与知に注目する。 それは可能知性と同様に、それ自体としては内容空虚であり、最も不完全な知である。そして普通の人間の場合には、その不完全性は経験を通し、いわば「後から」(ア・ポス テリオリ)補われてゆく。しかしそれ自体は、何かによって補われることのない第一の、絶対的原理として、「始めから」 (ア・ブリオリ)措定されている。しかし人間キリストの場合は事情が異なっている。既に述べられたように (本項註(1)参 照)、キリストのうちにあるものは、すべてその完全なあり方においてなければならない。それゆえキリストの知性のうちに 本性的に赋与されている賦与知も、それ自体としては不完全であるから、キリストにおいては何らかの可知的形象によって完 成されなければならない。それも、経験知のア・ブリオリな原理として、経験的に付加される経験知によって完成されるので はなく、まさに膩与知として、その不完全性が完成されなければならない。かくて、キリストの有する知は、賦与知に関する 限り、人間よりはむしろ天使の知に似たものとなる。第二のパラグラフは、まさに人間キリストの有する賦与知を、この天使 認識の側面において論じている。その意味で第一のパラグラフに述べられたことは、第二のパラグラフに述べられることに、 「またそれかえた」という種由づけとして、論理的連関をもって連結されることになるのである。

 

(一) キリストの魂の有する賦与知は、魂が受肉において合一している言に由来する。すなわち、すべての事物の形象は、事 物のイデアとして言のうちに先在するが、その形象は合一によって人間キリストの魂のうちに受け取られ、それが人間キッス トにおいて、その 魂を完成する賦与知となる。この場合、可知的形象の、言から魂への伝達は、直接的である。これに対し、 創造とともに、創造された天使の精神のうちに、言のうちに先在していた可知的形象が「流出」effluereし、 imprimere される。このようにして天使のうちに受け取られた形象が、天使の知性を完成させる賦与知となる。

(二)それゆえ天使における賦与知は、 天使の場合は、 そこに「刻印」 天使の本性の創造されるとともに、それに伴って同時的に与えられるものであるが、これに対し人間キリストにおける賦与知は、魂が言に受容された時、すなわち受肉の時に魂のうちに成立するものである。

――天使の場合について、第一部五五問「天使的認識の媒介」。特に、第二項。キリストの魂の場合については、第三部七間七項。特に十三項を参照

 

 

 

・「1+1=2」と最初からプログラミンがされているなら計算は要らない。ニンジンのデータも同様だ。

・考える力は与えられているが、学ばないと計算できないなら学ぶ必要がある。

 

天使の場合、最初からプログラミングされている。「予めプログラミングされているものこそ天使」と呼ぶ。

キリストの場合、人間でもあるから予めプログラミングされているわけではない。だが神と合一するので、全てのデータを得られる。

 

時間的な順番があるわけではないが、概念的には「人間→合一→知る」と言う順番がある。

天使の場合「発生=知っている」で、知っていない天使は、そもそも天使ではない。

 

天使にも天使に詰め込めるデータの限界があり、キリストにも人間的側面にはそれがある。天使も人間も神ではない有限なる存在に過ぎない。

好きな曲

【ピアニスト】

ブレンデル Schubert Op_ 90_3、Mozart - Concerto for Two Pianos (No_ 10), K_ 365 (Brendel, Cooper) 、Haydn Adagio in F, H.XVII No.9

アンネローゼ・シュミット モーツァルトPiano Concerto 21番、26番、27番(第二楽章)、

アファナシエフ シューベルト幻想ソナタ

ヴェルナー・ハース ハイドンの名によるメヌエット

エカテリーナ・ノヴィツカヤ Schubert - Sonata A major piano sonata13(Novitskaya)1

エミール・ギレリス 多過ぎるが、ベートーヴェンの悲愴第二楽章 ピアノソナタ29,30,31、ピアノ協奏曲3番2,3番楽章、メンデルスゾーン無言歌、

カールリヒター バッハ

カサドシュ 自作自演Casadesus Concerto for Two Pianos & Orchestra op.17 - Genova & Dimitrov (1-3)

ギーゼキング 月の光

クライバーン ラフマニノフ ピアノ協奏曲2番3番

クラウディオ・アラウ 独自の美意識で上り詰めてる感がある月の光、悲愴、シューベルトのあれ

グレン・グールド 色々過ぎる。ジークフリート牧歌、ブラームス、

アルフレッド・コルトー César Franck - Sonate pour violon et piano - Jacques Thibaud Alfred Cortot

サンソン・フランソワ 言うまでも無し ラベル、ショパン ピアノ協奏曲第一番 第二楽章

シュナーベル ベートーヴェンピアノソナタ30番

ウラジミール・ソフロニツキー Vladimir Sofronitsky plays Scriabin Sonata No.3 Op.23  (1958)

リパッティ ショパン ピアノ協奏曲第一番 第二楽章

テレンスジャッド プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番

ニコラーエワ バッハ「主よ人の喜びよ」

ノエルリー「子供の領分」などドビュッシー

バックハウス 色々だがベートーヴェンピアノ協奏曲4番、5番

ペライア Bach  Wachet auf, ruft uns die Stimme BWV645  Perahia

ホロヴィッツ 色々過ぎるがラフマニノフの第3番

マイラヘス「主よ人の喜びよ」

マルセルメイエ 神秘的なバリケード Les barricades mystérieuses de Couperin par Marcelle Meyer

ミケランジェリ 色々過ぎるがガルッピのピアノソナタ、亜麻色

モニクアース 月の光など

ユージナ プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」

リヒテル ラフマニノフ、プロコフィエフの東京公演

ルドルフ・ゼルキン シューベルト「ます」

ルフェビュール 「水の戯れ」

園田高弘「悲愴」

【曲名】

Boely:Prelude op.47-6 ボエリー:プレリュード

 

【ヴァイオリン、チェロ】

アッカルド「ベートーヴェン ロマンス」

アンソニー・プリース ヴィヴァルディ「チェロソナタ」

ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団 シューベルト 死と乙女 

ウィーン弦楽四重奏団 ハイドンString Quartet No. 17、No64

クイケン チェロソナタ、バッハ「ブランデンブルク協奏曲」など色々

ジャクリーヌデュプレ バッハ無伴奏など

ナヴァラ プロコフィエフ「チェロソナタ」

ヌヴー Brahms Violin Concerto Neveu Schmidt-Isserstedt 1948

フェシュテティーチ四重奏団 モーツァルト弦楽四重奏3,7,17、

フェラス バッハ「シャコンヌ」ブラームス「雨の唄」フランク「ヴァイオリンソナタ」など色々

フェラレージ  Violin Concerto No. 1 in D Major Op. 6 MS 21 III.★ Rondo Allegro spiritoso

フランチェスカッティ モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216フランチェスカッティワルター

ボロディン弦楽四重奏団 チャイコフスキー「アンダンテカンタービレ」

ハイフェッツ 色々

ユージナ プロコフィエフ「チェロソナタ」

ヨーヨーマ「ハッシュリトルベイビー」

漆原啓子 ブラームス「ヴァイオリンソナタ」 ヴィタリ「シャコンヌ」

【曲名】

マスネ「タイスの瞑想曲」、メンデルスゾーン「春の歌」、コセック「ガボット」、

クライスラー「愛の喜び」「美しきロスマリン」、ベートーヴェン「愛の喜び」、

ルネサンスの曲「イタリアーナ」

 

【吹奏楽】

カール・ライスター Mozart Clarinet Concerto, Karl Leister - II. Adagio

【曲名】

サンサーンスRomance en Fa pour cor et piano Op. 36 (1874)

モーツァルトフルート四重奏曲第4番 ラルデ

 

【指揮者】

アーノンクール ベートーヴェン「田園」

アントニオ・デ・アルメイダ フォーレ「パヴァーヌ」

ヴァンデルノート モーツァルト交響曲41番木星、

クライバー チャイコフスキー交響曲6番第2楽章

オーマンディ レスピーギ「ローマの松」「スケーターズワルツ」

カラヤン「Mascagni Cavalleria rusticana - Intermezzo sinfonico」、マーラー「アダージェット」、Brahms Symphony no.3 (2nd movement)

クリュイタンス 色々過ぎる ドビュッシー「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」

クレンペラー 色々過ぎるブラームス「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲4番」、シューマン「交響曲4番」、ベートーヴェン「幻想交響曲」

ワーグナー「ローエングリン第一幕への前奏曲」

ケンペン ベートーヴェン「交響曲3番」

シューリヒト 色々 ベートーヴェン「交響曲運命第二楽章」など

ズヴェトラーノフ ラフマニノフ第二番第三楽章、自作自演

チェリビダッケ シューベルト「ロザムンデ」

バルビローリ エルガー「セレナーデ」

パレー Debussy Petite Suite, L.65 - 4. Ballet

プレヴィン「over the rainbow」、チャイコのバレエ、

プレートル プーランク「シンフォニエッタ第3楽章」

ベーム モーツァルト「セレナーデ9番 ロンド」

ケーゲル 「G線上のアリア」

ミュンヒンガー「パッヘルベル カノン」

ムーティ メンデルスゾーン交響曲4番イタリア

ムラヴィンスキー色々過ぎる 「牧神の午後への前奏曲」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」、プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」

モントゥー ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」

リステンパルト バッハ「目覚めよと」

ロスバウト ストラヴィンスキー「アゴン」「ペトルーシュカ」

ロベルト・シュトルツ ヨハンシュトラウス2世

ワルター Johann Strauss Clemens Krauss、ニュールンベルクのマイスタージンガー

 

【声楽】

ジャルスキー 色々過ぎる。と言うより全部

クレメンスのノンパパ

ハイドン「テデウム(クイケン)」

ガルッピ「Te Deum」

パーセル - A prince of glorious race descended - Hassler (Perrot)

モーツァルト色々

 

【作曲家】

レスピーギ「シチリアーナ」「リュートのための古風な舞曲とアリア」

ボッケリーニ「メヌエット」

ロッシーニ「 Sonata for Strings No. 1 in G Major - I Solisti Italiani 1987」

ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲2番、 3番」「大フーガ」

モーツァルト「フルートとハープのための協奏曲」

武満徹「そして、それが風であることを知った(Fl,Hp,Vlaのための)」

ラヴェル「ハイドンの名によるメヌエット」

ハッセ「チェロ協奏曲」

ロカテッリ「合奏協奏曲」

バーバー「弦楽のためのアダージョ」

ハイドン「チェロ協奏曲」

ラヴェル「遺作ヴァイオリンとピアノ」

中世ルネサンスの好きな曲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『神学大全』で「善」について語っている。

私流に解釈すれば「善とは完成、達成、実現」である。

「じゃあ泥棒が盗みを達成するのは善か?」とツッコミが入る。

トマスは「善だ」と。「そいつにとっては盗みが目的で、それを達成したのだから」と。

ミッションコンプリート「GTAかよ!」ってなもんだ

泥棒に向かって「盗みを達成して、やったぜ!と喜ぶなんてどうかしてるぜ」 と馬鹿にするだろうか?まあ、確かに「盗めておめでとさん」とは言わないだろう。だが常に「自分のやっていることが果たして泥棒の盗みに勝るものなのか」と問わねばならぬ。善など常に相対性に晒された覚束ないものだと。

ところで「美」とは何か。まあ、色々な定義があり、収集は付かないが、私がしばしば思うのが「善との対比としての美」である。「真善美」って並んでる、あれである。「善とは自分の中にある正しさ」で「美とは外にある正しさ」なのだ。別に常にこれを思っているわけではないが。

美は外にありつつ、自分の中に入り込んでくる。自分を捉えて離さない。その意味で「外にあるのに自分と関係を持って、グイグイ刺さる正しさ」である。アプリの加工前後、整形ビフォアフターの写真を見せられたらどうだろう?それらの定義に当て嵌まっている気がする。

整形の前後写真だけでない。私は「美の前に立たされた時、私は醜く、間違っていることを知る」と言う。別に「その美が絶対に正しい」と言うことも無いのだが(美は美で俺を美と見做している!?)、少なくとも、「俺の外に俺とは違う正しさがあるようだぜ」と気付かせてしまうわけだ。

日本語では「はづかし」と言う古語がある。「立派である」と言う意味だ。自分と比べて立派である。その前に立たされると、自分が小さく感じてしまうということだろう。居たたまれなくなる?わからぬ。

でもそんな経験を美はさせてくれる。うずくまったら、そこがスタートライン。クラウチングスタートだ。

 

陶器やクラシックや仮名書などニュアンスが好きなので、料理の盛り付けも出来ると思いきや、あれは苦手である。

得意な部分もあるが、それはニュアンスから行ける範囲内である。ただ写真の構図と同じで、才能ではないが、学べば取り入れられて、得意を活かせる範疇に引きずり込める。

そういうのは「まなぶ=まねぶ=まねする」と合理的だ。

「自覚すれば努力できるもの」×「得意」で、領土拡大を狙いたいものだ。

俺は才能だけで押し切る傾向が強いが、そこに甘んじない?甘んじる?どっちなんだい!

甘んじそうw でも写真は好例か。料理の盛り付けはチャンスが無い。

 

料理の盛り付けは、色々なところからアイディアの断片を取って来られる。ただそういうのをメモるだけで嵩張るんだよね。「手軽で嵩張らねえ」道具というのも大事です。

「好きな絵」を絵と共に並べられたのはインスタストーリーの御蔭。

 

日本料理が「食べることを通じて地球の一部だと知る」ことを要とするなら、フランス料理は何だろうか? 

「自由平等博愛を打ち鳴らす」ことが本義であると言いたい。

素材達に「君達には無限の可能性がある」と鼓舞し、「理想に向かって羽ばたかせる」と言うかね。

そして世界は実現される。

 

料理された素材達は精一杯を尽くした。料理する側としては素材達に「俺は自分に出来る限りのことをやった。燃え尽きたぜ真っ白に。監督、ありがとよ」と言ってもらわねばならない。

 

集中。

避妊してS〇〇するのは性的快楽に集中したいからだろう。

「生命の繋がりを知るために避妊してはならない」と言う意見もあるが、それを差し置いて集中している。

生体膜。

のんべんだらりと存在していれば良いものを、わざわざ「個体(と思しきもの)」を形成するのは、「自分」に集中したいからだろう。「個性=輪郭」を誕生させてしまう。

「ぼやきゅっきゅ」の法則通り、東洋思想が軽々しく「繋がり」を言う時、一方で違和感を覚える。輪郭がかなり強いからだ。「輪郭を強めに設定してしまった」からこそ、エクスタシーを多く求める。「繋がっている」感を多めに出す奴は、実は予め「定義が固定的」だったりする。

「輪郭があいまい=油絵=漫画絵的線引きではないもの」が基本だからこそ、「我」を強め、その挙句に「燃え尽きたい=射精したい」と言う流れになるのかもしれない。

人間の本質が男女を越えて同じだとして、そこから肉体的に差が生まれた。ならば、それに応じた処方箋が出されるはずだ。私が女性に出される処方箋にピンと来ないのは、私が男だからだろう。

「集中して、他を忘れ、カタルシスを迎える」と言う作法。

「他はどうなんの?」と言うが「何かが突き抜ければ全てがOK」になるのだ。全てを片付けることは現実的にも出来ない。問題は無限だからだ。

「カタルシスが根本にあればこそ、集中が生まれる」と言いたい。

何を以て集中とするか?「全ての繋がりを以て」と言いたいのかも知れぬ。そんな人間が存在したか知れぬ。出来ればそれはそれで大したものだが、別に「そんなの必要ない」とも言える。

と言うのは子供が花を見て大騒ぎしている方が幸せだからである。

「そのくらいで満足するなんて小さい」と言うだろうか?

小さくて構わない。大喜びの連続で結構なことではないか。花を見て、虫を取って、空気を吸って、夕焼けを見る。歓喜の連続がそこにはある。

あるいは「感動する心を失うことが大きくなること」とでも言うのだろうか?落ち着き?

「一々感動の連続なんて面倒くせえな」と言うだろうか?

そこはニヒリズムがあるのだ。男は女に一々興奮するが、射〇すると賢者になる。そういうことだ。男たるもの「ニヒリズムで冷静さを担保」し、「子供のような興奮で喜びを得よ」と言いたい。

そのバランスの楽しさ麗しさ!

 

「弱い奴は舐めて良い」

ところが「社会は繋がっているので、弱い奴が強い奴と繋がっていた」り、「基準が多様なので弱いと思っていた奴が実は強い奴だった」りする。

すると舐めることが出来なくなる。

社会はそういうものなので、「育ちのいい女=社会の繋がりを間近で見て育った女」は誰も舐められないと本能的に知っている。一方、逆に「だから社会なんて嫌なのよ」ともなる。

女が王子様を好きなのは当然である。妊娠の原理を考えよ。

一匹だぜ?

あるいは妊娠したら1年近くかかるし、肉体的にヘビーなわけよ。

雑魚は全て排除せねばならない。 ところが雑魚を舐めたら王子にチクられて、王子に無視されるとなったらどうする?

「いや、王子は雑魚なんて足蹴にするから平気」と言うだろうか?

わからんw

何にせよ、基準を多様化し、特化型社会となれば、男には心地良く生きられる社会となるのは間違いない?いや、耐えられない男もいるだろうか。多いのかも知れない。

 

「西洋文明とは記録を更新する文明」であるから欧米人も疲れて来たのだ。なのでアジア化している。してるだろ?

日本としては西洋文明的原理を取り除き、ヨーロッパの文化だけを取り入れ、日本化していくのが狙いである。

「亭主元気で留守が良い」ならぬ「亭主死んで子供と私だけで良い」って。

だが男の人数は多く、もう大地から離れている。大地にいないのだ。GAFAとかゲームだってよ。清々しくて良いよな。

 

近代化とは「情報と交通が発達した時代」である。それまでなら縁もゆかりも無かった人と会ってしまう。知ってしまう時代である。地球規模で言うなら、人口の絶対数は近代以前もそれなりだったが、情報と交通の発達によって「人口密度」が上がった。「intense」なので、速度も混交も対立も多くなる。

 

ところでイギリスはヨーロッパ大陸ではないが、ヨーロッパであり、それは歴史を見れば明らかである。

西洋文明ではなく、欧州大陸文化を取り入れて、日本化すると言う場合、フランスですら無いことが多い。自由平等博愛も弱くなるし、特化型でないんだよね。

西洋文明の根本が男で、軍隊で、ゲルマン民族大移動で、大陸側に定住した奴等は文化したが、イギリスは「原ゲルマン民族」の特質を維持した度合が強いと言われている。(その分ケルトも濃厚だが)、塾でなく学校的だから「特化せずに、生まれや育ちを離れ自由になる」と言う面が低いのかもしれない。その分イギリスは階級社会でもあるが。

「歴史なんてどうでも良いから、お前の実力でこの指とまれ」
そもそもDNA的に見ると、色々なDNAがお前の中にある。
なのでDNAでは無いのだろうね。「向こう三軒両隣に合わせろ」ということだろう。DNAだと「人間主義(じんかん)」を離れて、天空にintegrateされているのと同様になってしまう。

「無限の可能性」を追求するより、「わかりやすく顕在しているものや周囲」に合わせろと言うことだろう。それでは「素材の表面や環境」から離れられない。錬金術や科学的抽出には至らない。

パリや京都で料理が発達したのは、そもそも碌な食材が手に入らないからで、栄あるローマ帝国からすれば、フランス料理など「カエルやカタツムリや泥を煮るような得体の知れぬもの」なのだ。得体の知れぬ奴等のポテンシャルを活かして、フランス料理は発展した。

 

西洋文明をもう一度やったら、またアメリカは出来るだろう。アメリカって変わり者が作った国で、西洋文明は変わり者が好きだからである。

 

現代人が陥りがちな悩みも、明治の人達の悩みが分かれば腑に落ちる。

森鴎外など当時の人達に共感するフリをして、実は全然分かっていないから、現代人の悩みにも共感できない。

 

IQが1兆あれば、1を聞き10を知るどころか、1000億ぐらいは知れるんじゃねえの?

そうなるとナメクジを見た途端に宇宙の成り立ちとかも分かっちゃう可能性がある。

しかしそこまで頭のいい赤ちゃんだと「俺、頭良すぎて周りをビビらせるから普通の振りしとくわ」となるかもしれない。

「キリストもそうだった」とトマスも言っている。

 

人間は死ぬとパソコンになる

 

臭味を与える→苦しむ

臭味を与える→喜ぶ

このように受け取り方は様々で、因果関係は一律ではない。

 

そう考えるとヒップホップってアホほど強いよな。

その強さを羅列するのさえめんどくせえ。

ぽっと出でも良いし、「そもそもぽっと出って何?」って突きつけられるし、でもやっぱりレジェンドに比べられて打ちのめされたり、「でもやっぱあいつはあいつで良いな」と言われたり、そこから這い上がったり、引退しかと思いきや復活したり、批判も賛同も含めてヒップホップであり、

「そんなのウジャウジャいるよ」と言われても、ウジャウジャいてめでてえし、数は力だし、非量産型を名乗る人間が出て来て、それを飲んでも、また飲まれたり、もう「現実は現実です」と言っているようなものであり、それがヒップホップ?

「決まったコースが本当に無い」という現実を突きつけてくれるのが本当に心地良いんだよね。証拠しかねえよ。

 

誰にでも「過ち」はあり、常識による「甘え」は許されない。

なので平等に罰せられる。色々な価値基準がある以上、平等に罰せられる。

「空気を吸うことを最悪と考える基準」も考えられ(ヴィーガンの方が現実的か?)、そいつ等からしたら人間など悪の権化なのである。

罪悪塗れなのだが、自分なりに頑張って生きていくのが美しい姿勢。

 

インド人は頭が良いのに何故発明が少ないか?

曼荼羅や人体や脳ミソの全体図のように「磨き抜かれた全体像」のようなものが念頭にあり過ぎ、「発明」など「思い付きのただの暴れ」に見えるのかも知れない。

アメリカは「可能性を追求する国」だが、単に「可能性を思っているだけ」では足りず、それを顕現させたい気持ちが強い。そう言う奴等が集まって来る。

曼荼羅的世界観は「全体が見えている」のに対して、そもそも西洋世界では「全体など人間に見えるはずがない」のだ。「何がどうなるかなんて分からない」から、思う存分暴れられる。

全体が見えていると言うなら「そこをこうすればこうなるから、そんなことしちゃダメだよ」と言うブレーキ・乗り気の無さが強まるが、「何がどうなるかなんて分からない」なら、「暴れ=バランス崩し=行動」への遠慮が無くなる。

確かに何だかんだで「全体像が見えているっぽい」ものはあり、「人間の健康状態」などがそれである。アメリカの外科医は全員インド人(?)なのは、そのためである。インド人には「ホーリズム感覚」と言うべきものが強くあるのではないか?「全体像」を前提に「不健康」を直す。「磨き抜かれた全体像=人体など」が頭に入っているのが凄すぎる。

ところがインド人と言うのはアメリカ女に人気が無い。犯罪者の方が人気がある(ラッパーなど)。

「医者には生産性が無い」と言う意見もある。生産性とは永遠の謎だが、少なくとも「走る」ことはバランスを崩すことであり、一度走り始めれば、その崩れに応じて動き続けねば走り続けることは出来ない。座る奴より走る奴が好き。

「全体があります」と何もせずにいるのなら、それは植物人間であり、全人類総座禅である。私はそんな世界線も実は好きなのだが、確かに退屈でもある。女は男に退屈から脱出させてほしいので(安定も求めるがアメリカ女は退屈からの脱出を多く望む)、植物人間より、「やらかし系」を好むのである。

座り続け、現状を維持するだけなら、植物に勝るものはない。欧米はアホだから常にやらかし続けるが、それによって欧米にはなっている。

そう考えると、確かに「アメリカの医者は全員インド人(?)なのに、彼氏にしたくない男NO1人種」なのも頷ける?

 

「犬のイデア=犬ってどんなの?」

「脚4本あるやつ」

「じゃあ3本だったら犬じゃないの?」

「犬か」

と言う問題があって、他にも「顔が半分溶けてるゾンビ犬は犬じゃないの?」など色々難癖はつけられる。

事程左様にイデアは決め付けられない。「イデアは究極的にはエックス」なのだ。

ただあるゲームの中で「犬とはこういう特徴を持っているもの」とプログラムすることはできる。

 

神はプログラマーで全知全能である。そのゲームを作った人でもある。

「人間本性」とはプログラマーによって定義された人間キャラに共通するプログラムである。

ある人間キャラをプログラマーが主人公としてプレイし始めた。

これがイエスキリストである。

本性としてはプログラマーと人間は別だが、そのキャラに於いてプログラマーとその人間キャラは「合一」している。

 

「救い」は「救い」であり、変に解釈せず、究極的にはそのままで良い。それだからこそ色々な解釈を許す余地も出てくる。

私の場合「ニヒリズムからの生還」と解釈することが多い。

ところで神は人間に救いを齎すために、イエスを派遣せねばならなかったか?
「その必要は無かった」と神学大全では答えられる。神は全知全能であるが故なり。
だが「イエスに救済させることが、より相応しかった」ということ。

同じ人間だし、同じ人間として苦しんでいるし、俺にも出来るんだと思わせてくれるし、親近感も湧きやすい。

神の場合「出来てもそりゃ神だし、苦しみも無いし、遠すぎて共感できない」とかあるんじゃないの?

でも「必要は無かった」と答えているのが凄いよね。

ただイエスキリストは子供のような面もあり、それが神なのだ。
これが西洋文明のミソである。
大人っぽく振舞ったところで、結局子供であり、正解なんて誰にも分からない。イエスはそのことを突きつけてくれる存在でもある。実際に赤ちゃんでもあるしな。
「それ忘れなんな」と言う戒めでもあろうか。
 

男でないから記録の更新のためにあらゆるものを利用しようと言う根性が低い。

男でないから生活全体を意識して、一点集中でない。

男でないからクラウドを念頭に置かない。数や技術でどうにかなると言う意識が低い。

男でないから現状を受け入れる傾向が強い。理想=遠いもの=冒険好きでない。

男でないから人目を気にして周りに合わせてしまう。

男でないから自分で定義しない。

「相対性、ユーモアセンス、なりふり構わず、数・技術・可能性感覚」が無い。

「現状肯定主義、向こう三軒両隣、仲間以外は皆風景、責任を取りたくない」的感覚。

即ち両津勘吉的でないから、付き合いにくい。

 

コナミのシューティングと言うより、シューティングゲームで一番好きなのは「パロディウス」で、そもそもパロディが好きだった。楽しいから。

それだけではなくパロディとは「ある特徴で塗り固める傾向」が感じられる。

「青が綺麗に見える絵」と「青い絵」の対比。 私は青い絵に惹かれる傾向があった。

 

京極さんを感動させた四万十川の鮎に、京極さんの記憶が詰まっているか。

実際には京極さんの思い出を四万十川の鮎が触発したわけだが、京極さんではない私が四万十川の鮎を食べて、京極さんの記憶を味わうことができるか。

それは摩訶不思議だが「ワンチャンあり得る」くらいに思っている。あっても良い。

鮎の味をよくよく解析すると、京極さんが見えてくる。実際に「万物には全ての記憶が詰まっている」と言う噂もあり、アカシックレコードが刻まれている。その中に京極さんもいる。

記憶を植え付けるカプセルというのを作ることができるか?

これが作れれば京極さんになれるということだね。

料理への応用も考えられる。

どのような味と記憶を植え付けるか。

「フォアグラと深海ダイヴの思い出(?)」を合体させるとか。

「このフォアグラは深海2000マイルで得体の知れぬ生物に出会った時の味や!とんでもないものを食わせてくれたわ!」と泣かせる。

 

「それが君の個性だね!」と言われて励まされる。

「お前ってそう言う奴だよ」と言われて、「決めつけんなよ」と思ってしまう。

自分なんて分からないものだが、何にせよ「根底には伸び伸びと活き活きと幸せでいて欲しい」と言う愛を期待する。

 

・「親と子は似ている」と言うが、親に似ている子以外の人間はいる。

・「由緒正しい」と言うが、何を以て正しいと言うかは千差万別である。

・DNAは複雑すぎて色々な遺伝子が交じり合っている。この広い世界のどれと合体して、何が発現するかは分からない。

・世界は広いので影響を与えるものも数えきれない。

・過去を振り返り、各時代の支持があったものはとりあえず安パイではある。 ただ近代以前の組み合わせは数に限りがあるので、逆に信頼性に乏しい。近代以降の発展は凄まじい。夥しい。近代とは情報と交通が発達した時代であり、その影響があるからだ。近代以前の方が良いと思えるものも多いが、近代以降の方が良いと思えるものも多過ぎる。

 

女は生き物が好きなので、死んだものに興味を示さない。

女は左脳が活発なので、伝統は形骸化する。

女は周りに合わせるので、遠いものに合わせない。

(組み合わせをズラしても良い)

三島由紀夫が「女の特徴は直接経験したもの以外信じないこと」と言っていたが、まさにそうなると100年前のものは「もう生きてはいない」ので、60年前程度が限界になる。それ以前のものは死んだものとして「物質化・文字化」している。

男の特徴は「遠い憧れ」で、「1000年前のテキストにも生命を吹き込む」。即ち「復活」である。西洋文明の特徴は「復活」にある。イエスキリストも復活した。一度なくなったものに命を吹き込む。生命体としてこの現実に蘇る。

 

日本は歴史伝統と言うより「向こう三軒両隣」的民族で、要は「世間様」である。想像力に肉感がなく「今ここに無いもの=感動を与えてくれないもの=忌まわしいもの=死者」という感覚が強くなる。

一方子宮主義で、有職故実的に、形骸化したものを身を挺して受け継ぐ変わり者が少しいる。

芸術を見れば明らかで、日本にクラシック音楽は無く(?)、伝統と言っている奴等も60年前程度が限度である。1世代30年だから「0歳、30歳、60歳」で丁度3世代だね。

「女の経験主義は、生の熱いチ〇〇で私の子〇を突いてくれた人は、存在として認める」が、それ以外は存在しないのだ。

と言うことで「生き物3世代主義+形骸化されたお土産物の伝統工芸」が日本の特徴というお話でした?

でもこれはかなり本気で言っており、伝統伝統言うなら、1000年前のものに現実的肉感を感じなきゃダメだろ?イマジネーションが淡白すぎるわw

「五感的触知を経由せず、頭で考えることに肉感を覚える(粘土を触っていないのに粘土的感触を覚える)」

「遠い憧れを実現したい」

「一点特化主義(24時間365日平均主義だと、どうしても形骸化する)」

これらが男の特徴だが、これらが無いと、どうしても向こう三軒両隣になると思うんだよな。

 

日本の強さ。 

完成度が高くその完成度に寄与するものを本来自由に連想できる(ガールズトーク的繋がり)

神代的感覚(マンガアニメなど例に事欠かない)

意味に囚われずモダン

ワビサビ

連綿

造形力(オノマトペ、マンガアニメ、運中供養菩薩)

天皇的な血統

受胎する(マニアック、オタク、その定義の組み合わせ徹底探求⇔定義替えに弱い)

「茶室のコギャル。掛け軸は宇宙で、そこから天の川が部屋に流れ込んでくる」

 

日本の弱さ

神経質、不安症臆病、フィードバック苦手、向こう三軒両隣、自閉症、鬱、

適所最適化で目的を忘れる、形而上的なものに肉感が湧かない、

キリスト教は神の国が本拠地(現実をゲーム的に眺められる)、

ユーモアセンスは非常に高いとも低いとも言える

細かい所に気付くからサムライもウォシュレットも生まれる

 

これを踏まえた上で、私がロシア好きなのは、

「倉庫がありゃ、後は俺がやります」と言う感覚が強いからだ。

ロシアって「捨てられない、ゴミカスチリ=雪のように全ては美しいからの逆上」⇒ネット

無論、参考になる人や物、授業は欲しいが、それはまさに「古典」だろう。

日本人は「反古典主義」で「所詮60年前まで感が強い」のと「フィードバックが弱い」のが嫌。

左脳が強過ぎて文字文字して輪郭がダセえ。

「向こう三軒両隣で数や技術を前提にif,then思考が出来ない=近代的でない」

即ち女っぽくて気持ち悪い。

 

ウディ・アレンが「アメリカでは誰もがヒーローになれるんだ。とても良いことだと思うよ」と言っていたが、俺も本当にそう思う。

古代ギリシャでは「東方は独裁者の支配する非民主的地域」と思われていた。当たっているだろう。橋本治も「アジアは抜け駆けを許さないが、一回抜け出ると現人神信仰される」と言っていた。イスラム教も東方教会系もアジアも、それを否定できるだろうか?

アタナシウス派が西方教会の正統である。アタナシウス派は「御子であるイエスの神格を下げないと同時に真の人間である」と強く説いている。一見「現人神信仰するかのようなアタナシウス派」が広まった地域、西ヨーロッパ及びアメリカで、現人神信仰を否定する向きが強いことが興味深い。

そして私の本願もそこにある。「人間すげえ!皆すげえ!」とヒーローを乱造することによって、ヒーローの価値を下落させる。いや「皆すごい」って言いたいだけなんですけどね。

でも皆すごいから、引き分けになって、真の神だけが突出する。そして人間と来たら「お互い様でユーモアセンスを持ちましょう。互いを褒め称え合いましょう」と持って行きたいわけだ。

「ヒーローなんて作らない。人を気軽に褒めない」なんて、しみったれたことを言っていると、みんな暗い顔付きになり、相互監視社会になっていく。「ヒーローなんてゴロゴロいる。ゴロゴロいてめでてえな!」と明るい社会を目指したいものです。

ヒーロー許さず社会では、抜け切った奴を現人神信仰し始める。神は言った「私以外を決して崇めるな」。神の教えに背いているんですね。

 

人間は神の真似をしたくなる。

だったら思い切って真似させてみる。

皆に真似させて気持ち良くなってもらうと同時に、やっぱり神には程遠いと実感してもらう。

隣を見ればアホがアホ面さげて「吾輩が神なり」と言っている。

「面白いんだけどやっぱり神じゃねえなw」と思ってもらえれば、狙い通りだ。

 

ヤハウェの真似をする奴は少ない→参加人数少ない

宗教家の真似をする奴は多い→参加人数多い

「ヤハウェは神だ。ヤハウェにはなれねえな。俺は神じゃない」

「キリストは神だ。キリストならなれるかも。じゃあ俺も神だ」

 

キリストを重要視する地域では「俺にも出来るかも」と思う奴等が増え、偽キリストを名乗り、それを崇める奴等も出てくるが、偽キリストが多くなり過ぎるため、馬鹿々々しくなり、結局廃れていく。one of 変人組合になっていく。

実際にカルトが多いのは、西ヨーロッパ及びアメリカなのだ。でも陽気で、気軽に人を褒める文化が育ったのもその地域である(?)。

現人神信仰をするなと言っておきながら、現人神信仰を煽り、結果的に皆ヒーローに持って行き、皆違って皆良いけど、「やっぱ俺達はアホだなw」と、改めて神の偉大さに気付かせる。

 

偉大そうに見える人間が偉大なのではない。ミカンの早剥きNO1だって、金魚すくいNO1だって、その偉大さに於いて誰にも負けない。私はここで転んだが、ここで転ぶことにかけてはNO1であり、そのアホな一歩は誰にも真似できない。別にNO1じゃなくても良いんですけどねw

 

保守主義は「時間軸を大切にする」と言っても、「何をどう大切にするかに国柄が出る」と言うか。

日本の場合はいつも私が言っているように形骸化しやすいが、卵子主義で品目は確保される。神仏混交と言っても完全に混ざるわけでは無く(混ざりもするが)「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化されたソレが林立している」ような状況になる。

福田恆存も「日本の歴史を見れば、能にしても歌舞伎にしても浮世絵にしても、結晶体のように各時代で完成されている」と言っている。もうアレンジしようがないのだ。もちろんそれらを学び、何をどう受け取ろうが各人の自由であるが、それ自体としてはもう完成されている。

そこから方法論を抽出して、色々なものに使えるかどうか。

短歌や俳句ならいける。西洋ならクラシックや料理は分かりやすい。

即ち伝統とか歴史と言った時、ヨーロッパのクラシック音楽的な伝統と違い、生々しくないのだ。

「お土産物の伝統工芸をなぞっているだけ」となる。

・「言霊の幸う国」で「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化」されて伝統になる。

・文字化される≒容量を食わないが、妊婦的24時間365日主義なのでやっぱり身重になる。男のようにやる時だけやってさようならとはならない。

・子宮的受胎主義で、これはこれで正しい。ヒステリズム。八百万で目出度いが。

 

子供は美味しい水を当たり前のように飲んで、後で不味い水を飲んで、当たり前のように飲んでいたあの水は美味しかったんだと気付く。

日本人なら日本語をペラペラ喋るが、外国に行くとそれが当然でないことに気付くことに似ている?似ていない?w

 

冷凍で丸のまま保存。死んでいるから生き返らせる必要がある。本当に死んでいるのかと言う問題。

常温で加工して保存。生きているがテコでも動かない。本当に生きているのかと言う問題。

 

【東洋的な倫理は、「そうせねばならない」ではなく、「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」という形を取る。 逆に言えば「そうできない」なら「まだわかっていない」ということである】

「なんと非倫理的な態度だろう」と思ってしまう。倫理とは「思慮性≒可能性を考慮し続けること」だからである。「無意識に染みついてこそ常識」じゃないけれど、「自然に手を差し伸べてこそ倫理」と言うのは理解できるが、一方で「手を差し伸べることは本当に良いことだろうか?」と思慮し続ける姿勢は「色々な人や意見を思い遣る姿勢」であり、「自分が間違っているかも知れないなと反省する姿勢」でもあり、それをこそ「良心=自覚⇒ユーモア」と言いたい。

即ち東洋的倫理とは「これ以外ない=絶対主義=子宮主義」という形を取る。「私は私で正しい」と叫ぶ。なるほど、ごもっとも。あなたはあなたで正しい。だが他の正しさもある。

結果的に「自閉している状態=自分」を正しいとするのではなく、「相対性を考慮している状態=神」を正しいとする姿勢こそ倫理的なのだ。

 

小学生中学生の頃は女の方が大人っぽいが、高校生以上になると男の方が大人っぽい。

東洋文明の要諦は「高校生以上にならないこと=男を高校生以上にさせないこと」にある。

「ある特定の価値観を見事に受胎する」ことは女の方が得意だが、単純に言ってそれだとユーモアに欠ける。欠けるだろ?

ある価値観からすると悪とされるものが時間的経過で善になったり、その逆もある。「何がどう影響するのか知れたものでは無い」と言う複雑怪奇な国際情勢を「真」と認め、「それが人生だよね。ははは」と言う余裕とユーモアこそ男の取るべき倫理的態度である。

 

マンガ絵的軽さにすることでアニメーションすることが出来る。油絵を動かすのは大変だし、理想的でもないだろう。

さらに品数も確保できる。王侯貴族でもないのに色々と美味しいものが食べられるのは、研究心だけでなく、マンガ絵的品数確保精神が基となっていることだろう。

「そのお陰でお前なんぞも色々食べられて有難いと思え」と言われれば、その通りなのだが、そっちに対する有難がりを、俺は本当に多く持っているのか甚だ疑問なのである。

本居宣長も言っているように「社会資本の安定は有難い」のだが、品数を多く求める方では無いからだ。間接的な好影響はあるだろうし、それこそ複雑怪奇な国際情勢で、でも悪影響や、やっぱり文化的傾向ってのもありますからね。

要は近代的大衆国家がもたらす好影響は、私からすると「社会資本の安定」と「そこそこの平等」で、後は「引き籠っていたい⇔色々動かなくて良い」と言う感じなのだ。「これだけ品数を用意してやって、多品目を楽しめて有難いと思え」と言われても、「そこは直接的な感謝とは違うんですよね」となる。

 

・ネットよりTVの方が良いと言うバカはいない。

・恐竜よりワニの方がデカいと言うのは客観的に間違っている。

・「先輩を大切にしろ」と言うならギリシャ彫刻を崇めろ。

・ホシュだのウヨクだの言っている奴等は「サヨクなき戦後日本」を求めているに過ぎない。

 

「祝いの席で不吉なことを言うな」と言うが、この世のどこかでいつも祝いの席は開かれており、凶事に触れたが最後、吉事の人には恨まれる。

SNSよろしく近代とは情報と交通が発達した時代なので、吉事と凶事が同時進行であることが如実になる。

逆も然りで、葬式の隣で結婚式を開いている。

「それなりに見計らってお願いします」と言ったところでしょうか。

 

「日本は死者と生者を峻別する。その割にはお前は死臭がする」と言う意見。陰陽師。日本にも生死のはざまを生きて来た人達がいるのですよ。死の香りを芬々と香らせるような。

でも伝統と言っておきながら、その辺本当に60年主義であるところに日本の安っぽさが見て取れますな。

 

サービス業の愛想

「そこは幾らでも言い訳できるんだけど、結局そこでしかねえから」

 

皆がやっているから正しいのではなく、神に誓って、それが正しいかどうか。

人間主義(じんかん)ではなく、神人主義(しんじん)。

結局「ワタシキレイ」と「原罪」ほど対立する価値観は無い。

 

私が「ワタシキレイ」を根底から嫌う限り、私が東洋と相容れることはない。何という違いだろうといつも思う。

女が「危機」を嫌うのは、

「異物が体内に入ることに対する嫌悪感」と

「嫌なものをイメージする時の生々しさ(脳梁を渡らない時)」が原因だろうと思う。

 

しかし近代に入ると「多様性が如実になる」ため、ワタシキレイを相対化する情報に触れ過ぎる。結果的に引き籠るしかないのである。女は引き籠りである。

 

女は大人っぽいが、男の大人っぽさとは

善悪の相対性

空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。

時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。

即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。

それは「数」です。

 

「フィードバック能力の違い」です。
女は子宮主義で、一度受精したら、その精子を徹底的に展開することに命を懸ける。「途中で他の精子にします」と言う卵子は無い。
男の場合、色々なものからフィードバックを受けて、軌道修正する。それが浮薄にもなり、柔軟な姿勢にもなる。

 

「俺はヒーローだ」と。それに対して「お前のどこがヒーローじゃ!」と。

いや、良いんですよ。殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着くのが人の世ってもんですから。

それはそうとして、根本的には「やっぱ皆ヒーローだよな」と言う反省の心が優しい。それが欲しい。

例えば精神障害者が「僕だってヒーローだ!」と言って、どうやってバカにするのだろうか?その「馬鹿にし」の醜さよ。「本当にその通りだ。俺もヒーローになれるように頑張るよ」と言った方が余程清々しいではないか。

IQ1兆の人間からすれば、人は皆精神障害者に過ぎない。

 

現実はカオスである。

それを心得るのがリアリストである。

「リアリストを騙し切れる」と思って、にやついた瞬間、

リアリストは「こいつリアリストでないな。だったら殺しても死んだと思うなよ。客観的認識が出来ないのだからな」と思うもので、

それがアングロサクソンである。

近代とはアングロサクソン的時代であり「現実は現実である」と言っているに過ぎない。それを認められねえ奴等が鬼畜米英と騒いできたのだが、現実は現実である。

アメリカも相対的に萎んできたが、未だに大国であり、「鬼畜」的要素は魂として常に宿主を探し続け、受胎される。

リアルを突きつけると、チッと舌打ちする輩もいるが、「おいおい。妄想の中を生きていたのかい?目を覚めしてやったのだから感謝しなきゃダメだろう」と言いたい。

そしてチッなんてやった日には、そこでリアリストは冷酷さを発揮して、お前の醜さ諸共お前を滅ぼすかも知れないんだぜ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

神は「全有」でもあるから全ての善悪を抱えている(神からすれば悪ではないが)。ところで一人一人は自分の奉ずる価値観を持っており、その善に従って(いるつもりで)生きていたりする。

「他の人から見れば私も悪ですよね」と言っておきながら、自己完結的な傾向が強い(プロテスタント的な自閉主義=福田恆存はプロテスタントの悪い所は「自分が神様になってしまうところ」と言っていた)。要は「他の価値観を認める力が強くても、他の価値観が自分に流入する度合が弱い=他者と血管が繋がっていない」。世界がカオスであることを認めはするが、「自分がカオスである」ことを実感する度合が実は弱いのだ。やはりこの点島国であり日本と似ている。「世界全体として色々な価値観があり、他から見れば私も悪である」と言うことは認めるが、「自分も自分以外である=自分の中に悪がある」と実感する度合が弱い。

 

万物が神を分有するとして、神の中に無限の価値観があるなら、一人一人の中に「悪も確実にある」はずなのだが、「私はパーツ。全体として色々な価値観があるのは分かるよ」という傾向が強い。これに対して「一人一人の中に善も悪もある。自分が嫌うものも自分に内在してしまっている」という意識が低いと言うことだ。

 

プルーストの『失われた時を求めて』の要約として紅茶を飲んで終わると言うイギリスの喜劇があった。他にも英語圏の他者に対する扱いは「ぞんざい、丁寧でない、粗雑」であることが多い。「存在することは認めるけど、はいはいそうなんだね」程度の認識で切って捨ててしまう。

 

お前の価値観に対する物凄い批判があったとして、それを真面目に聞かず、適当にいなすことによって、「わかったわかったと認める」ことはあっても、「真に受けることはない=血管を繋げてしまうことはない」。

 

逆にその適当さ、軽さがあればこそ「そう言う意見もあるにはあるんでしょ」と認めることには繋がる。それがユーモアにもなる。「実は自閉的。本当は真に受けていない。ささっと離れていく姿勢」がユーモアを保証している(日本も島国で他者と距離があればこそ「他者を尊重する心が育まれた」とも言われる。それと似ている)。真に受けてしまうと、適当に流せず「なんだこの野郎!」と喧嘩になってしまう。結果的に傷を受け、他者性を余計に認めることになるか、逆に「そんなものは俺の中には無い」と潔癖になる可能性もある(潔癖や過敏というのは「他者を真に受ける」ことから来ているはずだ)。

 

ただ他者を軽く扱えると「一人一人がある意味伸び伸びと私は私と自閉できる=真に受けてガチで潰し合うことから免れる」ので、結果的に多様性が生まれる傾向もあるかも知れない。

圧倒的な多様性が生まれてしまえば、「自閉的で他者を軽く扱う」と言っても、さすがに繋がりを意識してしまう局面も多くなる。島国的自閉が一皮むける瞬間だろうか。

 

「日本は島国で侵略を受けなかった」「他者に対してあまり介入せず一人一人が自閉的」だからこそ、他者をリスペクトする姿勢が育まれたと言う意見もある。

これが常に間近にあると軋轢も生まれやすく、アレルギー(蓄積量で問題化する)を発症して、他者に過敏になる。

 

アンドレ・ジッドが「我々フランス人は悲しい人種だ。美しいビーチでバカンスを楽しんでいても、どこか思い悩んでいる」と言っていた。

「他者性の流入、自分に内在する悪の実感」が強いわけだ。

逆にそこまで他者を流入させた上で、ユーモアを発揮する時、本当に深い優しさと笑顔が生まれる。

その具体例はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真、油絵の明るいやつ(深刻なものも好きだけど、ここではユーモアとか笑顔なので明るいということで。マティスでもモネでもピカソでもシャガールでも良いけど)。

ブレッソンの写真は決定的瞬間と言うより「相対的瞬間」である。「砂浜でズキューンキスしている二人」をクローズアップで撮るのではなく、その他の平和な風景、笑っている人々も同時に写っているが、とても優しい。

 

アンドレ・ジッドだと思うんですけど、「イギリス人って言うのはブラックユーモアとか善悪の相対性を言いながらも、心の底では、自分なりの正義を自然に信じている明るい奴等だ」

「それに対して、我々フランス人っていうのは独善的だの押し付けがましいだの言われながら、美しい海辺の観光地で素晴らしい一日を過ごしていても、心の底で、喜び切ることができない悲しい人種だ」っていう風に言ってたんですよ。 これがフランスかなって言う。絶えず「他者」を抱えている。

 

【形而上的社会性】≒観念論
メリット:絶えず自分も間違いにされされる。大陸なりに「他者」を意識する。
デメリット:押し付けがましい。結果的に独善的。
【形而下的個人性】≒経験論
メリット:控え目。私は私、君は君。島国なりに「他者」を意識する。
デメリット:自閉的。本質的に独善的。

・イギリスは島国で、アングロサクソンは本質的に近代的性質を持っている。
・「善悪は相対的である」ということを本能的に知っている民族だ。
・しかし、大陸もやがて近代を迎え、真善美が相対化される。

・真善美の数が「個人の数」とイコールになった場合、違いはあるか。
・その真善美が「形而上的か、形而下的か」という違いがあり、
 本質的には、上に書いた傾向が表れる。

・男性的島国は「自分と異なる価値観を持っている人間がいる」と知っているが、
 自らの「本質」に「間違い」が入ってくることはない(まあ、一つのレトリックだけど)。
・大陸には男性的島国のようなユーモアセンスはないが、
 自らの「本質」に「間違い」が入っている。

・ユーモアセンスを持ちながら、本質に「他者」が入っているのが良いね。
・男だね。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

感想の羅列というのは非常に強く、具体例や学問的根拠や歴史的変遷などは、感想を羅列した後にAIにでも調べるなり作ってもらうなりすれば良い。

そのAIの結果を参考にすれば、今度は予めそれらを土台として使用できる。

自分の感想の土台をかき集めるにしても、感想を羅列することは有意義である。

それに対して、結果として賢くなろうが何だろうが、まず何よりも「遠慮会釈なく感想を羅列するような心性が嫌なのだ」という意見。

まあ好みですが、それを言い出したら、現実の否定になりますよね。現実は「適当な発生→理屈付け→再現」に支えられている面も非常に大きいですから。

文化とは溝に嵌めることでもあり、「事前の教養」を奨励するものであって、それを持たぬ者から偶然に生み出されるものを忌避する姿勢でもあろうけれど。

「感想の羅列から始まり理論武装もし再現されたもの」が現れた時点で反対票を投じるだけでなく、感想を羅列している時点で「それやめろ」と圧力を掛けるものこそ文化とも言える。

既定からの逸脱や偶然性に対する拒否感が強いのだ。

 

男対女

カトリック対プロテスタント

右脳対左脳

超越対内在

 

アメリカの保守党と民主党で、 保守党が英国的で、民主党が大陸的というのは単純化し過ぎている。

 

英語圏はウィリアム1世的な存在を取り入りて一皮剥けるが、古女房はそれに抵抗する。

 

日本と言うとワビサビを思う人も多いが、神話もドラゴンボールも日本であり、戦国時代もそうである。そしてそこには日本がある。「金バック=中国」くらいの認識しかない外国人もいるが、全然違うw 人間一人一人の顔つきを見て、日中韓の区別をつけることは日中韓人にとっても難しいが。

現実を飛び越えた動きとかドラゴンボールとか、ああいうのって中国には無いしな。中国も韓国も、日本と違って、人間と他の存在が同レベルで「意匠化」されているわけでもない。

言語には概念的な側面とイメージ的な側面があり、前者は極端に言うと数学である。後者はボヤっとしたイメージで良い。さらに日本文化は「本質=それが無いとそれで無くなるもの」以外の要素を削ぎ落す傾向があるから、渋好みには評判がいい。

ところが日本のイメージの連想は縦横無尽である。どこの国でも「ガールズトークは話が飛ぶ」と言われる。しかも日本人は色々なものを造形化する力も強い。要は渋好みからすれば「話は飛ぶは、変な形が出て来るわ」で耐えられないのだ。 さらに、ここに「油絵的輪郭線の無さ」を加えるともう大変だ。

話が飛ぶ(ガールズトーク)

変な形(運中供養菩薩、オノマトペ、深海生物)

輪郭線が無い(油絵)

もうここで渋好みは拒絶反応も良いところである。

さらに「シニフィアンシニフィエの無限」 原始人100人に聞きました。「花を何と呼ぶ」 粘土をどこで切ってどう名付ける?

【話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限】

孔子の正言の真逆(?)であり、苦手な人は極めて苦手だろう。だがイメージ、イマジネーションと言うのはそのくらい不定形で流動的である。

「日本好きだがワビサビだけの渋好み」と言う人はそっち系を根源的に嫌う。

「話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限」なんて「非現実的だ」と言うだろうか?ところがイメージなんてそんなもんだろう?そうだろ?

そして人間にはイマジネーションがあるのだ。嫌だろうか?仕方ないね。それを嫌がるなら人間の脳にメスを入れるしかない。

 

ちなみに日本は女だから、「話が飛ぶと変な形」は常とするが、「輪郭線が無いとシニフィアンシニフィエ無限」は受け入れがたい。逆に前者を縦横無尽に炸裂させるために、後者を拒絶する本能があるとも見える。

日本語や英語など島国言語の強い傾向は「レディメイド・シニフィアンシニフィエの画一性」である。例えば抽象画が無い。チェスタトンも「花を描くなら花を描くべきである」と意味不明(?)なことを言っていた。

仏教でも「原理も輪郭も名付けも受け取りも」決まっていないとよく言うだろ?

ちなみに仏教徒がそのことを鬼の首を取ったように言うのは「島国的・女性的な一度受胎したらテコでも動かない性質」があるからだと思う。それは仏教徒が馬鹿にする「西洋の画一性」と、俺からすれば似ている。 どちらも世界が「カオス=原理も輪郭も名付けも受け取りも無限」であることを忘れがちなのである。

私から言わせれば、「仏教=東洋に広まった」は空を説くが、「あんまり空っぽくない」のである。いや「空を常に意識しよう」と言う姿勢は強く感じる。だが元が「空でない=ヒステリー=定義が画一的」だからこそ、逆に「そこ強く意識して少しは楽になろうぜ!」と言う塩梅である。

仏教と言うのは「我に執着する人への処方箋」と宮崎哲弥氏も以前に言っていたような(勘違いなら申し訳ないが)。俺もそう思う。

それは「硬くなってしまった子宮へのマッサージ」のようなものだ。だが俺には元から子宮が無いのだ。男だからである。

 

仏教はナルシストへの処方箋

キリスト教はニヒリストへの処方箋

 

子宮型「時代の空気を総合的に吸って膨らむ」

陰茎型「ある観点から時代を越えて貫く」

子宮型は時代を越えないが丸のまま保存される。無論、丸のままと言っても言語化・左脳化はされる。「型の伝承」と言うが、それほど生ではない。

 

チェスタトンが言っている通り「ルネサンスとはキリスト教的運動」であり、一度なくなったものを復活させている。復活がミソで「こんなことをするのはキリスト教だけ」なのだ。

ずっと続いているのではなく、なくなったものを再現する運動である(本当に無くなっていた対象かは個別に議論がある)。

一度なくなったものを復活させるのは大変である。当時は当然に流布していたものも現代ではそうではなかったりする。それを強引に現代に再現するのは大変で、その大変さが男を育む。「遠い理想を実現する」ことと似ている。

韓国は「発祥地」を嘯き、中国人から「宇宙の発祥も韓国だ」と揶揄されるが「ルネサンス多めで頑張っています」と誇った方が良い。朝鮮半島文明の魅力は「東洋と言う女性的な世界の中で、男を貫いてきた」ことである。それが栄光と汚辱を生む。その喜怒哀楽が良い。

 

「イスラム教=原理主義=ある時代を聖代としてその時代のままを理想とする」。故に「お前はイスラム教徒だ」と言われたことがある。別に何教徒でも良く(良くはないのだが)、俺如きを原理主義と言うのは原理主義者に申し訳が無い。

俺は陰茎主義であり、古典主義であり、クラウド主義である。

即ちそれがキリスト教なのだが、イスラム教にも見習うべき点は多々あるので、参考にしたい。

ところで、俺如きを「原理主義」と言ってしまうところに、日本の「反陰茎主義、反古典主義、反クラウド主義」が現れている。

クラウド主義は原理主義ではない。だがクラウド主義は「日本主義=60年伝統+形骸化したその他=子宮的三世一身」でも決してない。

イスラム教に悪のレッテルを貼り、その悪のレッテルを「クラウド、古典、陰茎、キリスト教」にまで及ぼすところに日本の「エセ伝統」の病理がある。

 

「産んだら産みっぱなし」と言うが、逆に産みっぱなしで良い。

まとめて100万単位でかき集めて、そいつらに圧倒的な教育を施す。

孤児院育ちこそメジャーにしてしまえば良い。そうでない人間とどっちが偉いか競争だ。

変に礼儀正しくて、それはそれで人間味がないって?わかりますがそれも味ですよね

 

善は誰が決めるか。(国家、集団、個人etc)

善は固定的か。

誰を優先するか。(国家、集団、個人etc)

平等か(完璧平等、先輩後輩、一部だけ差別)

教会が善悪の基準を決める、伝統を参考(強弱)、参考にしない(あり得るか分からんがw)

全体で色々か、個人の中に色々か

 

ピューリタンにも派閥があって、発生当初から「我が派閥の善を叫び、部族間闘争が多かった」らしい。

潔癖に自分の善を貫き、自分の中を穿り返す。そして必ず悪は見付かる。個人の中に無限の価値観が分有されているからだ。

そう考えると、ピューリタンは「自己の中のカオス発見癖が抜けないワタシキレイ集団」とも言える。

 

アメリカが「自らの尻尾を追い続ける犬」のように駆け回り、その力が世界に影響を及ぼす。以前にも言ったが、アメリカは色々な派閥があり過ぎて、結果(俺が言う所の)カトリック的になっている。

最近では「潔癖的多様性が育まれる結果、多様になり、カオス化して、他者性を自分の内に感じ取る」というやつだ。

 

主→種→「州→集→衆」→個人=故人

「」内が重要で、「神・国民・個人」は忌み嫌われる。

日本人のグループ主義である。

「向こう三軒両隣」を出ない。

グローバルに考えると、抽象的思考・if then思考が当然となるが、これが出来ない。

 

アメリカでは「お前ホモか?」とすぐに詰問されるし、「全く自由でない」と言うことだが、良い点としてはそこまで男らしさを求めるなら、きっと卑怯者も嫌われるだろうと言うことである。女性的な卑怯さへの圧力が強いので、ジャンプ魂が幅を利かせることができるめでたさよ。

 

宗教の儀式と同じで、信者に同じことを言うことで「再確認・強め」の効果はある。ただ確かに広がりが無い。信者に街宣してどうすんだと。

それはそれとして、自分の考えを整理する効果と言うのは多大であり、確固たる自分を作ると、それが土台になり落ち着きと余裕が生まれる。

 

具体例や証拠を付けた方が説得的であることも多々あろうが、この世界の多くの言動は感想を垂れ流しているだけである。「全ての発言-具体例証拠付属発現=滅茶苦茶多くの発言」で余りある。

感想の羅列に影響力があるか?あり過ぎるはずだ。そもそもスポーツ芸術etc、具体例や証拠がない、ただの感想に過ぎない(?)。

そしてそもそも具体例や証拠を提出したとして、それが有意義か真実かも分からない。

さらに具体例や証拠を即時に生成検索する装置があれば、感想を垂れ流す方が余計に合理的になる。

「具体例や証拠を集めよう」という心が、そいつを成長させることはあるので好きにしたら良いのだが、それにしても感想の羅列は強過ぎると思うのだ。

ちなみに俺の根拠の多くは芸術で、そこにその者やその国の文化の傾向を読み取る。「癖を見抜く」ってやつだね。

 

近代化しないので、既定の方法・既得権に拘り、近代化した奴等に押されまくる。

近代化前提なら例えば「MMAは強いが昔のヘンテコ拳法も面白いから残そう」となったり、割り切った取り扱いができる。

反近代だと「MMAやるな」となり、ガチるとボロ負けするし、ボロ負けしたのに言い訳し、若い奴等にシラケられ、そのくせ若い奴等を「ヘンテコ拳法こそ最強の拳法なり」などと抑圧し、恨まれてヘンテコ拳法など潰そうと言う流れになる。

数を前提に誰でも参加可能にすれば、才能ある人材を有効活用できる。反近代的にWhoとHowに拘れば、人材は腐っていく。誰でも参加OKなら「まあ天皇制もあっても良いか」くらいに思われて保存できる。

近代的に物質をバラまけば色々な興味を持つ人間が多数出てくる。伝統工芸も取ろうと思えば人材を取れる。貴族だけが商売相手だと貴族に売れないと終わる。スーパーと高級レストランの売上の差を見よ。

そもそも人間の数が増えるので、大人数を「興味も物質も持たぬ状態にしておく」のは不可能であり、その不可能が近代を生んだと言っても良い。

 

流行に富と権力が集まる。なので調整しなくていけない。それが多様性の確保に繋がり、多様性が新たなる流行の苗床にもなる。

それに対して「流行に任せておけば、次の流行も勝手に生まれて、死ぬ奴は死に、生きる奴は生き、多様性が無いばかりに、特定のウイルスに一網打尽にされても、その時はその時なんです」と言う意見。要は「調整なんて要らない」と。神の見えざる手に任せろと。

まあ、そうかも知れないし社会実験的な結果を知らないが、近代の場合、度が過ぎるので「ドレミファソラシ」の中で、ドが流行ったら「レミファソラシ」が本当に絶滅するのでは?と言う悪い予感もする。

中国の文化大革命などがそうだ。明治維新だって人のことを言えないよね。まあ、そもそも人類の歴史なんて絶滅の連続だったのかもしれないけれど。

 

間違っても害のない部分もあり、ノーダメージである。

しかもその間違いから学ぶこともあり、そもそも間違いかどうかも分からない。そして妄想的だとしても、そういう世界観であり、それが現実になる。マンガなどがそうだ。

 

少年漫画の主人公は情けない。

俺も情けない。

故に俺は少年漫画の主人公である。

「君の情けなさは醜い」って?

そりゃ漫画に比べりゃそうでしょうよ。

「現実存在に比べても醜い」って?

度が過ぎるのが我が誇りよ。

 

サーカスの檻の中のクマは休憩中もずっとヘッドバンキングをしていたが何ならそれも幸せだと思う。

目的に夢中?

洗脳?

では洗脳されていない存在などあるだろうか?

いや、確かに思うところはあった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

育ちの良し悪しとは貧富に関わらず、「環境=周囲の物や人」に牽制され牽引されて醸成される。ヤンキーも、俺からすれば育ちが良く見える。洗練された人間関係を経験しているからだ。言葉遣いや行動が乱暴に見えても、彼等なりのマナーを身に付けているのだ。

これによって私は「育ち良くあれ」と言いたいわけでは無い。「誰にでも通用する優しさを根底にして、後はダルダルで良い」と言いたい。「十戒以外はご自由に」「誰にでも優しい人は誰にでも冷たい」と言う方向になるだろう。

「育ちが良い=環境に牽引牽制されて育ったので気遣いやマナーが培われている」ということでもあろうが、「そこまで細かいこと言うな」ということである。

 

「個人と神だけではなく、集団の中で育てばこそ、その集団の中で世界に通ずるマナーが培われるのだ」と言うかも知れないし、そうでもあろうが、「世界共通マナーだけ学習し、他は気にしなさんな。良い奴であれば、それだけで良い」と言った方が清々しく、細かくなくて良い。要はマナー教師の逆であり、慇懃無礼の逆であり、気さくで最高じゃねえか。

 

「集団に所属したから集団の長になる力も付く」と言うが、

先ず現実的に「どこにも所属しない人間」というのはやっぱり考えにくく、後は才能である。

さらにリーダーシップ教育でもすれば良い。それで芽が出る奴は出る。

 

そのグループに認められて、グループ長に持ち上げられる奴は、そのグループの作法を細かに身に付けることになろうが、そんなもんは「勝手にやってろ」って話である。

 

要は「家庭や集団のルールを、国家規模に押し広げるな」と言うことであり、「十戒以外はご自由に」を徹底したいわけだ。

グローバル個人主義を邪魔する奴等を狩る運動である。「世界ナマハゲ運動」とでも名付けようか。「悪い子はいねえか」とカトリックが異教の神々の首を刎ねて飾りにし、神だけを崇めさせたように、十戒と個人だけを至高とする運動である。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

保田與重郎が「明治になって国学の伝統が失われたことが本当に悔やまれるのである」と言っていたが、17世紀に1000年前のものを穿り返して国柄を探求して、明治維新にまで結びついたわけだ。

17世紀は他の国でも「国学」が盛んになった時期だったはずだ。他国との接触、国内の混乱の中、人間と同じでアイデンティティを探求する。「俺ってどんな人間なんだ?」ってね。

古今和歌集905年、新古今和歌集1205年。定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて」新古今を編んだわけだが、実に300年の開きがある。今なら1700年代の言葉を用いることになる。江戸時代、歌舞伎の言葉や言い回しに相当する(まあ、そこまで単純では無かろうが)。

それで当時最先端の詩を作り出したわけで、百人一首まで後世に残している。21世紀の現代人が江戸時代の言葉を真似て、後世に歴史的詩集を残せるかと言うと、どうなんだろうね。

まあ「古典文学をやっている人がそこで培った力を現代にインパクトさせる」と言うのはある話で、例えば宗教がそうである。

今話題のイスラエルとか。

 

ところで「日本人は女性的であり、近代に向いていない」と言うことは、森鴎外も夏目漱石も永井荷風も金子光春も坂口安吾も三島由紀夫も福田恆存も言っている。戦国時代の大名も淡白である。

そこを過去を振り返って「昔の日本人は男性的だった」などと簡単に言わぬことだね。

 

日本人は「水は高きより低きに流れる」「現状を良しとする」国民性であるが、日本は実は土建国家で、環境を変える。美味しいリンゴが喰いたい一心で変える。

 

「咀嚼力がなく、おかゆしか喰えない」ようだが、漢字を輸入して我物としている。

 

日本人の平均体重は低いが、お相撲さんもいる。

 

日本は女性的国家だが、ゲーム帝国の発祥の地である。(男性的島国であるイギリスにもアイルランドがある)

 

五感が鈍いと言うことはフィードバック能力が低いと言うことであり、「What is this?」と常に帰納する力が弱いと言うことであり、素材を見抜く力が無いと言うことであり、長所や短所や可能性を上手く扱えないと言うことであり、即ちヤバい奴である可能性が高い。

「賢くなりたいなら感覚を磨きなさい」

 

「人生ハードモード」などと馬鹿にするが、じゃあ「イージーモードが良かったなあ」って羨んでんのか?

手持ちの札を冷静に切れ。育てろ。クールであれ。

 

自由学芸や心理学や美学(人間は何を美しいと思うのか、そいつは何故それを良しとするのか)、健康学など。

結局俺は「物好き」にはなれぬ。法律の勉強も結局は法律の勉強なのだ。「頭が良いから楽勝だぜ」とばかりは言えない。超絶的に頭脳明晰であれば多くが可能だろうが。

神学や哲学、和歌が好きなのは「なるべくしてそうなっている」と言える。今更めいているが。

「物好きの人生訓」に対して、クラウドやサイボーグを考えてしまうのも、結局そういうことだろうか?

突破者?w

 

「古典でないくせに古典面するな」と言うのが私の根本だが、書道なら九成宮とか、和歌なら古今和歌集とか、彫刻ならギリシャ彫刻などがある。 作法は時代によって変遷するものの、大元となる(そのレベルと認定しても良いかなと少なくとも議論にはなるレベル)のものは、ホログラムなどで提示しても良い。

と言うのは、神社などでお辞儀すると言うが、所詮、お辞儀する者の肉体の動きなどが低レベルで、ダンスで言うとクソみてえなダンサーでしかない場合がほとんどだ。ところがたまにさすがに凄い見本みたいな人がいて「これがTheお辞儀です」と。それをホログラムで常に展示しておく。

神社の鳥居や賽銭箱の前などでお辞儀している姿をリアルで映像化するわけだ。参拝者たちは「なるほど。これがお辞儀か。感服つかまつった」と人生の糧にできる。観光資源にもなる。「清水の舞台から飛び降りる」と言うが、本当に飛び降りる映像を作っても良い。真似する奴が出てくるから危険だが。

 

「フードコートに自分の御飯をタッパで持ち込むのはダメか」と言うと、「言語化は難しいが不可能ではない」。

そう言う奴が1週間に3回位出現するならOKとか。

「子連れで哺乳瓶はOKだが、弁当はアウトが基本」だとして、「父は注文、母と子は弁当はアウトか」「本来アウトなのだが、まあいいじゃねえか。でもこれが全員だとさすがにアウトだ」と。その場合、人数的に大体どのくらいの割合ならOKか。それを映像で提示してみる。

「俺はこのくらいならOKだよ」「いや俺は嫌だね」など個人差も生まれる。それでその者の寛容さと言うか、好みと言うか、そういうのも分かりますね。俺はだいぶ寛容になろうね。

画像生成AIも発展してきたし、「どのくらいならOKか」を映像を元に判断させるムーブメント?

 

「骨身に染みるカルチャースクールをフルダイブ式VRで」

フレンチのマナーを学びたければYoutubeでも良いが、FD式VRなら、五感もビンビンで最高だろう。

事程左様に何でもかんでもそうやって学んでいく。そこまで技術が進むと「学ぶ必要があるか」と言う問題はある。

 

以前に教育については色々と書いたのだが、骨格だけにすると、

「幼児教育」

「骨身に染みるサクッとカルチャースクール」

「街並の美化」

「古典教育(クラウドと神レベルとお前の個性を徹底して融合)」。

これだけで俺はかなり気分が良くなる。

実際にツイッターが出て来て、偽物が馬鹿にされるようになり、歴代の天才達がやっぱり当然に君臨するようになると、俺もだいぶ落ち着いたでしょ。 TVや審査員基本がいかにクソか分かるね。審査員って「じゃあお前、九成宮書いてみろよ。ギリシャ彫刻作れよ!城や教会のネタ元私ですから」と言うなら分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

国立博物館で仏像をMRIで見るような映像があったのだが、それを見たからか、チ〇〇をMRIで撮影している夢を見た。イカれているのだろうか?

フライパンでプリンを作る夢を見た。 卵に大量の砂糖を入れて熱すると、黒くなるのだが、それをさらにかき混ぜると、なぜか黄色くなってくる。それがキャラメルソースらしい。

この世は天国ではない。

嫌々やっている時など幾らでもあり、それでも時に悲しみ時に喜ぶのが人生なのだと割り切るべきだ。

なぜこれを言うのかと言うと嫌々やっている人間に向かって「嫌々ではないよね?ね!!」と同調圧力や権威や場の空気などによって、マイナスを強引にプラスとしてしまうからだ。

「この世に悪はない、あって欲しくない」と思っている奴は、他人にもマイナス無きことを期待してしまい、価値観の違いや嫌々感情を押し殺すことになる。

そのような奴は自分のせいで他人にマイナスを与えているなどと考える余地はもちろんなく、「あなたのせいで他人が嫌がっていますよ」などと言った暁には、そんなことはないと嫌がっている他人の存在を消すか、「本当は嫌がってないよね」と念を押すことであろう。その念押しときたら!

 

DJ作曲家音楽教師、それらが合体した AI ができればOK 牧場

 

20年前ぐらいに Twitter 的なるものを思いついて、こういうのがあったら面白いなという意見に対して、何それ意味わかんないそんなの誰も見ないよなどという侮辱もあったが、蓋を開けてみれば世界的に大流行りである。

実際にTwitter が当たるかどうかなど誰にもわからぬ。だがそういう発想をなんかわからないけど面白そうだね!と励ます人間が多いか少ないかで、やはり違う。

 

チェスタトンが「あいつは俺の友達を殴った。だから俺はあいつを殴り返したい。これが哲学である」と言っていた。それに対して「それでは生産性が無い」と言う意見があるが、殴りを生産しており、一度殴りが生産されれば、そこからまた色々なものが生産され、何がどう転ぶかは分からない。

 

先輩なる者を崇めるのをやめよ。神は「私以外を決して崇めるな」と言った。その教えに従う以上、先輩を崇めることは、神に対する裏切りになる。老若男女問わず、人は皆、神の国建設のために戦う戦士である。

先達も参考にするが、先達もまた後人を参考にしなければならない。

 

「ゲームの世界には自由が無い」と言う。無いんです。軍ですから。嫌なら辞めれば良い。他にも色々なゲームがあります。

 

「無自覚的に当然」と思えればこそ常識であって、自覚しいしい従うルールなど常識とは呼ばない。無自覚への刷り込みこそが文化の本願なのであって「常識を外側から分析して、相対化するのは、常識への冒涜ですよ」と言う意見もある。

 

芥川龍之介や太宰治が「物語上手」なのはナルシストだからである。「俺はこういう人間だ!どうだ凄いだろ!」と生々しく言うのは憚られるから、「例え話能力」が日夜発達するのである。自分を託せる話ばかり考えるのである。

 

神とは何か?

1全知全能の神

2クラウド・古典

3西暦1200年代までの名作と呼ばれるもの

 

場所によって全然評価が違うものなど幾らでもあって、西洋ではキリスト教が広まり、東洋では仏教が広まった。キリストは神である一方、弾圧の対象でもあった。日本に於いては何とキリスト教は1%。

 

「人は皆罪人である」と「ワタシキレイ」ほど対立を感じる価値観は無い。後者を息苦しく感じるのは、単純に「あなたを汚いと感じる人を紹介すると恨まれる」からである。ところが世界には色々な人間がおり、色々な価値観がある。仮にいなくても作り出せる。自らを相対性の海に晒せ。

 

「前世で良いことをしたから、今世で良い人生を歩める」と言う。前世での善行を悪行と見做す輩もいるし、今世での薔薇色をウンコ色に哀れんでくる奴もいる。

「そいつがそう思っているのだから良いじゃん。そういう価値観もあるじゃん」と言われれば、その通りなのだが、別の観点を突きつけられてもユーモラスでいて欲しいのだ。

 

男が陥る病はニヒリズムで、その病を有効利用する。
女が陥る病はヒステリーで、その病を有効利用する。
その病が多い社会では、それに対する処方箋も多く、
伝統とはどこに甘くどこに厳しいかでもある。

 

「文化の維持にはヒステリーが不可欠」であり、「クラウドに吸収されると結局は跡形も無くなる」と言う意見もあるが、今はネットに情報をUPできるし、跡形も無くなることはない。

そもそも日本は文化や型が多く残されていると言われるが、「形骸化=文字化=漫画絵化=記号化」はお家芸である。

 

古典の欠点は「目的に向けて皆で磨き抜き過ぎる」のでMMA的に「結局似て来る」と言う意見もある。実際にMMAは蟷螂拳でも弓道でもない。遊んだ動きは瞬殺される。

だがMMAがあるからと言って、蟷螂拳や弓道もあるのであって、昔よりそちらも盛んなのでは?

世界の人口が多く、興味も人それぞれで、アクセス環境も良いからだ。そりゃ滅びるものもあるだろうが、それは昔からそうだ。逆に現代の方が滅びにくい。

しかもMMAと言う可能な限りルールを少なくしたものを見ると、人は興奮する。「一番強い奴は誰だ?」と言う本能をくすぐるからだ。一旦そのくすぐりを受けると、格闘技全般に興味を持つ人も増える。結果的に蟷螂拳や弓道にも人が流れる?

 

実際にネットの時代になって、全国各地・世界各地の小規模生産者の品質良きものが世界の裏側にまで知られるようになった。個人の好みで直接選べるから最高である。クソみてえな審査員の選抜を受けずに済むことがどれだけ有難いか。選んで紹介したい奴はそれを前提にやれば良く、実際に「DJ」は多い。

 

男のイギリス、女の日本

ところがイギリスには女性的アイルランドがあり、日本には男性的ゲーム帝国がある。

西洋と東洋で男女のバランスを取っていたのだが、世界が混ざって平均化してくると、今度はバランスの取り方が変わり、GAFAが出現したと言うのが俺の見立て。

 

常識や文化やワタシキレイの何が嫌かって、「可能性を考慮したら殺す」と言う圧力を感じるからである。「常識なんて無い、好きにしなさい、こんなん出ましたけど」に脳ミソの自由を感じる。「好きに発想して良いよ!」と言う明るい太陽の励ましを感じる。

 

「個人の微妙な好悪の情」を圧し潰して、「社会を円滑に運営するための理」に参与することも人間の素直な欲望であり、それを否定するものではありませんが、社会社会言う人間の気持ち悪さと言うのは「矛盾が無い」からである。人も社会も多様であるように、一人の心を取っても多様なのだ。

 

何故アメリカやGAFAやゲーム帝国が凄いスピードで発展するかと言うと「好きにやれるから」である。うるせえ奴を無視できるのだ。失敗したけりゃ万回でも失敗すれば良く、「そんなの意味ないよ」と言う皮肉など数で圧殺される。実際に無意味すぎるプレイもあろうが、それとて時が経つと意味が見出される

 

「本質」とは「それが無くなったらそれでなくなるもの」のことであり、観点によって本質は違う。料理人にとってのリンゴ、写真家にとってのリンゴ、調香師にとってのリンゴ。

何を本質とするかは千差万別ではあるが、まあ、現実的な傾向はあろう。例えば鮎の本質を取っても、究極的には千変万化であろうが、現実的な傾向としてはある程度限られよう。「パイナップルと混じった香り」が鮎の本質と定義するのは、一般的ではない。

日本料理は「素材に従う」。フランス料理は「イデアを作る」。

素材の中にも究極的には無限の本質があり、イデアの中にも所謂素材を活かす場合もある。

フランスの近代絵画、日本の近代絵画を見ても、その傾向は強い。私からすると、近代日本画のクソ真面目さが好きではない。ただ本質を徹底的に見詰める凄みは凄い。

漫画アニメなどに自由闊達な表現は見受けられるが、日本画は素材に対してクソ真面目過ぎる。

自由闊達さと素材に対して真面目であることを兼ね備えているのが戦後日本の料理文化とも言える。

だが「両方とも足りない」とも言える。

「イデア=アイディア」は全方向に対して自由闊達であり、どこに打とうが「俺の勝手」なのである。素材の本質もよくよく見れば、無限なのではあるが。

その意味で日本のフランス料理とは、日本料理の拡大と見ることが出来る。そりゃそうだろう。日本なのだもの。

ただ現実的には素材を活かす方向が強かろう。イデアをバリバリに構築する。「あり得べからざるハーモニー」を作りながらイデアを目指す傾向は低かろう。

 

適当なアイディア
→真摯に物に教わる
→真摯さの無い1億の適当なアイディアが芯を食う
→芯を食ったアイディアを使いこなせるのは、それを継続している人
→万人がスーパーマンなら全員使いこなせる
→それでもやりたい奴はやる

 

時代を拒絶し、マイスタイルを貫き過ぎる。「流れの中でパッとやる」には時代からの支持、周囲との盛り上がりも大事だろう。俺にはそれが無い。近代の芸術家はそういうものである。では近代に於いてマイスタイルを持たぬ者が「高い」か。そうは言えぬ。だが近代の芸術家など日曜画家に過ぎぬと言う意見も認める。

「ピカソや森鴎外」vs「クリスチャンディオールやジョエルロブション」

後者の方が老若男女や時代に支持してもらえて(食材を運ぶために地球の裏側と流通があるって!)、活気があるとも言える。「才能は盛り上がっている所に集まる」ではないけれど。

「レジェンドと次の世代」のタッグマッチ戦だと(レジェンドとはピカソやコクトーやラヴェルなど)、文学にせよ、絵画にせよ、音楽にせよ、次世代が弱い。

だが「クリスチャンディオールとイヴサンローランのタッグ」は強い。それはあたかもプラトンとアリストテレス?飛鳥白鳳天平の流れ?

 

包丁で木を切ることが出来なくても、ノコギリなら出来る。包丁で切り付けている時に「ノコギリ的なアイディアが浮かぶ」かも知れない。その時「ノコギリと言う言葉」や「完璧な形」が思い浮かばなくても、その漠然としたアイディアを元に試行錯誤して、ノコギリは生まれる。

 

キリストは「私は炎を投げ込みに来た」と言っているが、人間社会など既に燃えており、「もう燃えてんじゃん!」と言う話であり、「でもそれが人間の面白さだからOK牧場=私は炎を投げ込みに来た」

 

近代が入ってきて近代化したつもりでも、近代化できない汚らしい日本人の島国根性ではあるが、逆にこんがらがっている方が島国根性を維持できるので、こんがらがったままにして置くという文化防衛本能。 そうなったにはそうなっただけの訳がござんすと。

もしこれをほどいて、なるほどこれが近代化かと。確かに1から鍛え直した方がいいなと納得してしまったら、近代化男性化してしまう人間が増えて、日本としては堪ったものではないのである。

 

・脳外科手術に使う道具を発明するのは大体脳外科医だ。何が必要か素人にはてんで見当がつかない。

・脳外科手術をVR化して、参加人数を増やす。すると「こんなん出ましたけど」と色々な道具や術式が発明される。

・ただそれをまとめて利用するには熟練度がいる。

・人類全員がスーパーマンになれば全員利用できる

スーパーマンは置くとして、結局そもそも「それを続けるやつ」と言うのが珍しい。官僚みたいなもので、スペシャリストは少ないのだ。日本は土建国家であるが、社会資本の整備も覚束なくなると言われている。土方がいなくなったら日本列島はボロボロになる。スーパーマンなら自分で出来るが。

そもそもその味を思い付かない。

超AIは全ての言語の組み合わせを試すように、全ての味の組み合わせを試す(≒無限を生成する)のではあるが、生成された無限から特定を選び出すには「偶然か理由か」がいる(何故無限の中から36と言う数字を選んだの?それもAIに任せたor~~と言う理由で)。

 

そもそも全情報はこの宇宙に既に存在する。グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸、他にも旨味はあるし、未だ見付かっていない、明確化されていない旨味は存在する。

見付かっていないだけでなく、そもそも発見とは「どう区切るか」「どう組み合わせるか」でもある。

クラシック音楽を例に取れば分かりやすいが、古典とは細かいコントロールを教えてくれる。文法で一語一語解析できるようなものだ。「なんでセットになっているか分からないが、セットでドン!」と言うわけではない。

セットになっていると扱いやすくて「とにかくプレイする、とにかく作品に仕上げる喜びを味わいやすい」ので、それはそれで有難いのだが、カメラと同じでマニュアルで操作できないと、せっかく慣れて来た時に「俺の撮りたいように撮れない」。

俺の撮りたいように撮れないと、個性が出せない。野性的であれない。俺の深いところを抉り出せない。それでは自分ではない何物かになってしまう。やっていて、自分の全体重を乗せられないことほど虚しいことはない。

クラシック音楽をバリバリやっている人は、あらゆると言って言い過ぎなら、非常に多くの音楽を、偏見なく分析できる。

そして圧倒的に変人が多く、自分の個性を丸出しに出来る。

 

私は有職故実が「あんまり」である。「東常縁の古今伝授」よろしく、大したことない伝統を折り紙重箱に収めて有難がるのである。「古今伝授」など本居宣長の批判するところであり、福田恆存も「抽象的思考能力が無いことの表れ」と言っている。

有職故実さえ「あんまり」であるのは「日本人は言挙げを避け、型そのものを継承させる」と言うが、その型自体が「言挙げ的=言語的=非右脳的」なのだ。言葉で伝授するのでなく、動きで伝授するにしても、その動き自体が既に形骸化している。「~~流」などを見れば明らかだ。

「天才の動き+科学的分析」を後続が参考にするなら良いが、「天才の動きを見た凡人が天才の動きを形骸化させたもの」を継承しても、右肩下がりになるだけであり、あまつさえ「形骸を有難がれ」と来たら、才能ある後続は「先輩ぶっ〇す!」となって当然だろう。

 

日本の場合「道になる」と言われる。「基本を伝えて、お前なりの個性を伸ばせ、最高記録を更新しろ」ではなく、あたかも「俺の24時間を完コピしろ」と言っているように聞こえる。(cf俺がよく貶すお土産物の伝統工芸)

確かに24時間を参考にすることで得るものも多いだろうが、劣化コピーの繰り返しになってしまうのは、同じ物を学んでも十人十色になるからで、十人十色なのは遺伝子が違うし、環境全体を真似ることは出来ないからだろう。

日本の「~~流」というのは、もはや「作品としての良さを放棄している」かに見える。ただあれも文化維持の仕組で、24時間365日をテキストにしてもらう方が後世の人の参考になると言う面はある。

「データで残せば良いじゃん」と。

ただ例えば「華道家が24時間365日を、この現実でどう生きるか」ということを残したいと言う文化意志の表れかもしれないと私は予想している。日本人は「作品」より「生活」が好きなので。

「それだけ・データ・作品」より「全体・現実・生活」を伝えたいと言う文化意志かも知れぬ。作品のレベルを上げるには「24時間365日の生活全体」も参考になるが、あくまでそれも含めて「一時的なテキスト」なのであって、自分の個性に密着させたものにしないと、作品レベルは更新されない。

さらに「24時間の生活」を伝えると言っても、日本の有職故実を見れば分かるように、劣化全体に過ぎないので、本当にデータ程度にしておかねえと汚染される恐れの方が高い。遠巻きに「昔の人達は大体こんな暮らしをしていたのだな」と眺めるくらいが良い。
日本の伝統には古典的レベルの高さは無い。

昔、東大の教授は端的に「日本には古典が無いのではないか」と言っていた。「古典とは何か」もその時言っていた。俺も付け足して書いたので、もうここには書かぬが、なんだったら「有職故実の本願は突き抜けを許さぬ(作品だけで後はダルダル)女性的文化意志」の表れなのかも知れない。

徳川家康は素材の良さを意識的に切り落としている。男が育たぬように。良い素材はドラッグ的に社会なんてどうでも良いと思わせる怪しい魔力を持っている(cf≠宮大工の西岡常一)。そんなものに触れたが最後、現実なんてどうでも良いと好き放題に暴れる奴が増えてしまう。詩人追放論みたいなものである。

徳川家康のやったことがそれ以前の日本史に無いわけもなく、その元祖が有職故実とも言えそうだ。高レベルに行くための参考として「低レベル全体を用意しました。ご自由にお使いください」ではなく、「低レベル全体を完コピさせること自体」が狙いなのだ。社会を安定させるために。女性的文化意志である。

 

肉食や飲酒の禁止と同じで、精力を付けさせたり酩酊させたりするようなものは全て排除すると。

良い素材や作品というのは魔性的な魅力があるので酒以上に危ない、それはドラッグである。

古典は鎬を削り合って生活を犠牲にしても良いワインを作ることを奨励する。

 

男は一点豪華主義で、

女は平均主義。過ぎたるは及ばざるが如しで行き過ぎもダメなのだ。

突出は社会を通り越えて、世界や宇宙に通じてしまう。それは剣だ、カオスを受信するアンテナだ。

女性的文化意志からすれば、そんなものは是非とも切り落とさねばならぬものなのだろう。

 

ウサインボルトが最高記録を更新するためにも24時間365日の生活は大切だが、それはあくまで最高記録を更新するためのものなのであって、24時間365日平穏無事に過ごすためではない。

 

突出させればぐらつく。

ぐらついたら心配なので注目される。

倒れたら誰かが助けてくれるかもしれないし、他の誰かはバカにするかもしれない。

それでよし。

そこからドラマが生まれる。

 

全ては海から生まれたと言うが、海は空から降って来た。空の彼方に海があるのか、宇宙の海の彼方に、また空があるのか。それは知らぬ。

 

日本人の「現象を言葉にする力=言霊の幸ふ国」、往生要集でも、運中供養菩薩でも、漫画アニメの造形でも、オノマトペでも良いが、それ。

そのボヤボヤを造形化する力が「自分にあるんだと腹に据えて」、短歌でも、花でもやってみれば如何ですかと。

 

【石膏デッサン、伝統風土】

先ず日本人が「石膏デッサンしてきたか?」と言うと、NOだ。

そもそも日本の絵描きは正確なデッサンすらせず、字を習うように描き方を習い、それをレイアウトしてきた形に近い。それが悪いというのではなく、それでもあれだけの作品が描けるのだ。

と言うより、石膏デッサンを必須科目にしているのは15世紀ルネサンスの頃からと言われている。西洋の画家ですら本当に石膏デッサンが上手い(ここでは細密画の意味)人がどれだけいるか知らぬ。ただ世界広しと言えど(同じ地域に色々な絵はあれど)、リアルな描写をしてきたのはヨーロッパである。結局「絵は右脳で描こう」で、左脳的に書いていたのでは、ああいう絵は描けない(全く左脳を使わない人間はいないし、補助的には重要なのかもしれないが)。

デッサンを何のためにどう描くか、作者にどんな作用を齎すかは神妙であろうが、先ず細密画を描くためにやっているわけではない(細密画を描くためにやっている人もいるし、デッサンがどんな効果を齎すかは不可知でも「細密画を描くためにやるくらいが結果オーライ丁度良い」と主張する人もいる)。

私としてはデッサンは「見ているようで見ていない自分の至らなさを知る、対象を偏見なく観察する、感覚を活性化させる」などにフォーカスして考える。

デッサンがそういうものだとして、デッサン以外に上記の作用を齎すものは何か?

それは色々で、日々の生活の仕方とか、音楽を聴くとか、激辛を食べた刺激で偏見が取り除かれ何故か視覚が研ぎ澄まされてガン見するようになるとか。ただデッサンの場合「やはり手を動かし、対象を描く」ので「やはり絵画」であり、視覚芸術にはかなり良い薬ではあろう。

ただ「手を動かし、正確に対象を描く」のがまどろっこしい人だっている。棟方志功、名嘉睦稔が細密画を描くだろうか?(描いてたらごめんなさいw) そう言う人は「デッサン以外で目を磨けば良いのでは?」とアドバイスしたくなる。そして磨いてくれるものなんて他に幾らでもあるだろう。

日本人に限らず「正確に描く」ことを芸として寿ぐ風潮がある。さらに「絵が上手=細密画を描ける」と勘違いするアホもいる。

だがそもそも問題は「そんな認識でいると、自国の絵画が衰退する」と言うことだ。

日本も中国もアラビアでもどこでも「細密画が得意な人、集まれ」で、人材を集めて来たわけではない。日本の場合は、マンガアニメがあるから「日本人と絵」の関係は衰退していないから良いが「美術の基礎は石膏デッサンなり」などとやってしまったら、その国の絵画文化は廃れるだろう。

集まって来るのが「細密画と言うより石膏デッサンがが好きな変人ばかり」となり、伝統的風土的血脈からも切り離されてしまうからだ。石膏デッサンの奨励は売国の始まりにして究極?実際に日本人は左脳で絵を書いてきた傾向が強く、「そんなん奨励して良いの?」と思うし、ダメだったわけだw

そんな暇があるなら「絵描き歌、絵の具を眺めよう、創作風景の動画配信」あたりを基本にした方が良い。ああ、マンガアニメは基本過ぎて当然だよ。

石膏デッサンが絵画教育の基本になったのは15世紀初頭から。15世紀以前にも世界各国に名作は存在する。その人達は石膏デッサンをしていたわけではない。

15世紀以降の人類は石膏デッサンをしないと名作を描けぬ病気に罹ったのか?「罹った」と言う意見もあろうが、石膏デッサンだけが薬ではないはずだ。

それどころか、そんな伝統や風土から切り離された薬を飲まねばならぬとなれば、それを嫌がって、参加人数が減るし、変人ばかりが集まるのではないか。実際に近代的美術教育が始まってから、世界の美術は衰退した?

(そもそも本当に基本として石膏デッサンをやっていたのかも怪しい)

 

ところで「日本人はクラシックフレンチを好きか否か」。

「好きだろう」と思う。

マニアックで、マニュアル的だからだ。

日本人はオタク気質でガチるからだ。

日本の場合「所謂軽いもの」や「手軽なレイアウト」も好きだから、どっちも流行るのではないかと思う。

料理人になりたいくらいの人間は、味の傾向は置くとして、結局クラシックを好む人間が多いのではないかとも思う。

「単に魅力を発信できていないだけでは?」とも思う。

 

・素材を分子レベルに解体して、再構成する。錬金術

・形而下の素材に付き従うより、形而上のイデアに収斂させる。

・シニフィアンシニフィエ。「ケスクセ」「こんなもんマグロじゃねえ」「ワインと一口に言っても千差万別」「和歌の花鳥風月も千差万別」 

→フランス文化は「古典的」である(三島由紀夫)。個性を尊重し、理念の元に集まる。ノートルダム、ジャンヌダルク。

cf日本は生まれと育ちを重要視する(必ずしも本当の氏と育ちにあらず「出どころ」「~~畑」を重要視する)。小澤俊夫さんの昔話研究でも、外国の昔話は化け物でも人間の文化に溶け込めば仲間として認める(移民の条件みたいな)が、日本では溶け込んでも実は化け物だったとバレたら追い出す(鶴の恩返しも含めて)。

【土台がしっかりし過ぎて、本質転換が起こった時も、それまでの本質を続ける。逆に時が経つと圧倒的革命=本質転換が起こり、それまでの本質がかなり遠のく】

・ノートルダム楽派。パフェの上にパフェを!?

・ヴェルヌの未来予想図。例えば人間がロボットになったら衣食住さえ「本質=なくてはならないもの」でなくなるはずだが、何故かそれまでの衣食住を続けている。

・「サンソン・フランソワラヴェルのピアノ協奏曲ト長調第二楽章」は最高。リズムを刻むピアノの上に全ての音が舞っているようですらある

cf「ブレンデルのシューベルト 即興曲 変ト長調 作品90-3」は黒い森からロマンが常に出現する形であり、土台が決まったとしても、常に混ざり合い、新たな本質が生成される。それぞれの国を代表する曲であり、演奏であると思える。

 

「ルネサンスから」の時代の西洋絵画は「写実的」である、と言っても良い。だのに良い。技術的に非常に凄い連中が、絵としても素晴らしい作品を残している。

「センスは良いが、技術的には優れない奴等」は歴史に残っていないだけだろうか?

それとも昔は「雑念なく技術習得にも誠実であれた」から、皆技術的にも凄くて、その中でもセンスの良い作品が残っているのだろうか。その時代の凡作も大量に見てみたいものだ。

やはり時代全体が様式を維持していたので、「生活全体=個々人の精神」にも緊張が走り、それが技術習得にも好影響を与えたのであろうか。

様式が解体する中で、芸術家は「クローズアップとフェティシズム」で作品の強度を維持した。それが「芸術史の概略」とも言える。プルーストも谷崎も引き籠りである。

大時代的。ベルトリッチのラストエンペラー。映画と言う手法で、あそこまで出来れば出来る?ただ一人の力では出来ないよね。

 

雑念なく、時間が無限に流れ出していた時代。奈良の都の平城京も「よくこんなに素晴らしく作れたものだ」とTOKIOも感嘆していた。あらゆる職人が丹精込めて(昔の人ならば普通のこと?)、時代を作っていた頃。ならば神技と言えるレベルにも自然と達していたことだろう。

そんなものに囲まれて、生活して、成長して、自分も何かを志せば、それは自然と何者かにはなろう。センスだけの人も自然と技術も身に付こう。

今の人も今の時代様式に囲まれていればこそ、他の時代には無い圧倒的技術を自然と身に付けられる。

それはネイティブ。言語は一人では身に付かない。日本語が無くなった時に日本語を身に付けようとする人は、日本語が大量に溢れていた時代を見て「あの切磋琢磨の時代が羨ましい」と思うことだろう。

西洋文明の本質の一つに「復活≒イエスキリスト」があると思っている。失われた、遠い言語を今に戻し、ネイティブとして仕上げて来る。

 

言語が今の社会規模で使われている⇔古代言語を一人でたどたど

皆が作ってくれる(料理人と素材や道具を作る人)⇔一人で全部作る(作れない)

近代以前の大時代的作品を作っていた人達は時代に支持・支援されていた

 

「浮世絵は1人にして為らず」で、単純に浮世絵制作も複数で行う場合も多く、江戸の街も物も道路も浮世絵師一人によって作り出されたわけでは無い。

ところが近代化(ここでは社会全体に渡るような様式の崩壊、価値観の多様化、街もメチャメチャ、カオス化)すると、一人で「俺の世界」を作らねばならなくなる。「近代芸術の多様性と個性、チープさと窮屈さ」はここに由来していよう。

そして詩人(≒芸術家)とは「ずっと気持ち良い状態を求める人≒音楽の中を生きたい≒音楽とは様式の塊≒ディズニーランドや観光地でずっと夢心地」であるから、世界が雑音だと分かると、それを全力で拒絶し、猛烈な評論家になってしまう。

三島由紀夫が言っている通り、これが近代の宿命でもあり、近代に於いては「芸術家的気質≒様式的統一≒ずっと気持ち良い状態を求める」人ほど、評論家になってしまうのだ。しかもその評論は自らをもグイグイ傷つける。「これはまことに困った傾向で、モーツァルトの音楽のどこが評論であろうか?」

すったもんだがありまして殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着いて、近代の芸術家でも「My World」を作れる奴等が出てくる。

で、これは成長の仕方の一つの道標なのだが、「自分・モチーフ・道具手段」の三位一体とも言うべきMy Styleが出来て来ると、

そのスタイルで「他も塗ってみたくなる≒他のモチーフや道具も使いたくなってくる≒領土の拡大を狙いたくなる」。そのことでその者は新たな刺激も受けるし、作品自体が大きくなるかなと思いますね。

 

王様(ユゴー)、冒険家(マルロー)、引き籠り(プルースト)

スポーツ選手もスタジアムに引き籠っている。スポーツと言うのは近代というカオスに抗するために「様式的統一とカタルシス」を与えられた、それは先人からの贈り物である。

芸術家はスポーツに匹敵する様式を自分個人で作り出さねばならぬと言う重い十字架を背負っているわけだが、作り切った時にはジャストフィットしたMy World My Styleを獲得することが出来る。スポーツに邁進している人間で芸術家の苦労など素知らぬ人間もいるが、幸せ者とも言える。親の苦労子知らずとも言えるが。

 

リスクを犯してでも守るべきものがある。

「それは主観的認識である」ってね。

客観的に認識してしまったら、自分が馬鹿にしていた対象の存在価値を認め、自らの世界観の改変を求められてしまう。

変えても良い部分、認めても良い奴はいるが、どうしても嫌なこと、認められない奴もいると。

 

・カメラで言うとマニュアル操作しまくれる

・歴史に名を残している偉人は全員変人?そんな人達と友達になれる。「こんな変人でも、いや変人こそ歴史に名を残せるんだ!」と励まされる。=自分の個性を貫く自信がつく。

・クラシックが本拠地で、ある意味そこで完結しているので、現実が性欲と食欲の掃き溜めになる。現実での不毛なやり取りに躍起にならない。余裕を持てる。

 

近代国家か大衆国家か

前者には「少数者であろうと多数を得られ、近代的技術が少数による多数の培養=潜在的多数の獲得ができる」と言うニュアンスを込めた。

大衆国家など「現状」でしかねえよ。

そもそもお前の中に少数と多数があり、1匹と99匹で、お前の中のどうしょもねえ夢に牽引されてんだろ。

 

「大々的な被差別経験の歴史を持ち、世界的な影響力を持っている民族」など、ユダヤ民族しかいないのだ。圧倒的に目立つ。

要はイスラエルは「西洋文明を濃縮的に実行」している国なのだ。

 

オルタナティヴ 白金 アスパラのカンディンスキー、土釜蓮根

カンディンスキーの「コンポジション」と「ムルナウの機関車」を思った。そして昔から「いつかこの2つの作品(そのものでなくても類似の印象的な何か)を並べて、何かを思う経験をするだろう」と思っていた。

それをまさか食を通じて経験する日が来るとは。

日本も八百万の神と言うが、八百万の神々にも方向性があり、日本の場合は「宇宙生成、地球生成、農業系」の神々が多い。

ロシアの場合、抽象的思考や数字やコンピューターにも生命を感じ取る八百万の気配もする。抽象もまた生命なのだ。実際に今回、カンディンスキーを食べている。まさに生命。

一方で泥の中にある蓮根も生命なのだが、泥の中から生える蓮の花も、泥の中に埋まる蓮根も「抽象物」のような造形である。紛うことなき客観性・物質性がある。

ムルナウの機関車はノスタルジックなタッチではあるが、あれは夢を見ている脳ミソに電極を刺すと現れる映像に似ている。人間の夢やイメージは朧気だが、避けられぬリアルさがある。人間は生の現実など認識できはしない。おぼろげな認識で、おぼろげな客体を感じ取り、おぼろげに解釈するしかない。だがその生々しさよ、突き刺さる夢よ、君臨する美よ。世界を見れば、おぼろまみれのうつつの中に、それぞれの意味やイメージを思い描いて出来上がっている。

「幾何学的造形、蓮根の生々しさ」、そのそれぞれに夢と現、抽象と具象を共に感じる。数字も生命、蓮根も抽象物。実際に泥の神様が「泥を抽象的に造形してみました」と言って、蓮も蓮根も出来たのかも知れないしなw 幾何学的造形も数字も意志を持って歌っているのかも知れない。

 

フランス料理も前進するが、西洋文明も永遠に西漸し続ける。イギリスの産業革命が近代を切り開いた面は非常に大きいが、世界各国が「近代西洋男性」を追求するために、力を持ち寄っている。

で、日本とロシアの無い西洋など「ザコ」になってしまう。そこはさすがアメリカ、見事下したのだ。

日本は女体であり、ロシアは雪だね。八百万、ベルゼブブ。

チャイコフスキーなどロシアの作曲家がいない近代西洋音楽など考えられぬ。ロシアの演奏家がいないのも然り。

チャイコフスキーの楽譜の上に妖精たちは踊っている。

 

夜になると日は落ちる。「なので諦めて環境に適応しましょう」とは言わず、人類は明かりを発明した。松明を掲げた原始人が、では「太陽の仕組みについて詳しく知っていたのか?」と言うと、「夜になると日は落ちる」くらいしか知らなかったはずだ。それでも「暗闇から距離を置けた」。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言う。詳しく知らないと攻略できない対象もあれば、あまり知らなくても攻略できる対象もある。敵と求める程度に寄るはずだ。

「知り過ぎて同化してしまう」と言う面もある。江戸の街を破壊できたのは薩長土肥の田舎者どもで、江戸っ子には出来ぬ仕業であった。

「外国語を学ぶと、その国に同化し過ぎて、弁護する立場になってしまう」と言う例もある。スパイ的に敵を学びながら、距離を取り続けると言う作法もある。スパイとて自国を裏切り、相手国に同化してしまう例もある。

アスパラガスの生育環境を学んだからと言って、自分が土に刺さって育つわけでは無い。環境を知ることで、環境を人工培養して養殖が始まる。松茸菌の人工培養は未達成のようだが、いつか?

「相手を知ることで相手を乗りこなせる」と言う面はあるが、人類の数は多いので、なかなか折合いが付かない。それでも「これから役に立つスキル」とは言われる。

でもAIが超越すれば「次は~~の時代」ではなく、次は全てが役に立たなくなり、どう生きるかになるかも。

永遠に人工培養できないものがあっても良い。神は万物を作れるからだ。

 

環境に合わせると言うが、「人それぞれ合う場所」と言うのがある。宇宙環境に裸でフィットできる奴はもはや人類では無いが、いつか超人になるのかも知れぬ。

全ての環境に適応して、適応異常を微塵も起こさぬ人間は今のところ現実的でない。「相手を知らないと乗りこなせないんですよ」と言うが、「いや相手に乗られてるし!」と言う場合が多い。キリスト教は地母神も研究したが、地母神に乗っ取られた?乗っ取られていない?微妙である。

日本は変わらずに女性的である。

「敬して遠ざく」くらいが環境に飲まれないためにも良いのではないかとすら思う。木乃伊取りが木乃伊になるではないけれど。

「文化的に生きる。環境に適応して生きる」と言うが、そもそも文化的に生きられているか?環境にそれほど適応できているのか?

 

人間なんて全員マヌケ。全員マヌケったって大将には敵わねえや。でもマヌケの大将って人気者になりそうだ。全員大将を目指せ。マヌケへの道。カトリックは本来南国宗教。

 

「近代の特徴×その国の文化×個人の性質」

それで色々なものが浮かび上がって来る。森鴎外からの近代の作家達はその点を突きつけられ試行錯誤していたわけで、問題になっている諸々の何と痛切なることよ。悩める若人は励まされることだろう。

宮台真司の旨味を味わうなら、俺としては、その辺を言いたい。「近代日本及び日本人が何にどう苦しむか」ってね。

 

自然環境の複雑さを知らぬ都会っ子の軽薄さ
確かに攻略するためには「敵を知り」ではあるが、「全員が深刻であれば解決策が出てくるか」と言うと、そうとは限らぬ。
適当なノリで数を揃えてしまえば、その中から適当なアイディアと人工知能が生まれ、結果深刻で複雑な問題も解決される。

「数とノリ」が都市の力とも言える。

 

本居宣長も「パピプペポ」は古来日本になかったと言っているが、ではサッカーの応援で「ニーッポン、ニーッポン、ニーッポン!」が無くなるのであろうか?それは悲しい。

 

「『笈の小文』も読まずに芭蕉を語るな」と言うが、語る。

まあ説教として「笈の小文も読んでおくと良いよ」と言うことだろうが、本気で言っているなら弱すぎる考え方だ。戦争に負ける考え方だ。

読まずに芭蕉を語り、凄い人など幾らでもいるだろうからである。

そういう言い草って「古典や戦争」ではなく、「文化や生き様」問題なんだろうな。「登頂すれば何でもOKなのだが、未だ誰一人登頂していない山」というのが古典だ。

笈の小文を読んでいるお前も登頂していない。

読んでなくても登頂する奴が出て来るかも。

ひょっとしたら読んでない方が良いのでは?

笈の小文を読んでいなくても、それに匹敵する経験をそいつは持っている(そりゃそういうもんだろう。それが人間だろう。そいつだろう)

そもそも人類などカタワの集まりであり、凸凹で何とかしていくものである。ポンコツ同士が集まって、うねりを捻くり出すものである。

そんなもん読まなくたって俺には俺の掛け替えのない人生がある。芭蕉もその掛け替えのない一歩を踏み続けて芭蕉になった。

読んでる奴に聞く。

読んでも心そこにあらざれば読まずに等し。お前に心があると思っているなら笈の小文を読んだ価値もねえ。お前の小ささを思い知るために巨人の跡を辿れ。

 

遺伝子によってどのような生物になるか変わる。

一度生まれると風土や餌によって決まる。

ところで女性器の香りは三層に分かれている。

第一層 食物

第二層 風土

第三層 言語

言語によって女性器の香りが変わるなんて随分精神的なことと思う。

 

花が虫を誘惑して繁殖するように、大根は人間を誘惑して繁殖する。

大根の気持ちなんて理解していたら、大根の思う壺である。

そもそも大根に時間を取られすぎる。

 

不明なものが現れた時に自分の常識の範囲内にとらえて心を開けない態度。

茶化すという行為はそれに似ている。

エックスをエックスとしてぼんやりと眺める心。

 

欧米人は「非文明人=野蛮人」と見做す傾向が強いが、日本人の感覚だと「非文明人=素朴な人」くらいの認識である。実際欧米人はよく戦争をしてきたので「昔の人=戦争しまくりの人」くらいに思っているのかも知れない。

ただ考慮すべき点もあって「昔大暴れしてあの頃はバカだった」と思い直し「大人しい大人」に育っていくのである。

あるいは「近代化≒想定人数が莫大」だから「暴れたら自分が終わる=世界は繋がっている」と言う本能を獲得できたとも言える。

これらの点、男の成長に似ていると汲み取っても良い。

 
【ヒューム、ふぁ~の補給、甲骨文字とワープロ文字】

甲骨文字あるいは楷書にさえニュアンスはある。

ワープロ文字になると御覧のようにそれが非常に少ない。

でも人間の「ニュアンス欲」と言うのは左程変わらない。

どこかでバランスを取ろうとするはずだ。

ワープロ文字をふぁーっとさせ、ニュアンスを付ける。

甲骨文字がそうであるように地面から生えて来て間も無いものは、まだ「ニュアンス≒大地のポエジー」を纏っている度合が強い。時が経つと、それが取れて干からびて来る。

英語圏は科学が発達する代わりに芸術が弱い。しかしその英語圏で近代絵画論としてヒュームが「感覚≒ニュアンス≒ふぁ~」を大事にしなさいと言ったのは「ワープロ文字≒英語まで行っちゃってるから、逆にニュアンスを取り戻さないと欲求が満たされないよ」と言う本能の声であろうか。

「大地≒母性」から遠のき、「天空≒父性」に近付くほど「ミルク≒母性」で口内を滑らせておかないと身が持たない。西洋人が古来より乳製品を多く摂取して来たのは、そのためである。そう三木成夫が言っていたことに似ている。

 

女は脳梁が太い。男は脳梁が細い。

女は感覚を言語化しやすい。逆に「言語化してしまう」とも言え、女の芸術は「漫画絵っぽい、スーパーのチラシっぽい」とも言える。

男は感覚を右脳に置いたままにする度合が強いが、それを取り出す訓練をしておかないと、感覚を置き忘れてしまう。

女の場合「感覚と言う微妙さの塊を、言語化して切り落としてしまう。素材は多くても、一つ一つの扱いが雑」

男の場合「感覚を右脳に置いたまま忘れてしまう。一部だけを言語化し合理化してしまう。言語化する素材が少ない」

日本人の左脳傾向=女脳傾向を言った人がいたが、その人が「日本人は外国語とクラシック音楽をやると良い」と言っていたが、それを思い出す。
私は「男は油絵と料理とサバイバルをやると五感が研ぎ澄まされた挙句、それを言語化もしないとダメな状況に追い込まれる」と言う。

女の場合「油絵と料理を、漫画絵と家庭料理で済ませてしまう」傾向が強いので、どうすれば良いか。濃厚な〇〇Xか。分からぬ。しかもそれだと相手がいないと出来ない。

 

【再掲】

解剖学者の三木成夫が「内臓系最強が心臓であり、体壁系最強が脳である」と言っているが、男女差の象徴としては先ず性器が大きかろう。私はそれに加えて「脳梁の太さ」に目を付けている。男女で脳梁の太さに違いがあるか、それが本当に科学的事実かは分からないが、そう仮定することで思い当たる節が多々あるのだ。

脳梁が右脳と左脳を結ぶ橋だとして、女はその橋が広い。イメージや感覚を担当する右脳、論理や言語を担当する左脳(色々と一概に言えないのは分かる)。脳梁が太いと「この橋渡れ」とばかりに、感覚を言語化する割合や勢いが凄いのではないか?日本は女性的であり、漫画がお家芸なのも、それであろう。

橋が狭ければ=脳梁が細ければどうか。「どうせ渋滞になるから止めておこう」と、所与の感覚が右脳に揺蕩うままに置かれる割合が大きくなる。男は女に比べて「あまり言語化しない」のである。感覚のまま放置しておく。

そもそも言葉とは抽出されて存在に至る。花という言葉が現実に存在しているわけではなく、あるのは人間が「花」として認識する物質である。一度言葉が出来ると、五感的に蝕知するだけではなく、その言葉に応じた認識が出来上がる。生の現実と言うより、言語的概念を操作するようになる。この流れで「言語=生の現実(っぽいもの)」だったのが「言語=マンガ絵・記号」的なものに変わっていく。一方でこれを元に戻そうとする動きも生まれる。さらに元に戻そうとするどころか「言葉=非現実、創作」的なものにまで至る。「ペガサス」などの神話もそうして生まれる。

PCでも映像や音楽のファイルは重いが、文字は軽い。女は男より多数の品数を認識する傾向があると言う。品数多く、一つ一つが重いと、やってられなくなる。だからパンパン文字化するために、脳梁が太くなったのではないか?(卵が先か何が先か知らぬけれど)

「生々しく得体の知れない現実的オブジェクト」では重過ぎる。「左脳化され無毒化されたマンガ絵」を好む。品数を増やしても処理速度が落ちない。女の連想能力の広さや素早さ、マルチタスクをこなせる力も、脳梁の太さを元にしているのではないか。

現代ホスト界の帝王たるローランドも「言葉の持つ力」を言っている。「女は感覚的、感情的生き物だ」と言うし、それはそれで事実でもあろうが、実は女は言葉に左右される割合が大きい。「行動や態度」とすら言っていないことにご注目いただきたい。「言葉」なのだ。

男は自らの性欲を元に、色気などハニートラップでよく騙されるが、女は言葉で騙される。ホストも言葉を大事にする。態度や行動を見ていれば、ホストのやっていることなど、酒を飲ませて女に大金を払わせるろくでなしである(?)。

感情的生き物と言うと「右脳が活発で、感性豊かで」と思いがちだが、女は左脳の方が活発で、実はガリ勉が陥りがちな錯覚や病に陥りやすい。「生の現実を観察し、フィードバックが強力」なのではなく、「机上の空論、脳内妄想、固定的定義でクルクルしている」傾向が強いはずだ。

卵子はどんな精子も受け入れ得るが、一度受精すると、その精子だけを元にして展開する。一度言語化されると、その定義をなかなか変えないことに似ている。帰納に乗り気で無い。頑固なのである。カオスからコスモスになり、一度花が咲くと、閉じる傾向が強過ぎる。途中でやっぱ他行くと言う卵子は無い。

日本に色々な「文化」が残っているのもその為である。「古典」的に統合される傾向は弱く、それはそれとして、卵子が閉じるように、そのものとして続く。 神仏習合と言っても合体して原型が無くなるのではなく、それぞれ元は元として続きながら、影響を与え合う。

 

日本人は日本語ネイティブだから日本語を乱暴に扱うが、だからこそノリや場に合った言葉が出てきたりする。それは文法的に破格の場合も多いが、それはそれ。ピタッと来ている。

 

母親の田舎は銚子で、銚子の名物は秋刀魚である。焼きもし、煮もし、佃煮にもする。ある意味、秋刀魚を乱暴に扱っているようにすら思える。本場とはそんなもので、余りにもありふれているので「その素材に対して都市の爛熟」的な状況になる。乱暴にも思えるが、そこから様々なアイディアが生まれる。

「ネイティブとしての自信」のようなものがあり、今日は秋刀魚を苦く喰いてえからピーマンとコーヒーをぶち込んだ。それに対して「秋刀魚の香りが消えちゃうよ」などと言う意見が出てきても「うるせえ!塩焼きばかり喰ってられるかよ!」と怒鳴られる(ちなみに銚子とは本当にそう言う場所ですw)。

これは「素材を活かすか否か」と言う話ではなく、「本場かどうか≒豊穣による自信があるかどうか」と言う話である。古典の中に住んでいる人は「あたりめえ」なので、大胆不敵になりがちだ。それは日本人が日本語に対して大胆不敵なのと似ている。

外から観察するように学ぶことで謙虚さは得られるが、古典の中に住む大胆不敵さは失われる。私の場合、和歌が好き過ぎて、と言うより「自分を自分の好きな物で囲み過ぎている為そのような状況になっている=自信家でいられる」面はあるだろう。

秋刀魚の佃煮を作るとして、激アマにしようが、塩辛くしようが、生っぽくしようが、その時の気分で自分に引き寄せる。で、いざそうしたら、アホじゃないんですからね。それなりに素材も活かしますよ。ならば秋刀魚レシピの百花繚乱。個体差などにも柔軟に対応できるんじゃないの?知らんけど。

 

ホストは女を乱暴に扱うが(?)、結果その乱暴さが「女=素材」の心に適う時なんて幾らでもある。女の方から彼の乱暴さを肯定してくれたりもする。複雑怪奇な国際情勢。

 

私の場合、和歌なら「花が散る」と詠うだけ。ことさら詩的シュティムングなど出さぬことも多い。いわゆるポエムっぽくしない。

「花が散るんだから、それだけでフワッと感もあんだろ?」ってなもんである。

一方でいわゆるポエムっぽくする場合もある。

どちらもOK牧場。花鳥風月を信じてる。

和歌の中に住んじゃってるから「端くれでも美味いものは美味い」で、お客様に対しても「これ美味くねえ?」ってなもんである。何か言って来ても「そうなんだけど、これも良いだろ?何喰いてえ?それもやるわ」ってなもんである。楽勝ムードでOK牧場。

 

・単一焦点による遠近法で西洋絵画が磨かれた時期も非常に長い。技術や考えや教育方法も蓄積される。

・絵は右脳で描こうで、あそこまでのリアルさは右脳で描かなければなし得ない。それはヨーロッパだけで起こった。

・hereではなくthereにリアルな世界を作りたいという本能。リアルな絵を描けば絵の中に現実的な世界を感じ、その欲求は満たされる。

・ピカソは脳内妄想ではなく、具体的な対象を描いた。男はそもそも目で外を見るのが好きなのだ。

・セザンヌはそもそも単一焦点の遠近法やリアルな描写が苦手なのだ。

・My way My Worldを往くにも、それに匹敵するものが欲しい。別に西洋絵画ではなく大和絵や水墨画に習ったって良いわけだが。

・自分にとって必要な技術を身につければ良いわけだが、何が必要で何が栄養分になるかは分からず、ならば蓄積された古典的技術を全て吸収した方が良いだろう。

・だが残念ながら人間はスーパーマンではない。

・だが古典レベルになっているものは人類史上1つではないので、自分に合った古典に身を浸すのが割と安パイでしょうか。

 

個性が好きだ。深いから。
ツボは人それぞれ違い、その連関となると尚更だ。
宮大工の西岡常一さんも言っていた(?)。
「近代絵画とそれ以前の全ての絵画、どちらが好きか?」と言う話なのだが、近代絵画の方が好きだ。
近代とは「個性を発揮するに遠慮がなくなった時代」とも言える。

 

個性を発揮できているか?

そもそも個人の中には「社会、伝統、文化、古典」などが不可避的にインストールされている。

「あんまり個性的じゃない人間×それら」⇒自分のDNAが活性化⇒個性的な人間

「個性的な人間(それら無し)」⇒自分のDNAも活性化しない⇒非個性的な人間

 

「人それぞれは当然だが、100円を100x円にされたら堪ったものでは無い」ので、そこを統一したい気持ちは分かる。

イスラム教が神に土下座するのも、有限なるものは小さく、神は無限である以上良いアイディアだ。ただ時間や場所も決められているそうで不便さはある。

神は無限なのではあるが、神を解釈するのは有限なる存在である以上、「ある法律=有限なるもの」を絶対視することは許されない。「多様な意見」が優れているのはこの点で、「神が絶対と言っておきながら、現人神信仰をする勢力」を牽制できる。神は無限である以上、有限なる存在の解釈に正解などないと。

で、まあ、じゃあ、どの程度が良いかと言うことを、儀式で表したいと思います。 先ず中央に台があり、その上に大阪の食い倒れ人形が乗っている。その周りを「芸人が舞台に出る時に囃す動作」で人々がグルグル回る。それが街のあちこちにある。誰がいつやっても良い。突然勃発する。

 

弱者男性などと馬鹿にして、そこにモラルの崩壊を見る。

「現実なんて強者の思う通りだ」と言うなら、強者とは何かを問いたいし、それは歴史を知らぬと言いたい。何が強く、何が弱いんだよ。

イーロンマスクは強者男性か?マークザッカーバーグは強者男性か?

ふざけたノリに憧れるな!

 

何をどう名付けるかは決まっていない

・「flower、花」など世界には色々な言語がある。

・しかも同じように見えても「微妙に指す対象が異なる」。

・原始人アンケートの例「はな60人、ふぁさ30人、ぬと10人」)

先ずここで本能的に嫌がる人も多いはずだ。

・実際に古代社会(だけではないだろう)では「言葉の統一」が問題になる。「統一しねえとバラバラのままで何言っているかわからねえ」

・同じ言葉を使っているように見えても、人それぞれ、その言葉に込めた意味が違う。孔子もこれを問題にしている。

実際に「100円です」と言われりゃ「はいわかりました」で済むが、「100x円です」と来たら、いくら払えば良いのか不明である。

 

で、それはそれとして「原始人レベルに戻りてえ。ある言葉に色々込めてえ」と言う欲求も発生する。これはおそらく「ふわっとしたい、気持ち良くなりたい」からだろう。昔懐かしのアルバムをめくり、ノスタルジーに浸れるのは思い出が蘇るからで、それは味気ない証明写真ではない。

詩人も言葉を味気なく使いたいわけでなく(そう言う場合もあるが)、ある単語に何らかの思いを乗せたいわけだ。缶ビール1つで飛べたらこの上ないように、一つの単語で飛べれば最高だ。

 

人工言語と言えばエスペラントだが、AIに無限の人工言語を作らせるのも乙なものよ。

 

全員外国語を喋っている。

通じないか?通じないだろうなw

でも何かニュアンスは伝わる?

 

先ず過去も含めて中国やイスラム社会を見た時に、別に野蛮で発展していないと思えない。「ヨーロッパで言うと、まともなのは古代ローマ帝国と近代以降だけ」と言う人もいる。 だのに「他を見下せる、思い切れる」ところに欧米のアホさもあるが、その勢いがパワーにもなる。

要は「なんでそんなに偉そうなんだ?」と言う話なのだが、偉そうになるにはなるだけのパワーがあり、偉そうになれたらさらにパワーが出る面もある。

LGBT問題など特に象徴的だが、別に東洋では、キリスト教的に同性愛をダメとする文化もあまりなかった。

「お前等が勝手に差別して、勝手に謝っている」だけなのだが、俺達がそう言う順番だったから「他の地域でも昔は差別したから、今は謝る時期に決まっている」と思える太々しさよ!

 

技術のある人が「畏れ多いもの」や「よく知らないもの」を描く場合、結果的に「右脳も活性化」している説は、橋本治がそう言っていたわけではないが、「蒙古襲来絵巻の蒙古が乗っている船」とかがそうで、橋本治もそこに言及している。源頼朝像、那智滝図、紅白梅図屏風(尾形光琳はスケッチしまくり)、国立博物館にある「普賢菩薩像」も良い。

一方、個人としてアベレージが高いのは俵屋宗達であり、これは皆が言及している。日本の絵画史の総決算だから(橋本治もそう言っている)、そりゃそう言う風になっているわけで、技術もある右脳派が遊び心を発揮するとそうなる?輪舞図、松浦図屏風、大津絵、永観堂の作品も良い物が多い。

で、日本絵画ってアベレージで言うと、絵好きからすると、ハッキリ言って低いんだよね。ホームランは他の国に引けを取らないけれど。

日本の絵画って結局、マンガ絵が多く、雪舟を水墨画の代表のように扱うが「あんなもんマンガ絵」であり、確かに「日本的神代感覚」はあれど、絵画としてなんぼのもんじゃい。 永徳にしても日本的神代的野生はあれど、絵画としてどうかなと。

では「日本で美的アベレージが高いものは何か?」と問われれば、「料紙込みで仮名書です」と答える。それにしても楷書的3D感覚が無いので、ワープロ文字的になってしまっているものも多い。メディアなんて記号なんでしょうな。手塚治虫も晩年そう言った(書けなくなった悔しさもあるだろうが)。

 

日本人はマンガ絵で色々書くのだから、好事家もAIを使って、作品を作れば良い。「見るばかりで作れねえのかよ」と言われてきた人達よ。復讐の時が来たのだ。

料紙に字でも円相でも何でも良い。バックも絵も文字も、AIをコントロールしながら作る。掛け軸にしたりしてな。

 

お前如きが「社会のバランス」を考えても埒が明かない。

言いたいことを言え。

複雑怪奇な国際情勢であり、お前の意図など離れて、何がどうなるかなんて分からないんだから。

思慮浅く生きろと言っているわけじゃねえ。

真面目に生きろ。お前の精一杯を曝け出せ。

 

ユダヤ人というのは

経済SS

学問SS

芸術S(映画だけでなくユダヤ人滅茶苦茶多いよ)

政治・外交・宣伝が「B+」くらいか。

政治外交宣伝がそのレベルなので、問題を起こす。

逆でも良い。他がSSクラスなので表舞台に出ざるを得ない。 ところがそれらがB+なので、問題が起きる

それが面白さでもある。問題を起こす民族なのだ。 漫画の主人公でも「自分で問題を起こしておいて、自分で解決しなければならない」奴がいるが、それで漫画が生まれるんですからね。

 

「言語・風土・好み」で、角度が1度ズレれば、終には広大なズレが生まれるように、「古典とネットと自分」がいれば、「バリエーションにも困らないのでは?」と思う。

 

伝統とは「何らかの価値観を共有する者の中で、有形、無形を問わず受け継がれ、未来に向けて受け渡してゆく意味や価値のある事象」

古典とは「過去に生まれた優れた表現や作品で、時を経ても、場所や言語が異なっても、受けとめた人間の胸に響き、明日の糧として昇華するもの」

グーグルAI

私の場合、先ず伝統とは「意味」と頭に浮かんだ。「人から人へ、主観、風土的、セット、意味が既定的、過去から現代と言う時間軸、文化的」

古典とは「科学的方法」と浮かんだ。天空にプカプカ浮いている。「客観的、意味を付与する、バラバラ、時空を超えている、文明的」

文化とは「時間と空間の中で実践される生活」

文明とは「超時空にある方法」

と言う意見もある。

「世代を超えて共通的価値観を持った人間達が作る世界観」と言うのは「一人で作ったのではない」重みがある。

ただ既定的過ぎて、田舎から脱出したい人間も大勢いる。

ただ故郷に戻ると、変わらない街並やしきたりに落ち着くとも言われる。

感覚だけではない「歴史的意味」もある。

AIによって「歴史、仲間、先祖、街も生成する」。まあ、実際にSFやゲームではある。

都会的自由を前提にしながら、「歴史ある国」を作る。

近代の宿命?アメリカ?「郊外化する現代」?

「古典的ではなく、伝統的作品を作れ」と言われた場合、「その作品だけで感覚を楽しませる」のではなく、「その作品を越えた意味」を念頭に置く割合がやはり強いか。

共同体で何故その行事をするのか食べるのか飾るのかなど。そこに込めた意味。その日は何をするのかなど作品を越えた繋がりや意味。

「古典的世界観」と言うのもあり、「作品を越えた意味は古典にもある」と言われた場合は、やはり「伝統」と言うだけあって「過去から今に伝わる時間軸」的なところを思うか。

「古典にもそれがある」と言われた場合は、そりゃもう「古典にも伝統があるんですよ」と返すか。

ところでもちろんフランスにも「伝統」はあるが、「古典≒文脈を無視した方法論が強い国はどこか?」と問うと、逆にフランスが際立つか。科学はイギリスが強いが、伝統の国でもある。理念的には「自由平等博愛」だしな。「個人主義」の国だし。

【感覚と理性が強い民族性と民俗性】

その根本には「感覚と理性」が強い「民族性・民俗性」と言うのがありそうだ。福田恆存が言っている通り「フランス哲学と言うのは心理学、認知学っぽい」。カメラは色を捉えるが、意味を捉えない。調音機は音を捉えるが、意味を捉えない。

【アーノンクール】

アーノンクールが「パリ音楽院の教育で、音楽から言語的意味が失われた」と言っていたが、私にはそれもフランス的宿命のように聞こえる。

フランス好きは「シューマンは悪い意味で文学的と馬鹿にする」傾向もある。ワーグナーのライトモチーフも然り。意味ではなく感覚を味わえと。

【感覚は意味も生成する?】

ただ五感は繋がっており、それは意味をも形成しそうだ。ある対象を五感で捉えた瞬間、感覚だけでなく、歴史的意味すら思ってしまう力が人間にはあるのかも知れない。その意味で「伝統的」な作品とは「五感繋がり&意味生成」をする?それこそ古いアルバムのように。初めて見たのにだよ?

【原風景】

それで言うと「原風景」と言うのも面白い。

原風景と言うのは、自分だけのものではなく、初めて見た人にも「懐かしさ」を誘う。棚田の夕焼けとかな。

あれを見た時に、人々の声や、歴史や、夕飯の匂いすら感じる。年中行事や意味すらな。

初めて見た原始人にもそう思わせるのでは?

【先天的な街や歴史的な感覚?】

街や歴史を形成したことのない原始人にさえ、街や歴史を思わせるなら、それはもはや人間の脳かどこかに、先天的に「街や歴史的なるものがある」と言う摩訶不思議な世界観になって来るが、まあ、あっても良いだろう。

 

まぁそもそも人間の好みなんて経験とか歴史によって形成されると言うからな。 母ちゃんの歌こそ世界一じゃないけど。100m走でウサインボルトに勝てる母ちゃんというのもいないけど。母ちゃんの走りこそ世界一!w それも愉快でいいけどなw

まぁでも高校野球とかってそうだよね。我が息子同士を戦わせるわけだから。もちろんそれは野球という物差があるから出る結果ではあるんだけどね。そしてそれは全ての競争がそうなのだけれど。

 

「ゲームの歴史」と言うと編年体と発展の整理などだろうか。

「ゲームの伝統」と言うとゲーム制作・ゲームプレイヤー・ゲームが盛んな社会などゲームを軸にした社会模様を総合的に思う。

「ゲームの古典」と言うと「ゲームの名作」だね。

 

俺の中では、伝統と言うと「過去から現在に伝わり続けている有機体」という印象なのかも。

〈有機体〉

1.それ自体に生活機能をそなえている組織体。他の物質系と区別して、生物のこと

2.多くの部分が緊密な連関をもちつつ統一された全体

 

西岡常一が「古いもの古いもの言うけど、古いだけならそこら辺の石ころでも眺めてりゃあ良い」と言っていた。俺はそれを聞いた時「それも良いねえ!」と思った。「砂も地球のかけらなんだと、いつかあなたが話してたね。そんな言葉を思い出すたび皮肉ね心救われるよ」

 

ところで伝統が育んできたものというのは、重みが違う。ところで私は和歌なら和歌だけを学び、平安貴族の生活全体とか時代状況に興味が無い(結果的に少し知っている程度)。まあ、性格ですなw

 

「和歌の歴史」と言うと、万葉集から古今新古今、玉葉風雅などなどの並びだろうか。

「和歌の伝統」と言うと、和歌を詠んできた人々の名前や冷泉家なども思う。新年の歌会とかな。和歌が続いてきた社会。

「和歌の古典」と言うと、もうこりゃ「万葉集・古今和歌集」だな。「新古今」でもうダメかも。

 

「伝統・古典」の分け方で連想するのは、

「時間的」と「空間的」

「文化的」と「文明的」

「生活的」と「方法的」

「意味的」と「イメージ的」

「感情的」と「感覚的」

「それ以外」と「それだけ」

「人的」と「物的」

「主観的」と「客観的」

 

ゲームだったら職業が決まっており、推奨ビルド、戦い方、レベルアップ法も書いてある。ペットの飼い方もそんな感じだろう。一般的健康法やコミュ術などもそうかも知れない。そしてそれは良いことでもある。

だが自分を深掘りするためには、良かれ悪しかれ「ゲームではない」現実が突き付けられる。まさにエックスであり、「自分の可能性は無限だ」ってやつよ。綺麗事ではなく教師の励ましでもなく。自分の得体を知るのに試行錯誤せねばならない。

自分の得体を知るためには何が大切か?人それぞれなのだが、ここで「メンタルの強さ」なんじゃねえか?と思ってます。何がどう役に立つか分からない。人が軽々こなすことが難しい。逆もある。「あなたがこうなるためにはこうすれば良いですよ」と言うテキストは無い。参考になるテキストは多くても。その不可知を前に七転八倒できるか。厳しい現実を見詰められるか。

「ディレクションってセンスの良さだけでなく、事実を客観的に見る精神的強さがなきゃできないのよ」と夢の中で誰かが俺に語ったことがある。

 

「そいつはそれをどう受け取ってんの?≒そいつにとってのシニフィアン・シニフィエ」

「どうしてそういう好みになったの?」

これを研究する学問ってなんだ?心理学?「体質学とか体液学かも」と言ってみたくなる。

 

昔は限られた地域で、限られた時期に、限られた食材を活かさねばならなかった。

自由になっても、そのままを伝える場合。(水打ち)

どうしてそれを選んだかを抽出して方法化する場合。(エアコン)

エアコンが出来ても、水打ちには風情があるし、エアコンには無い作用もあるはずだ。水打ちの知られざる効用については「今後の発見も期待されています」。さらに見付かるかも知れないんだってよ!

万物はエックスであり、汲めども尽きぬポテンシャルを持っているからな。

ジャガイモから何かを抽出した。だが抽出の仕方は一つでは無いし、今後の科学的進歩などによって「ジャガイモからそんなものも引き出せんの?」と言う事態になるかも知れない。

 

 

 

 

 

 

クリムト色々

「海港シヴァの女王の上陸」

牧谿のあれ

カルデロン「破られた誓い」

ザオウーキーのいいやつ

シャガールのいいやつ

フラゴナール「スヴニール」「ピエロ服の子供」

オズワルトアーヘンバッハ「ナポリの花火」

藤原隆信「源頼朝像」

仙厓

白隠

夏珪

松林図屛風

雪村

山口薫「わが竹の庭」「輪舞図」

松田正平「おひょう」「ひらめ」

高麗仏画いろいろ

織田広喜

三岸節子のいいやつ

長谷川利行の水彩が多めかな

佐伯祐三

川瀬巴水

カンディンスキー「ムルナウの機関車」

尾形光琳「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」

俵屋宗達「蔦の細道図」「舞楽図」などいろいろ

ルノワール「ぶらんこ」他ホームランはある

ルソーの好きなやつ

マティス 室内画もデッサンも。デッサン最強

デュビュッフェ

ブーシェ

フラゴナール

ワットー「ニンフとサテュロス」

ムリリョ天使系は最強か

モネ「ヴェトゥイユシリーズ」「日傘」など色々

ベラスケス「ラスメニナス」

「二河白道図」

クレーいろいろ

シモーネマルティーニ「受胎告知」

「誰が袖屏風」

浦上玉堂

イワンクラムスコイ「忘れえぬ女」

小村雪岱

ダヴィンチ「モナリザ」「受胎告知」いろいろ

ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」「春」

ラファエロ「聖母像」

デュフィ

范寛 北宋初期

ブリューゲル「雪中の狩人」

船越保武の左手のデッサン

青木繁のいいやつ「よもつひらざか」など

アリシェフェール「亡霊」

彦根屏風

上村松園「序の舞」

「松浦屏風」

永観堂「山越阿弥陀」「二十五菩薩来迎図屏風」「千手観音図」「當間曼荼羅」「阿弥陀二十五菩薩来迎図」

法隆寺「飛天図」

天野山金剛寺蔵「日月山水図屏風」

東京国立博物館「普賢菩薩像」

大津絵

酒井抱一「月に秋草図」「秋草鶉図」

葛飾黄為「吉原格子先之図」

日吉山王本地仏曼荼羅

隆房卿艶詞

四季山水図屏風 周文

雪村 波濤図

扇面散図屏風 俵屋宗達

カルロ・ドルチ 哀しみの聖母

マリーガブリエルカペ 自画像

ギュスターヴドレ ラ・シエスタ スペインの思い出

藤田嗣治 坐る女

ヴィルヘルム・ハンマースホイ《居間に射す陽光Ⅲ》  1903年

ソフス・ヤコブセン ノルウェーの画家

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・和歌の適性があり過ぎる。和歌の適正は一様ではないが、俺も究極の一つだろう。「儚さを花鳥風月=美しい素材で表現する」

 

・和歌を詠める。「歴代の天才たちでも詠めなかったものをお前に詠めるわけがないだろ。はははw」と馬鹿にしてくれた奴等よ!

 

・陶器や近代西洋絵画のニュアンスに敏感で俺より上はいない(と思い込んでいる。俺なりの受け止めも一つの究極)

 

・文系偏差値80オーバー。理系偏差値は40だけど。文系能力100、理系能力2。文系意識98、理系意識0。高校で行われた公式のテストでの結果。全国かは分からないが、一校だけでなく一斉的なやつ。

 

・早稲田塾の先生や松岡先生に褒められ、「だったらもうそれ以上ない」と思った。宮台真司さんや浅田彰さんや池田信夫さんも俺を馬鹿だとは思っていないだろう。

 

・俳句に全体重を乗せられた。俺の美意識、学んできたこと、日本と言う方法色々、編集術。全体重を乗せ切れたので、貶されても俺としても冷静にその罵詈雑言や批判を聞ける。

 

・MW3DZが得意。俺の脳ミソの全てを出し切れた。

 

・保田與重郎のTwitterbotを作ったのは私であり、私より保田與重郎を使いこなせる奴はいない。日本美に非常に敏感なことが証明される。推して知るべし。

 

・福田恆存が「私の言うキリスト教は近代に於いて完成した宗教である」と言っているように、キリスト教を俺なりに消化昇華している。グレングールドが対位法に拘ったように、私は相対性とユーモアの大切さを基本としながら、美を決断する。そんな神学を繰り出し続けます。

 

・西洋文明が問題にし続けて来たこと や 歴史的展開は、俺の問題意識と成長の歴史に重なる。「俺=西洋文明」と思える。

 

・俺はベルゼブブ。「一寸先は闇」と本気で思えている度合が強い。お前等と来たら、本当はあまり闇じゃねえのな!地雷除去をしている人達に比べれば、確かに闇は浅いかもしれないけど、満遍なく薄暗いw それに自信ありますw。「政治とは可能性の芸術である(ビスマルク)=政治とは可能性を扱う仕事である(俺)」

 

・flickrで写真を集めた。「日本美」で、ああいう風にできるよ。ところで諸君には出来るのかな?

 

 

・「色々書いてあるので、そちらをご覧ください」

 

・「書くと忘れるんですよね」

 

・「持ち帰って検討します」

 

・「思慮深いんで」

 

・「都会っ子なんで」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「キリスト教は憎悪の宗教」という説は、やはり私にも興味深くて、ニーチェもDHロレンスもハンナアレントも、チェスタトンも明確に言及している。

 

「弱者の嫉妬、活き活き生きている奴等への嫉妬、健康への嫉妬」etc

 

ところで私は昔から「なんでこんな奴が威張ってんだ?」と言われることがある。

 

ギリシャでは自由学芸が高貴な学問とされ、その上に詩人がいる。

キリスト教時代になると「哲学は神学の婢」と呼ばれ「神学・哲学・自由学芸」という順番だ。

フランスって何の国?料理?恋愛?いや違う。芸術の国ですらない。そう、哲学の国。

戦争で威張るのは指揮官であり、現代世界で幅を利かせているのはGAFAであり、その社長達である。

屈強な兵士より銃器の方が強く、さらに核兵器の方が圧倒的である。

修道院やオックスブリッジは引き籠りの聖地だが、世界に影響を与えている。

ビルゲイツは「オタクタイプを大切にすると良い。将来彼等はあなたの上司になる可能性が高い」と言っている。

モンゴルの諺では「体を鍛えると3人〇せるが、本を読むと1000人〇せる」と言われる。

 

「なんでこんな奴が威張ってんだ?」という問いにズバッと返そう。

「16タイプ診断で言うと建築家だからである」

さらにテストステロンが多く、攻撃的で支配欲が強いからである。

「攻撃的な建築家こそ男の中の男であり、男性的な才能の塊」と信じちゃっているからである。

 

ところでキリスト教が憎悪の宗教という話なのだが、私からすると、「戦争に向いた社会を作ろうとする宗教」ではある。

戦争に威力を発揮する司令官や科学者が成長するまでには時間が掛かる。小学生の段階で暴れる奴等に潰されてしまうと、金の卵が劣等感に陥り、十分に育てない恐れがある。

そうならないように司令官や科学者候補を、子供の頃から大切に扱うようにする社会的厚みを自覚的無自覚的に作って来た、というのが私の見立て。

 

ヨーロッパは群雄割拠で地続きなので気が抜けないのだ。勝てる男を確保しないとヤバ過ぎる。

 

小学生は勢いだけ。

中学生は不安定過ぎる。

逆にこの頃の男なら、女の掌の上で転がせる。実際に中学生までは女の方が肉体的にも大きい程だ。

 

高校生になると、男は自分の世界を持ち始める。自我も安定する。「自分は自分、人は人」と思えてくる。ユーモアセンスまで身に付けられれば最高だ。ヒステリーからの卒業である。

肉体的にも男の方が大きくなってくる。

即ち女の掌の上で転がせなくなってくる。男には自分の世界があり、恋愛や結婚もどうでも良くなる。一方女は恋愛や結婚に惹かれ続ける。男に振り回される段階に入るのだ。

 

女は威勢がいい男に惹かれるが、威勢では戦争に勝てない。威勢のいい男は女を楽しませる役割は果たすが、それはアイドルに過ぎないのだ。女としては男には自分達を楽しませる存在であってほしいから、男に「むくつけき兵」になってほしくないわけだ。だが男の世界で威張るのは「戦争に強い奴」である。

 

小中的基準でカーストを決めると、女好みの男に威張らせると、戦争に弱い国になってしまう。それは致命的なことだ。

そもそも男の本能に合っていない。小中基準で威張っている男など、脳ミソが女性化されたオカマに過ぎない。

 

キリスト教が「憎悪の宗教、リベンジの宗教」と言うのは、私からすれば「小中基準で威張ってる奴等バカじゃねえの?」と言うことであり、それは「戦争の宗教」だからである。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起きたら親が運転する車に乗っており、鹿児島に向かっているという。くんくんも乗っている。俺は「なんでいきなり鹿児島に連れてかなくちゃいけないんだよ!」と怒鳴っている。

 

「近くのユナ空港とい相談う空港から俺は1人で帰るから飛行場まで送れ」と言っている。

 

鹿児島にいる人たちは経営者で、ガス会社を経営しているらしく、親たちも「ガス会社をやろうか」と相談している。俺はそれを聞いて「確かに悪くない」とは思ったが、うちの親にそんなことができるわけがないと思って、逆に怒りを強めている。

 

鹿児島まで結局ワープしたか自宅にいきなり皆でワープしたか。

卵を茹で過ぎて、5つも無駄にして俺が怒っている。半熟卵どころか、なぜか爆発したのだ。

親とクンクンが何かに夢中になっていて、そうなってしまった。

1兆分の1どころではない!?私は今、ワインを飲んでいるが、次の瞬間、またワインを飲むことも出来るし、他のことをすることも出来る。ワインを飲むにしても一口の分量も未定だし、飲み口を変えることもできる。即ち刻一刻の行動は無限分の1の確立で出現している。

さらに当然のことのように呼吸しているが、実は奇跡なのかも知れぬ。本当は此度の呼吸で、最後の呼吸になるのかも知れないが、どこかで奇跡が起こって、次の呼吸が出来ているのかも知れぬ。

ところで「当然かどうか」ではなく、そいつにとって「重要かどうか」が問題で、「俺が俺であることは当然であるから、次の瞬間、俺でなくなります」と言うのだろうか?

 

光の移動は繰り返されるが、あれだけ繰り返しているのだから奇跡も生まれているのだろう。「同じ(と見做し得る)」を繰り返す現象は幾らでも見出し得るのであってみれば、この世は不可避的に奇跡のパラダイス。

「例外のない規則はない」→法則を作れば奇跡が生まれる?