教育「ゲームと受験勉強に習ひて26」 | まあのブログ

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夢日記や神学などを書いております。

『神学大全』で「善」について語っている。

私流に解釈すれば「善とは完成、達成、実現」である。

「じゃあ泥棒が盗みを達成するのは善か?」とツッコミが入る。

トマスは「善だ」と。「そいつにとっては盗みが目的で、それを達成したのだから」と。

ミッションコンプリート「GTAかよ!」ってなもんだ

泥棒に向かって「盗みを達成して、やったぜ!と喜ぶなんてどうかしてるぜ」 と馬鹿にするだろうか?まあ、確かに「盗めておめでとさん」とは言わないだろう。だが常に「自分のやっていることが果たして泥棒の盗みに勝るものなのか」と問わねばならぬ。善など常に相対性に晒された覚束ないものだと。

ところで「美」とは何か。まあ、色々な定義があり、収集は付かないが、私がしばしば思うのが「善との対比としての美」である。「真善美」って並んでる、あれである。「善とは自分の中にある正しさ」で「美とは外にある正しさ」なのだ。別に常にこれを思っているわけではないが。

美は外にありつつ、自分の中に入り込んでくる。自分を捉えて離さない。その意味で「外にあるのに自分と関係を持って、グイグイ刺さる正しさ」である。アプリの加工前後、整形ビフォアフターの写真を見せられたらどうだろう?それらの定義に当て嵌まっている気がする。

整形の前後写真だけでない。私は「美の前に立たされた時、私は醜く、間違っていることを知る」と言う。別に「その美が絶対に正しい」と言うことも無いのだが(美は美で俺を美と見做している!?)、少なくとも、「俺の外に俺とは違う正しさがあるようだぜ」と気付かせてしまうわけだ。

日本語では「はづかし」と言う古語がある。「立派である」と言う意味だ。自分と比べて立派である。その前に立たされると、自分が小さく感じてしまうということだろう。居たたまれなくなる?わからぬ。

でもそんな経験を美はさせてくれる。うずくまったら、そこがスタートライン。クラウチングスタートだ。

 

陶器やクラシックや仮名書などニュアンスが好きなので、料理の盛り付けも出来ると思いきや、あれは苦手である。

得意な部分もあるが、それはニュアンスから行ける範囲内である。ただ写真の構図と同じで、才能ではないが、学べば取り入れられて、得意を活かせる範疇に引きずり込める。

そういうのは「まなぶ=まねぶ=まねする」と合理的だ。

「自覚すれば努力できるもの」×「得意」で、領土拡大を狙いたいものだ。

俺は才能だけで押し切る傾向が強いが、そこに甘んじない?甘んじる?どっちなんだい!

甘んじそうw でも写真は好例か。料理の盛り付けはチャンスが無い。

 

料理の盛り付けは、色々なところからアイディアの断片を取って来られる。ただそういうのをメモるだけで嵩張るんだよね。「手軽で嵩張らねえ」道具というのも大事です。

「好きな絵」を絵と共に並べられたのはインスタストーリーの御蔭。

 

日本料理が「食べることを通じて地球の一部だと知る」ことを要とするなら、フランス料理は何だろうか? 

「自由平等博愛を打ち鳴らす」ことが本義であると言いたい。

素材達に「君達には無限の可能性がある」と鼓舞し、「理想に向かって羽ばたかせる」と言うかね。

そして世界は実現される。

 

料理された素材達は精一杯を尽くした。料理する側としては素材達に「俺は自分に出来る限りのことをやった。燃え尽きたぜ真っ白に。監督、ありがとよ」と言ってもらわねばならない。

 

集中。

避妊してS〇〇するのは性的快楽に集中したいからだろう。

「生命の繋がりを知るために避妊してはならない」と言う意見もあるが、それを差し置いて集中している。

生体膜。

のんべんだらりと存在していれば良いものを、わざわざ「個体(と思しきもの)」を形成するのは、「自分」に集中したいからだろう。「個性=輪郭」を誕生させてしまう。

「ぼやきゅっきゅ」の法則通り、東洋思想が軽々しく「繋がり」を言う時、一方で違和感を覚える。輪郭がかなり強いからだ。「輪郭を強めに設定してしまった」からこそ、エクスタシーを多く求める。「繋がっている」感を多めに出す奴は、実は予め「定義が固定的」だったりする。

「輪郭があいまい=油絵=漫画絵的線引きではないもの」が基本だからこそ、「我」を強め、その挙句に「燃え尽きたい=射精したい」と言う流れになるのかもしれない。

人間の本質が男女を越えて同じだとして、そこから肉体的に差が生まれた。ならば、それに応じた処方箋が出されるはずだ。私が女性に出される処方箋にピンと来ないのは、私が男だからだろう。

「集中して、他を忘れ、カタルシスを迎える」と言う作法。

「他はどうなんの?」と言うが「何かが突き抜ければ全てがOK」になるのだ。全てを片付けることは現実的にも出来ない。問題は無限だからだ。

「カタルシスが根本にあればこそ、集中が生まれる」と言いたい。

何を以て集中とするか?「全ての繋がりを以て」と言いたいのかも知れぬ。そんな人間が存在したか知れぬ。出来ればそれはそれで大したものだが、別に「そんなの必要ない」とも言える。

と言うのは子供が花を見て大騒ぎしている方が幸せだからである。

「そのくらいで満足するなんて小さい」と言うだろうか?

小さくて構わない。大喜びの連続で結構なことではないか。花を見て、虫を取って、空気を吸って、夕焼けを見る。歓喜の連続がそこにはある。

あるいは「感動する心を失うことが大きくなること」とでも言うのだろうか?落ち着き?

「一々感動の連続なんて面倒くせえな」と言うだろうか?

そこはニヒリズムがあるのだ。男は女に一々興奮するが、射〇すると賢者になる。そういうことだ。男たるもの「ニヒリズムで冷静さを担保」し、「子供のような興奮で喜びを得よ」と言いたい。

そのバランスの楽しさ麗しさ!

 

「弱い奴は舐めて良い」

ところが「社会は繋がっているので、弱い奴が強い奴と繋がっていた」り、「基準が多様なので弱いと思っていた奴が実は強い奴だった」りする。

すると舐めることが出来なくなる。

社会はそういうものなので、「育ちのいい女=社会の繋がりを間近で見て育った女」は誰も舐められないと本能的に知っている。一方、逆に「だから社会なんて嫌なのよ」ともなる。

女が王子様を好きなのは当然である。妊娠の原理を考えよ。

一匹だぜ?

あるいは妊娠したら1年近くかかるし、肉体的にヘビーなわけよ。

雑魚は全て排除せねばならない。 ところが雑魚を舐めたら王子にチクられて、王子に無視されるとなったらどうする?

「いや、王子は雑魚なんて足蹴にするから平気」と言うだろうか?

わからんw

何にせよ、基準を多様化し、特化型社会となれば、男には心地良く生きられる社会となるのは間違いない?いや、耐えられない男もいるだろうか。多いのかも知れない。

 

「西洋文明とは記録を更新する文明」であるから欧米人も疲れて来たのだ。なのでアジア化している。してるだろ?

日本としては西洋文明的原理を取り除き、ヨーロッパの文化だけを取り入れ、日本化していくのが狙いである。

「亭主元気で留守が良い」ならぬ「亭主死んで子供と私だけで良い」って。

だが男の人数は多く、もう大地から離れている。大地にいないのだ。GAFAとかゲームだってよ。清々しくて良いよな。

 

近代化とは「情報と交通が発達した時代」である。それまでなら縁もゆかりも無かった人と会ってしまう。知ってしまう時代である。地球規模で言うなら、人口の絶対数は近代以前もそれなりだったが、情報と交通の発達によって「人口密度」が上がった。「intense」なので、速度も混交も対立も多くなる。

 

ところでイギリスはヨーロッパ大陸ではないが、ヨーロッパであり、それは歴史を見れば明らかである。

西洋文明ではなく、欧州大陸文化を取り入れて、日本化すると言う場合、フランスですら無いことが多い。自由平等博愛も弱くなるし、特化型でないんだよね。

西洋文明の根本が男で、軍隊で、ゲルマン民族大移動で、大陸側に定住した奴等は文化したが、イギリスは「原ゲルマン民族」の特質を維持した度合が強いと言われている。(その分ケルトも濃厚だが)、塾でなく学校的だから「特化せずに、生まれや育ちを離れ自由になる」と言う面が低いのかもしれない。その分イギリスは階級社会でもあるが。

「歴史なんてどうでも良いから、お前の実力でこの指とまれ」
そもそもDNA的に見ると、色々なDNAがお前の中にある。
なのでDNAでは無いのだろうね。「向こう三軒両隣に合わせろ」ということだろう。DNAだと「人間主義(じんかん)」を離れて、天空にintegrateされているのと同様になってしまう。

「無限の可能性」を追求するより、「わかりやすく顕在しているものや周囲」に合わせろと言うことだろう。それでは「素材の表面や環境」から離れられない。錬金術や科学的抽出には至らない。

パリや京都で料理が発達したのは、そもそも碌な食材が手に入らないからで、栄あるローマ帝国からすれば、フランス料理など「カエルやカタツムリや泥を煮るような得体の知れぬもの」なのだ。得体の知れぬ奴等のポテンシャルを活かして、フランス料理は発展した。

 

西洋文明をもう一度やったら、またアメリカは出来るだろう。アメリカって変わり者が作った国で、西洋文明は変わり者が好きだからである。

 

現代人が陥りがちな悩みも、明治の人達の悩みが分かれば腑に落ちる。

森鴎外など当時の人達に共感するフリをして、実は全然分かっていないから、現代人の悩みにも共感できない。

 

IQが1兆あれば、1を聞き10を知るどころか、1000億ぐらいは知れるんじゃねえの?

そうなるとナメクジを見た途端に宇宙の成り立ちとかも分かっちゃう可能性がある。

しかしそこまで頭のいい赤ちゃんだと「俺、頭良すぎて周りをビビらせるから普通の振りしとくわ」となるかもしれない。

「キリストもそうだった」とトマスも言っている。

 

人間は死ぬとパソコンになる

 

臭味を与える→苦しむ

臭味を与える→喜ぶ

このように受け取り方は様々で、因果関係は一律ではない。

 

そう考えるとヒップホップってアホほど強いよな。

その強さを羅列するのさえめんどくせえ。

ぽっと出でも良いし、「そもそもぽっと出って何?」って突きつけられるし、でもやっぱりレジェンドに比べられて打ちのめされたり、「でもやっぱあいつはあいつで良いな」と言われたり、そこから這い上がったり、引退しかと思いきや復活したり、批判も賛同も含めてヒップホップであり、

「そんなのウジャウジャいるよ」と言われても、ウジャウジャいてめでてえし、数は力だし、非量産型を名乗る人間が出て来て、それを飲んでも、また飲まれたり、もう「現実は現実です」と言っているようなものであり、それがヒップホップ?

「決まったコースが本当に無い」という現実を突きつけてくれるのが本当に心地良いんだよね。証拠しかねえよ。

 

誰にでも「過ち」はあり、常識による「甘え」は許されない。

なので平等に罰せられる。色々な価値基準がある以上、平等に罰せられる。

「空気を吸うことを最悪と考える基準」も考えられ(ヴィーガンの方が現実的か?)、そいつ等からしたら人間など悪の権化なのである。

罪悪塗れなのだが、自分なりに頑張って生きていくのが美しい姿勢。

 

インド人は頭が良いのに何故発明が少ないか?

曼荼羅や人体や脳ミソの全体図のように「磨き抜かれた全体像」のようなものが念頭にあり過ぎ、「発明」など「思い付きのただの暴れ」に見えるのかも知れない。

アメリカは「可能性を追求する国」だが、単に「可能性を思っているだけ」では足りず、それを顕現させたい気持ちが強い。そう言う奴等が集まって来る。

曼荼羅的世界観は「全体が見えている」のに対して、そもそも西洋世界では「全体など人間に見えるはずがない」のだ。「何がどうなるかなんて分からない」から、思う存分暴れられる。

全体が見えていると言うなら「そこをこうすればこうなるから、そんなことしちゃダメだよ」と言うブレーキ・乗り気の無さが強まるが、「何がどうなるかなんて分からない」なら、「暴れ=バランス崩し=行動」への遠慮が無くなる。

確かに何だかんだで「全体像が見えているっぽい」ものはあり、「人間の健康状態」などがそれである。アメリカの外科医は全員インド人(?)なのは、そのためである。インド人には「ホーリズム感覚」と言うべきものが強くあるのではないか?「全体像」を前提に「不健康」を直す。「磨き抜かれた全体像=人体など」が頭に入っているのが凄すぎる。

ところがインド人と言うのはアメリカ女に人気が無い。犯罪者の方が人気がある(ラッパーなど)。

「医者には生産性が無い」と言う意見もある。生産性とは永遠の謎だが、少なくとも「走る」ことはバランスを崩すことであり、一度走り始めれば、その崩れに応じて動き続けねば走り続けることは出来ない。座る奴より走る奴が好き。

「全体があります」と何もせずにいるのなら、それは植物人間であり、全人類総座禅である。私はそんな世界線も実は好きなのだが、確かに退屈でもある。女は男に退屈から脱出させてほしいので(安定も求めるがアメリカ女は退屈からの脱出を多く望む)、植物人間より、「やらかし系」を好むのである。

座り続け、現状を維持するだけなら、植物に勝るものはない。欧米はアホだから常にやらかし続けるが、それによって欧米にはなっている。

そう考えると、確かに「アメリカの医者は全員インド人(?)なのに、彼氏にしたくない男NO1人種」なのも頷ける?

 

「犬のイデア=犬ってどんなの?」

「脚4本あるやつ」

「じゃあ3本だったら犬じゃないの?」

「犬か」

と言う問題があって、他にも「顔が半分溶けてるゾンビ犬は犬じゃないの?」など色々難癖はつけられる。

事程左様にイデアは決め付けられない。「イデアは究極的にはエックス」なのだ。

ただあるゲームの中で「犬とはこういう特徴を持っているもの」とプログラムすることはできる。

 

神はプログラマーで全知全能である。そのゲームを作った人でもある。

「人間本性」とはプログラマーによって定義された人間キャラに共通するプログラムである。

ある人間キャラをプログラマーが主人公としてプレイし始めた。

これがイエスキリストである。

本性としてはプログラマーと人間は別だが、そのキャラに於いてプログラマーとその人間キャラは「合一」している。

 

「救い」は「救い」であり、変に解釈せず、究極的にはそのままで良い。それだからこそ色々な解釈を許す余地も出てくる。

私の場合「ニヒリズムからの生還」と解釈することが多い。

ところで神は人間に救いを齎すために、イエスを派遣せねばならなかったか?
「その必要は無かった」と神学大全では答えられる。神は全知全能であるが故なり。
だが「イエスに救済させることが、より相応しかった」ということ。

同じ人間だし、同じ人間として苦しんでいるし、俺にも出来るんだと思わせてくれるし、親近感も湧きやすい。

神の場合「出来てもそりゃ神だし、苦しみも無いし、遠すぎて共感できない」とかあるんじゃないの?

でも「必要は無かった」と答えているのが凄いよね。

ただイエスキリストは子供のような面もあり、それが神なのだ。
これが西洋文明のミソである。
大人っぽく振舞ったところで、結局子供であり、正解なんて誰にも分からない。イエスはそのことを突きつけてくれる存在でもある。実際に赤ちゃんでもあるしな。
「それ忘れなんな」と言う戒めでもあろうか。
 

男でないから記録の更新のためにあらゆるものを利用しようと言う根性が低い。

男でないから生活全体を意識して、一点集中でない。

男でないからクラウドを念頭に置かない。数や技術でどうにかなると言う意識が低い。

男でないから現状を受け入れる傾向が強い。理想=遠いもの=冒険好きでない。

男でないから人目を気にして周りに合わせてしまう。

男でないから自分で定義しない。

「相対性、ユーモアセンス、なりふり構わず、数・技術・可能性感覚」が無い。

「現状肯定主義、向こう三軒両隣、仲間以外は皆風景、責任を取りたくない」的感覚。

即ち両津勘吉的でないから、付き合いにくい。

 

コナミのシューティングと言うより、シューティングゲームで一番好きなのは「パロディウス」で、そもそもパロディが好きだった。楽しいから。

それだけではなくパロディとは「ある特徴で塗り固める傾向」が感じられる。

「青が綺麗に見える絵」と「青い絵」の対比。 私は青い絵に惹かれる傾向があった。

 

京極さんを感動させた四万十川の鮎に、京極さんの記憶が詰まっているか。

実際には京極さんの思い出を四万十川の鮎が触発したわけだが、京極さんではない私が四万十川の鮎を食べて、京極さんの記憶を味わうことができるか。

それは摩訶不思議だが「ワンチャンあり得る」くらいに思っている。あっても良い。

鮎の味をよくよく解析すると、京極さんが見えてくる。実際に「万物には全ての記憶が詰まっている」と言う噂もあり、アカシックレコードが刻まれている。その中に京極さんもいる。

記憶を植え付けるカプセルというのを作ることができるか?

これが作れれば京極さんになれるということだね。

料理への応用も考えられる。

どのような味と記憶を植え付けるか。

「フォアグラと深海ダイヴの思い出(?)」を合体させるとか。

「このフォアグラは深海2000マイルで得体の知れぬ生物に出会った時の味や!とんでもないものを食わせてくれたわ!」と泣かせる。

 

「それが君の個性だね!」と言われて励まされる。

「お前ってそう言う奴だよ」と言われて、「決めつけんなよ」と思ってしまう。

自分なんて分からないものだが、何にせよ「根底には伸び伸びと活き活きと幸せでいて欲しい」と言う愛を期待する。

 

・「親と子は似ている」と言うが、親に似ている子以外の人間はいる。

・「由緒正しい」と言うが、何を以て正しいと言うかは千差万別である。

・DNAは複雑すぎて色々な遺伝子が交じり合っている。この広い世界のどれと合体して、何が発現するかは分からない。

・世界は広いので影響を与えるものも数えきれない。

・過去を振り返り、各時代の支持があったものはとりあえず安パイではある。 ただ近代以前の組み合わせは数に限りがあるので、逆に信頼性に乏しい。近代以降の発展は凄まじい。夥しい。近代とは情報と交通が発達した時代であり、その影響があるからだ。近代以前の方が良いと思えるものも多いが、近代以降の方が良いと思えるものも多過ぎる。

 

女は生き物が好きなので、死んだものに興味を示さない。

女は左脳が活発なので、伝統は形骸化する。

女は周りに合わせるので、遠いものに合わせない。

(組み合わせをズラしても良い)

三島由紀夫が「女の特徴は直接経験したもの以外信じないこと」と言っていたが、まさにそうなると100年前のものは「もう生きてはいない」ので、60年前程度が限界になる。それ以前のものは死んだものとして「物質化・文字化」している。

男の特徴は「遠い憧れ」で、「1000年前のテキストにも生命を吹き込む」。即ち「復活」である。西洋文明の特徴は「復活」にある。イエスキリストも復活した。一度なくなったものに命を吹き込む。生命体としてこの現実に蘇る。

 

日本は歴史伝統と言うより「向こう三軒両隣」的民族で、要は「世間様」である。想像力に肉感がなく「今ここに無いもの=感動を与えてくれないもの=忌まわしいもの=死者」という感覚が強くなる。

一方子宮主義で、有職故実的に、形骸化したものを身を挺して受け継ぐ変わり者が少しいる。

芸術を見れば明らかで、日本にクラシック音楽は無く(?)、伝統と言っている奴等も60年前程度が限度である。1世代30年だから「0歳、30歳、60歳」で丁度3世代だね。

「女の経験主義は、生の熱いチ〇〇で私の子〇を突いてくれた人は、存在として認める」が、それ以外は存在しないのだ。

と言うことで「生き物3世代主義+形骸化されたお土産物の伝統工芸」が日本の特徴というお話でした?

でもこれはかなり本気で言っており、伝統伝統言うなら、1000年前のものに現実的肉感を感じなきゃダメだろ?イマジネーションが淡白すぎるわw

「五感的触知を経由せず、頭で考えることに肉感を覚える(粘土を触っていないのに粘土的感触を覚える)」

「遠い憧れを実現したい」

「一点特化主義(24時間365日平均主義だと、どうしても形骸化する)」

これらが男の特徴だが、これらが無いと、どうしても向こう三軒両隣になると思うんだよな。

 

日本の強さ。 

完成度が高くその完成度に寄与するものを本来自由に連想できる(ガールズトーク的繋がり)

神代的感覚(マンガアニメなど例に事欠かない)

意味に囚われずモダン

ワビサビ

連綿

造形力(オノマトペ、マンガアニメ、運中供養菩薩)

天皇的な血統

受胎する(マニアック、オタク、その定義の組み合わせ徹底探求⇔定義替えに弱い)

「茶室のコギャル。掛け軸は宇宙で、そこから天の川が部屋に流れ込んでくる」

 

日本の弱さ

神経質、不安症臆病、フィードバック苦手、向こう三軒両隣、自閉症、鬱、

適所最適化で目的を忘れる、形而上的なものに肉感が湧かない、

キリスト教は神の国が本拠地(現実をゲーム的に眺められる)、

ユーモアセンスは非常に高いとも低いとも言える

細かい所に気付くからサムライもウォシュレットも生まれる

 

これを踏まえた上で、私がロシア好きなのは、

「倉庫がありゃ、後は俺がやります」と言う感覚が強いからだ。

ロシアって「捨てられない、ゴミカスチリ=雪のように全ては美しいからの逆上」⇒ネット

無論、参考になる人や物、授業は欲しいが、それはまさに「古典」だろう。

日本人は「反古典主義」で「所詮60年前まで感が強い」のと「フィードバックが弱い」のが嫌。

左脳が強過ぎて文字文字して輪郭がダセえ。

「向こう三軒両隣で数や技術を前提にif,then思考が出来ない=近代的でない」

即ち女っぽくて気持ち悪い。

 

ウディ・アレンが「アメリカでは誰もがヒーローになれるんだ。とても良いことだと思うよ」と言っていたが、俺も本当にそう思う。

古代ギリシャでは「東方は独裁者の支配する非民主的地域」と思われていた。当たっているだろう。橋本治も「アジアは抜け駆けを許さないが、一回抜け出ると現人神信仰される」と言っていた。イスラム教も東方教会系もアジアも、それを否定できるだろうか?

アタナシウス派が西方教会の正統である。アタナシウス派は「御子であるイエスの神格を下げないと同時に真の人間である」と強く説いている。一見「現人神信仰するかのようなアタナシウス派」が広まった地域、西ヨーロッパ及びアメリカで、現人神信仰を否定する向きが強いことが興味深い。

そして私の本願もそこにある。「人間すげえ!皆すげえ!」とヒーローを乱造することによって、ヒーローの価値を下落させる。いや「皆すごい」って言いたいだけなんですけどね。

でも皆すごいから、引き分けになって、真の神だけが突出する。そして人間と来たら「お互い様でユーモアセンスを持ちましょう。互いを褒め称え合いましょう」と持って行きたいわけだ。

「ヒーローなんて作らない。人を気軽に褒めない」なんて、しみったれたことを言っていると、みんな暗い顔付きになり、相互監視社会になっていく。「ヒーローなんてゴロゴロいる。ゴロゴロいてめでてえな!」と明るい社会を目指したいものです。

ヒーロー許さず社会では、抜け切った奴を現人神信仰し始める。神は言った「私以外を決して崇めるな」。神の教えに背いているんですね。

 

人間は神の真似をしたくなる。

だったら思い切って真似させてみる。

皆に真似させて気持ち良くなってもらうと同時に、やっぱり神には程遠いと実感してもらう。

隣を見ればアホがアホ面さげて「吾輩が神なり」と言っている。

「面白いんだけどやっぱり神じゃねえなw」と思ってもらえれば、狙い通りだ。

 

ヤハウェの真似をする奴は少ない→参加人数少ない

宗教家の真似をする奴は多い→参加人数多い

「ヤハウェは神だ。ヤハウェにはなれねえな。俺は神じゃない」

「キリストは神だ。キリストならなれるかも。じゃあ俺も神だ」

 

キリストを重要視する地域では「俺にも出来るかも」と思う奴等が増え、偽キリストを名乗り、それを崇める奴等も出てくるが、偽キリストが多くなり過ぎるため、馬鹿々々しくなり、結局廃れていく。one of 変人組合になっていく。

実際にカルトが多いのは、西ヨーロッパ及びアメリカなのだ。でも陽気で、気軽に人を褒める文化が育ったのもその地域である(?)。

現人神信仰をするなと言っておきながら、現人神信仰を煽り、結果的に皆ヒーローに持って行き、皆違って皆良いけど、「やっぱ俺達はアホだなw」と、改めて神の偉大さに気付かせる。

 

偉大そうに見える人間が偉大なのではない。ミカンの早剥きNO1だって、金魚すくいNO1だって、その偉大さに於いて誰にも負けない。私はここで転んだが、ここで転ぶことにかけてはNO1であり、そのアホな一歩は誰にも真似できない。別にNO1じゃなくても良いんですけどねw

 

保守主義は「時間軸を大切にする」と言っても、「何をどう大切にするかに国柄が出る」と言うか。

日本の場合はいつも私が言っているように形骸化しやすいが、卵子主義で品目は確保される。神仏混交と言っても完全に混ざるわけでは無く(混ざりもするが)「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化されたソレが林立している」ような状況になる。

福田恆存も「日本の歴史を見れば、能にしても歌舞伎にしても浮世絵にしても、結晶体のように各時代で完成されている」と言っている。もうアレンジしようがないのだ。もちろんそれらを学び、何をどう受け取ろうが各人の自由であるが、それ自体としてはもう完成されている。

そこから方法論を抽出して、色々なものに使えるかどうか。

短歌や俳句ならいける。西洋ならクラシックや料理は分かりやすい。

即ち伝統とか歴史と言った時、ヨーロッパのクラシック音楽的な伝統と違い、生々しくないのだ。

「お土産物の伝統工芸をなぞっているだけ」となる。

・「言霊の幸う国」で「漫画化・アニメ化・言語化・左脳化」されて伝統になる。

・文字化される≒容量を食わないが、妊婦的24時間365日主義なのでやっぱり身重になる。男のようにやる時だけやってさようならとはならない。

・子宮的受胎主義で、これはこれで正しい。ヒステリズム。八百万で目出度いが。

 

子供は美味しい水を当たり前のように飲んで、後で不味い水を飲んで、当たり前のように飲んでいたあの水は美味しかったんだと気付く。

日本人なら日本語をペラペラ喋るが、外国に行くとそれが当然でないことに気付くことに似ている?似ていない?w

 

冷凍で丸のまま保存。死んでいるから生き返らせる必要がある。本当に死んでいるのかと言う問題。

常温で加工して保存。生きているがテコでも動かない。本当に生きているのかと言う問題。

 

【東洋的な倫理は、「そうせねばならない」ではなく、「その理が腹に落ちればそれ以外の在りようができなくなる」という形を取る。 逆に言えば「そうできない」なら「まだわかっていない」ということである】

「なんと非倫理的な態度だろう」と思ってしまう。倫理とは「思慮性≒可能性を考慮し続けること」だからである。「無意識に染みついてこそ常識」じゃないけれど、「自然に手を差し伸べてこそ倫理」と言うのは理解できるが、一方で「手を差し伸べることは本当に良いことだろうか?」と思慮し続ける姿勢は「色々な人や意見を思い遣る姿勢」であり、「自分が間違っているかも知れないなと反省する姿勢」でもあり、それをこそ「良心=自覚⇒ユーモア」と言いたい。

即ち東洋的倫理とは「これ以外ない=絶対主義=子宮主義」という形を取る。「私は私で正しい」と叫ぶ。なるほど、ごもっとも。あなたはあなたで正しい。だが他の正しさもある。

結果的に「自閉している状態=自分」を正しいとするのではなく、「相対性を考慮している状態=神」を正しいとする姿勢こそ倫理的なのだ。

 

小学生中学生の頃は女の方が大人っぽいが、高校生以上になると男の方が大人っぽい。

東洋文明の要諦は「高校生以上にならないこと=男を高校生以上にさせないこと」にある。

「ある特定の価値観を見事に受胎する」ことは女の方が得意だが、単純に言ってそれだとユーモアに欠ける。欠けるだろ?

ある価値観からすると悪とされるものが時間的経過で善になったり、その逆もある。「何がどう影響するのか知れたものでは無い」と言う複雑怪奇な国際情勢を「真」と認め、「それが人生だよね。ははは」と言う余裕とユーモアこそ男の取るべき倫理的態度である。

 

マンガ絵的軽さにすることでアニメーションすることが出来る。油絵を動かすのは大変だし、理想的でもないだろう。

さらに品数も確保できる。王侯貴族でもないのに色々と美味しいものが食べられるのは、研究心だけでなく、マンガ絵的品数確保精神が基となっていることだろう。

「そのお陰でお前なんぞも色々食べられて有難いと思え」と言われれば、その通りなのだが、そっちに対する有難がりを、俺は本当に多く持っているのか甚だ疑問なのである。

本居宣長も言っているように「社会資本の安定は有難い」のだが、品数を多く求める方では無いからだ。間接的な好影響はあるだろうし、それこそ複雑怪奇な国際情勢で、でも悪影響や、やっぱり文化的傾向ってのもありますからね。

要は近代的大衆国家がもたらす好影響は、私からすると「社会資本の安定」と「そこそこの平等」で、後は「引き籠っていたい⇔色々動かなくて良い」と言う感じなのだ。「これだけ品数を用意してやって、多品目を楽しめて有難いと思え」と言われても、「そこは直接的な感謝とは違うんですよね」となる。

 

・ネットよりTVの方が良いと言うバカはいない。

・恐竜よりワニの方がデカいと言うのは客観的に間違っている。

・「先輩を大切にしろ」と言うならギリシャ彫刻を崇めろ。

・ホシュだのウヨクだの言っている奴等は「サヨクなき戦後日本」を求めているに過ぎない。

 

「祝いの席で不吉なことを言うな」と言うが、この世のどこかでいつも祝いの席は開かれており、凶事に触れたが最後、吉事の人には恨まれる。

SNSよろしく近代とは情報と交通が発達した時代なので、吉事と凶事が同時進行であることが如実になる。

逆も然りで、葬式の隣で結婚式を開いている。

「それなりに見計らってお願いします」と言ったところでしょうか。

 

「日本は死者と生者を峻別する。その割にはお前は死臭がする」と言う意見。陰陽師。日本にも生死のはざまを生きて来た人達がいるのですよ。死の香りを芬々と香らせるような。

でも伝統と言っておきながら、その辺本当に60年主義であるところに日本の安っぽさが見て取れますな。

 

サービス業の愛想

「そこは幾らでも言い訳できるんだけど、結局そこでしかねえから」

 

皆がやっているから正しいのではなく、神に誓って、それが正しいかどうか。

人間主義(じんかん)ではなく、神人主義(しんじん)。

結局「ワタシキレイ」と「原罪」ほど対立する価値観は無い。

 

私が「ワタシキレイ」を根底から嫌う限り、私が東洋と相容れることはない。何という違いだろうといつも思う。

女が「危機」を嫌うのは、

「異物が体内に入ることに対する嫌悪感」と

「嫌なものをイメージする時の生々しさ(脳梁を渡らない時)」が原因だろうと思う。

 

しかし近代に入ると「多様性が如実になる」ため、ワタシキレイを相対化する情報に触れ過ぎる。結果的に引き籠るしかないのである。女は引き籠りである。

 

女は大人っぽいが、男の大人っぽさとは

善悪の相対性

空間的には「今この瞬間に色々な価値観を持った人がいる」です。

時間的には「善と思ったことが悪に転換していく(または逆)」です。

即ち「情報と交通が圧倒的になった」ため、「多様性が突き付けられてしまう」。

それは「数」です。

 

「フィードバック能力の違い」です。
女は子宮主義で、一度受精したら、その精子を徹底的に展開することに命を懸ける。「途中で他の精子にします」と言う卵子は無い。
男の場合、色々なものからフィードバックを受けて、軌道修正する。それが浮薄にもなり、柔軟な姿勢にもなる。

 

「俺はヒーローだ」と。それに対して「お前のどこがヒーローじゃ!」と。

いや、良いんですよ。殴り合いや激論の末にどうにかこうにか落ち着くのが人の世ってもんですから。

それはそうとして、根本的には「やっぱ皆ヒーローだよな」と言う反省の心が優しい。それが欲しい。

例えば精神障害者が「僕だってヒーローだ!」と言って、どうやってバカにするのだろうか?その「馬鹿にし」の醜さよ。「本当にその通りだ。俺もヒーローになれるように頑張るよ」と言った方が余程清々しいではないか。

IQ1兆の人間からすれば、人は皆精神障害者に過ぎない。

 

現実はカオスである。

それを心得るのがリアリストである。

「リアリストを騙し切れる」と思って、にやついた瞬間、

リアリストは「こいつリアリストでないな。だったら殺しても死んだと思うなよ。客観的認識が出来ないのだからな」と思うもので、

それがアングロサクソンである。

近代とはアングロサクソン的時代であり「現実は現実である」と言っているに過ぎない。それを認められねえ奴等が鬼畜米英と騒いできたのだが、現実は現実である。

アメリカも相対的に萎んできたが、未だに大国であり、「鬼畜」的要素は魂として常に宿主を探し続け、受胎される。

リアルを突きつけると、チッと舌打ちする輩もいるが、「おいおい。妄想の中を生きていたのかい?目を覚めしてやったのだから感謝しなきゃダメだろう」と言いたい。

そしてチッなんてやった日には、そこでリアリストは冷酷さを発揮して、お前の醜さ諸共お前を滅ぼすかも知れないんだぜ。

 

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神は「全有」でもあるから全ての善悪を抱えている(神からすれば悪ではないが)。ところで一人一人は自分の奉ずる価値観を持っており、その善に従って(いるつもりで)生きていたりする。

「他の人から見れば私も悪ですよね」と言っておきながら、自己完結的な傾向が強い(プロテスタント的な自閉主義=福田恆存はプロテスタントの悪い所は「自分が神様になってしまうところ」と言っていた)。要は「他の価値観を認める力が強くても、他の価値観が自分に流入する度合が弱い=他者と血管が繋がっていない」。世界がカオスであることを認めはするが、「自分がカオスである」ことを実感する度合が実は弱いのだ。やはりこの点島国であり日本と似ている。「世界全体として色々な価値観があり、他から見れば私も悪である」と言うことは認めるが、「自分も自分以外である=自分の中に悪がある」と実感する度合が弱い。

 

万物が神を分有するとして、神の中に無限の価値観があるなら、一人一人の中に「悪も確実にある」はずなのだが、「私はパーツ。全体として色々な価値観があるのは分かるよ」という傾向が強い。これに対して「一人一人の中に善も悪もある。自分が嫌うものも自分に内在してしまっている」という意識が低いと言うことだ。

 

プルーストの『失われた時を求めて』の要約として紅茶を飲んで終わると言うイギリスの喜劇があった。他にも英語圏の他者に対する扱いは「ぞんざい、丁寧でない、粗雑」であることが多い。「存在することは認めるけど、はいはいそうなんだね」程度の認識で切って捨ててしまう。

 

お前の価値観に対する物凄い批判があったとして、それを真面目に聞かず、適当にいなすことによって、「わかったわかったと認める」ことはあっても、「真に受けることはない=血管を繋げてしまうことはない」。

 

逆にその適当さ、軽さがあればこそ「そう言う意見もあるにはあるんでしょ」と認めることには繋がる。それがユーモアにもなる。「実は自閉的。本当は真に受けていない。ささっと離れていく姿勢」がユーモアを保証している(日本も島国で他者と距離があればこそ「他者を尊重する心が育まれた」とも言われる。それと似ている)。真に受けてしまうと、適当に流せず「なんだこの野郎!」と喧嘩になってしまう。結果的に傷を受け、他者性を余計に認めることになるか、逆に「そんなものは俺の中には無い」と潔癖になる可能性もある(潔癖や過敏というのは「他者を真に受ける」ことから来ているはずだ)。

 

ただ他者を軽く扱えると「一人一人がある意味伸び伸びと私は私と自閉できる=真に受けてガチで潰し合うことから免れる」ので、結果的に多様性が生まれる傾向もあるかも知れない。

圧倒的な多様性が生まれてしまえば、「自閉的で他者を軽く扱う」と言っても、さすがに繋がりを意識してしまう局面も多くなる。島国的自閉が一皮むける瞬間だろうか。

 

「日本は島国で侵略を受けなかった」「他者に対してあまり介入せず一人一人が自閉的」だからこそ、他者をリスペクトする姿勢が育まれたと言う意見もある。

これが常に間近にあると軋轢も生まれやすく、アレルギー(蓄積量で問題化する)を発症して、他者に過敏になる。

 

アンドレ・ジッドが「我々フランス人は悲しい人種だ。美しいビーチでバカンスを楽しんでいても、どこか思い悩んでいる」と言っていた。

「他者性の流入、自分に内在する悪の実感」が強いわけだ。

逆にそこまで他者を流入させた上で、ユーモアを発揮する時、本当に深い優しさと笑顔が生まれる。

その具体例はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真、油絵の明るいやつ(深刻なものも好きだけど、ここではユーモアとか笑顔なので明るいということで。マティスでもモネでもピカソでもシャガールでも良いけど)。

ブレッソンの写真は決定的瞬間と言うより「相対的瞬間」である。「砂浜でズキューンキスしている二人」をクローズアップで撮るのではなく、その他の平和な風景、笑っている人々も同時に写っているが、とても優しい。

 

アンドレ・ジッドだと思うんですけど、「イギリス人って言うのはブラックユーモアとか善悪の相対性を言いながらも、心の底では、自分なりの正義を自然に信じている明るい奴等だ」

「それに対して、我々フランス人っていうのは独善的だの押し付けがましいだの言われながら、美しい海辺の観光地で素晴らしい一日を過ごしていても、心の底で、喜び切ることができない悲しい人種だ」っていう風に言ってたんですよ。 これがフランスかなって言う。絶えず「他者」を抱えている。

 

【形而上的社会性】≒観念論
メリット:絶えず自分も間違いにされされる。大陸なりに「他者」を意識する。
デメリット:押し付けがましい。結果的に独善的。
【形而下的個人性】≒経験論
メリット:控え目。私は私、君は君。島国なりに「他者」を意識する。
デメリット:自閉的。本質的に独善的。

・イギリスは島国で、アングロサクソンは本質的に近代的性質を持っている。
・「善悪は相対的である」ということを本能的に知っている民族だ。
・しかし、大陸もやがて近代を迎え、真善美が相対化される。

・真善美の数が「個人の数」とイコールになった場合、違いはあるか。
・その真善美が「形而上的か、形而下的か」という違いがあり、
 本質的には、上に書いた傾向が表れる。

・男性的島国は「自分と異なる価値観を持っている人間がいる」と知っているが、
 自らの「本質」に「間違い」が入ってくることはない(まあ、一つのレトリックだけど)。
・大陸には男性的島国のようなユーモアセンスはないが、
 自らの「本質」に「間違い」が入っている。

・ユーモアセンスを持ちながら、本質に「他者」が入っているのが良いね。
・男だね。

 

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感想の羅列というのは非常に強く、具体例や学問的根拠や歴史的変遷などは、感想を羅列した後にAIにでも調べるなり作ってもらうなりすれば良い。

そのAIの結果を参考にすれば、今度は予めそれらを土台として使用できる。

自分の感想の土台をかき集めるにしても、感想を羅列することは有意義である。

それに対して、結果として賢くなろうが何だろうが、まず何よりも「遠慮会釈なく感想を羅列するような心性が嫌なのだ」という意見。

まあ好みですが、それを言い出したら、現実の否定になりますよね。現実は「適当な発生→理屈付け→再現」に支えられている面も非常に大きいですから。

文化とは溝に嵌めることでもあり、「事前の教養」を奨励するものであって、それを持たぬ者から偶然に生み出されるものを忌避する姿勢でもあろうけれど。

「感想の羅列から始まり理論武装もし再現されたもの」が現れた時点で反対票を投じるだけでなく、感想を羅列している時点で「それやめろ」と圧力を掛けるものこそ文化とも言える。

既定からの逸脱や偶然性に対する拒否感が強いのだ。

 

男対女

カトリック対プロテスタント

右脳対左脳

超越対内在

 

アメリカの保守党と民主党で、 保守党が英国的で、民主党が大陸的というのは単純化し過ぎている。

 

英語圏はウィリアム1世的な存在を取り入りて一皮剥けるが、古女房はそれに抵抗する。

 

日本と言うとワビサビを思う人も多いが、神話もドラゴンボールも日本であり、戦国時代もそうである。そしてそこには日本がある。「金バック=中国」くらいの認識しかない外国人もいるが、全然違うw 人間一人一人の顔つきを見て、日中韓の区別をつけることは日中韓人にとっても難しいが。

現実を飛び越えた動きとかドラゴンボールとか、ああいうのって中国には無いしな。中国も韓国も、日本と違って、人間と他の存在が同レベルで「意匠化」されているわけでもない。

言語には概念的な側面とイメージ的な側面があり、前者は極端に言うと数学である。後者はボヤっとしたイメージで良い。さらに日本文化は「本質=それが無いとそれで無くなるもの」以外の要素を削ぎ落す傾向があるから、渋好みには評判がいい。

ところが日本のイメージの連想は縦横無尽である。どこの国でも「ガールズトークは話が飛ぶ」と言われる。しかも日本人は色々なものを造形化する力も強い。要は渋好みからすれば「話は飛ぶは、変な形が出て来るわ」で耐えられないのだ。 さらに、ここに「油絵的輪郭線の無さ」を加えるともう大変だ。

話が飛ぶ(ガールズトーク)

変な形(運中供養菩薩、オノマトペ、深海生物)

輪郭線が無い(油絵)

もうここで渋好みは拒絶反応も良いところである。

さらに「シニフィアンシニフィエの無限」 原始人100人に聞きました。「花を何と呼ぶ」 粘土をどこで切ってどう名付ける?

【話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限】

孔子の正言の真逆(?)であり、苦手な人は極めて苦手だろう。だがイメージ、イマジネーションと言うのはそのくらい不定形で流動的である。

「日本好きだがワビサビだけの渋好み」と言う人はそっち系を根源的に嫌う。

「話が飛ぶ、変な形、輪郭線が無い、シニフィアンシニフィエが無限」なんて「非現実的だ」と言うだろうか?ところがイメージなんてそんなもんだろう?そうだろ?

そして人間にはイマジネーションがあるのだ。嫌だろうか?仕方ないね。それを嫌がるなら人間の脳にメスを入れるしかない。

 

ちなみに日本は女だから、「話が飛ぶと変な形」は常とするが、「輪郭線が無いとシニフィアンシニフィエ無限」は受け入れがたい。逆に前者を縦横無尽に炸裂させるために、後者を拒絶する本能があるとも見える。

日本語や英語など島国言語の強い傾向は「レディメイド・シニフィアンシニフィエの画一性」である。例えば抽象画が無い。チェスタトンも「花を描くなら花を描くべきである」と意味不明(?)なことを言っていた。

仏教でも「原理も輪郭も名付けも受け取りも」決まっていないとよく言うだろ?

ちなみに仏教徒がそのことを鬼の首を取ったように言うのは「島国的・女性的な一度受胎したらテコでも動かない性質」があるからだと思う。それは仏教徒が馬鹿にする「西洋の画一性」と、俺からすれば似ている。 どちらも世界が「カオス=原理も輪郭も名付けも受け取りも無限」であることを忘れがちなのである。

私から言わせれば、「仏教=東洋に広まった」は空を説くが、「あんまり空っぽくない」のである。いや「空を常に意識しよう」と言う姿勢は強く感じる。だが元が「空でない=ヒステリー=定義が画一的」だからこそ、逆に「そこ強く意識して少しは楽になろうぜ!」と言う塩梅である。

仏教と言うのは「我に執着する人への処方箋」と宮崎哲弥氏も以前に言っていたような(勘違いなら申し訳ないが)。俺もそう思う。

それは「硬くなってしまった子宮へのマッサージ」のようなものだ。だが俺には元から子宮が無いのだ。男だからである。

 

仏教はナルシストへの処方箋

キリスト教はニヒリストへの処方箋

 

子宮型「時代の空気を総合的に吸って膨らむ」

陰茎型「ある観点から時代を越えて貫く」

子宮型は時代を越えないが丸のまま保存される。無論、丸のままと言っても言語化・左脳化はされる。「型の伝承」と言うが、それほど生ではない。

 

チェスタトンが言っている通り「ルネサンスとはキリスト教的運動」であり、一度なくなったものを復活させている。復活がミソで「こんなことをするのはキリスト教だけ」なのだ。

ずっと続いているのではなく、なくなったものを再現する運動である(本当に無くなっていた対象かは個別に議論がある)。

一度なくなったものを復活させるのは大変である。当時は当然に流布していたものも現代ではそうではなかったりする。それを強引に現代に再現するのは大変で、その大変さが男を育む。「遠い理想を実現する」ことと似ている。

韓国は「発祥地」を嘯き、中国人から「宇宙の発祥も韓国だ」と揶揄されるが「ルネサンス多めで頑張っています」と誇った方が良い。朝鮮半島文明の魅力は「東洋と言う女性的な世界の中で、男を貫いてきた」ことである。それが栄光と汚辱を生む。その喜怒哀楽が良い。

 

「イスラム教=原理主義=ある時代を聖代としてその時代のままを理想とする」。故に「お前はイスラム教徒だ」と言われたことがある。別に何教徒でも良く(良くはないのだが)、俺如きを原理主義と言うのは原理主義者に申し訳が無い。

俺は陰茎主義であり、古典主義であり、クラウド主義である。

即ちそれがキリスト教なのだが、イスラム教にも見習うべき点は多々あるので、参考にしたい。

ところで、俺如きを「原理主義」と言ってしまうところに、日本の「反陰茎主義、反古典主義、反クラウド主義」が現れている。

クラウド主義は原理主義ではない。だがクラウド主義は「日本主義=60年伝統+形骸化したその他=子宮的三世一身」でも決してない。

イスラム教に悪のレッテルを貼り、その悪のレッテルを「クラウド、古典、陰茎、キリスト教」にまで及ぼすところに日本の「エセ伝統」の病理がある。

 

「産んだら産みっぱなし」と言うが、逆に産みっぱなしで良い。

まとめて100万単位でかき集めて、そいつらに圧倒的な教育を施す。

孤児院育ちこそメジャーにしてしまえば良い。そうでない人間とどっちが偉いか競争だ。

変に礼儀正しくて、それはそれで人間味がないって?わかりますがそれも味ですよね

 

善は誰が決めるか。(国家、集団、個人etc)

善は固定的か。

誰を優先するか。(国家、集団、個人etc)

平等か(完璧平等、先輩後輩、一部だけ差別)

教会が善悪の基準を決める、伝統を参考(強弱)、参考にしない(あり得るか分からんがw)

全体で色々か、個人の中に色々か

 

ピューリタンにも派閥があって、発生当初から「我が派閥の善を叫び、部族間闘争が多かった」らしい。

潔癖に自分の善を貫き、自分の中を穿り返す。そして必ず悪は見付かる。個人の中に無限の価値観が分有されているからだ。

そう考えると、ピューリタンは「自己の中のカオス発見癖が抜けないワタシキレイ集団」とも言える。

 

アメリカが「自らの尻尾を追い続ける犬」のように駆け回り、その力が世界に影響を及ぼす。以前にも言ったが、アメリカは色々な派閥があり過ぎて、結果(俺が言う所の)カトリック的になっている。

最近では「潔癖的多様性が育まれる結果、多様になり、カオス化して、他者性を自分の内に感じ取る」というやつだ。

 

主→種→「州→集→衆」→個人=故人

「」内が重要で、「神・国民・個人」は忌み嫌われる。

日本人のグループ主義である。

「向こう三軒両隣」を出ない。

グローバルに考えると、抽象的思考・if then思考が当然となるが、これが出来ない。

 

アメリカでは「お前ホモか?」とすぐに詰問されるし、「全く自由でない」と言うことだが、良い点としてはそこまで男らしさを求めるなら、きっと卑怯者も嫌われるだろうと言うことである。女性的な卑怯さへの圧力が強いので、ジャンプ魂が幅を利かせることができるめでたさよ。

 

宗教の儀式と同じで、信者に同じことを言うことで「再確認・強め」の効果はある。ただ確かに広がりが無い。信者に街宣してどうすんだと。

それはそれとして、自分の考えを整理する効果と言うのは多大であり、確固たる自分を作ると、それが土台になり落ち着きと余裕が生まれる。

 

具体例や証拠を付けた方が説得的であることも多々あろうが、この世界の多くの言動は感想を垂れ流しているだけである。「全ての発言-具体例証拠付属発現=滅茶苦茶多くの発言」で余りある。

感想の羅列に影響力があるか?あり過ぎるはずだ。そもそもスポーツ芸術etc、具体例や証拠がない、ただの感想に過ぎない(?)。

そしてそもそも具体例や証拠を提出したとして、それが有意義か真実かも分からない。

さらに具体例や証拠を即時に生成検索する装置があれば、感想を垂れ流す方が余計に合理的になる。

「具体例や証拠を集めよう」という心が、そいつを成長させることはあるので好きにしたら良いのだが、それにしても感想の羅列は強過ぎると思うのだ。

ちなみに俺の根拠の多くは芸術で、そこにその者やその国の文化の傾向を読み取る。「癖を見抜く」ってやつだね。

 

近代化しないので、既定の方法・既得権に拘り、近代化した奴等に押されまくる。

近代化前提なら例えば「MMAは強いが昔のヘンテコ拳法も面白いから残そう」となったり、割り切った取り扱いができる。

反近代だと「MMAやるな」となり、ガチるとボロ負けするし、ボロ負けしたのに言い訳し、若い奴等にシラケられ、そのくせ若い奴等を「ヘンテコ拳法こそ最強の拳法なり」などと抑圧し、恨まれてヘンテコ拳法など潰そうと言う流れになる。

数を前提に誰でも参加可能にすれば、才能ある人材を有効活用できる。反近代的にWhoとHowに拘れば、人材は腐っていく。誰でも参加OKなら「まあ天皇制もあっても良いか」くらいに思われて保存できる。

近代的に物質をバラまけば色々な興味を持つ人間が多数出てくる。伝統工芸も取ろうと思えば人材を取れる。貴族だけが商売相手だと貴族に売れないと終わる。スーパーと高級レストランの売上の差を見よ。

そもそも人間の数が増えるので、大人数を「興味も物質も持たぬ状態にしておく」のは不可能であり、その不可能が近代を生んだと言っても良い。

 

流行に富と権力が集まる。なので調整しなくていけない。それが多様性の確保に繋がり、多様性が新たなる流行の苗床にもなる。

それに対して「流行に任せておけば、次の流行も勝手に生まれて、死ぬ奴は死に、生きる奴は生き、多様性が無いばかりに、特定のウイルスに一網打尽にされても、その時はその時なんです」と言う意見。要は「調整なんて要らない」と。神の見えざる手に任せろと。

まあ、そうかも知れないし社会実験的な結果を知らないが、近代の場合、度が過ぎるので「ドレミファソラシ」の中で、ドが流行ったら「レミファソラシ」が本当に絶滅するのでは?と言う悪い予感もする。

中国の文化大革命などがそうだ。明治維新だって人のことを言えないよね。まあ、そもそも人類の歴史なんて絶滅の連続だったのかもしれないけれど。

 

間違っても害のない部分もあり、ノーダメージである。

しかもその間違いから学ぶこともあり、そもそも間違いかどうかも分からない。そして妄想的だとしても、そういう世界観であり、それが現実になる。マンガなどがそうだ。

 

少年漫画の主人公は情けない。

俺も情けない。

故に俺は少年漫画の主人公である。

「君の情けなさは醜い」って?

そりゃ漫画に比べりゃそうでしょうよ。

「現実存在に比べても醜い」って?

度が過ぎるのが我が誇りよ。

 

サーカスの檻の中のクマは休憩中もずっとヘッドバンキングをしていたが何ならそれも幸せだと思う。

目的に夢中?

洗脳?

では洗脳されていない存在などあるだろうか?

いや、確かに思うところはあった。

 

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育ちの良し悪しとは貧富に関わらず、「環境=周囲の物や人」に牽制され牽引されて醸成される。ヤンキーも、俺からすれば育ちが良く見える。洗練された人間関係を経験しているからだ。言葉遣いや行動が乱暴に見えても、彼等なりのマナーを身に付けているのだ。

これによって私は「育ち良くあれ」と言いたいわけでは無い。「誰にでも通用する優しさを根底にして、後はダルダルで良い」と言いたい。「十戒以外はご自由に」「誰にでも優しい人は誰にでも冷たい」と言う方向になるだろう。

「育ちが良い=環境に牽引牽制されて育ったので気遣いやマナーが培われている」ということでもあろうが、「そこまで細かいこと言うな」ということである。

 

「個人と神だけではなく、集団の中で育てばこそ、その集団の中で世界に通ずるマナーが培われるのだ」と言うかも知れないし、そうでもあろうが、「世界共通マナーだけ学習し、他は気にしなさんな。良い奴であれば、それだけで良い」と言った方が清々しく、細かくなくて良い。要はマナー教師の逆であり、慇懃無礼の逆であり、気さくで最高じゃねえか。

 

「集団に所属したから集団の長になる力も付く」と言うが、

先ず現実的に「どこにも所属しない人間」というのはやっぱり考えにくく、後は才能である。

さらにリーダーシップ教育でもすれば良い。それで芽が出る奴は出る。

 

そのグループに認められて、グループ長に持ち上げられる奴は、そのグループの作法を細かに身に付けることになろうが、そんなもんは「勝手にやってろ」って話である。

 

要は「家庭や集団のルールを、国家規模に押し広げるな」と言うことであり、「十戒以外はご自由に」を徹底したいわけだ。

グローバル個人主義を邪魔する奴等を狩る運動である。「世界ナマハゲ運動」とでも名付けようか。「悪い子はいねえか」とカトリックが異教の神々の首を刎ねて飾りにし、神だけを崇めさせたように、十戒と個人だけを至高とする運動である。

 

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保田與重郎が「明治になって国学の伝統が失われたことが本当に悔やまれるのである」と言っていたが、17世紀に1000年前のものを穿り返して国柄を探求して、明治維新にまで結びついたわけだ。

17世紀は他の国でも「国学」が盛んになった時期だったはずだ。他国との接触、国内の混乱の中、人間と同じでアイデンティティを探求する。「俺ってどんな人間なんだ?」ってね。

古今和歌集905年、新古今和歌集1205年。定家は「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて」新古今を編んだわけだが、実に300年の開きがある。今なら1700年代の言葉を用いることになる。江戸時代、歌舞伎の言葉や言い回しに相当する(まあ、そこまで単純では無かろうが)。

それで当時最先端の詩を作り出したわけで、百人一首まで後世に残している。21世紀の現代人が江戸時代の言葉を真似て、後世に歴史的詩集を残せるかと言うと、どうなんだろうね。

まあ「古典文学をやっている人がそこで培った力を現代にインパクトさせる」と言うのはある話で、例えば宗教がそうである。

今話題のイスラエルとか。

 

ところで「日本人は女性的であり、近代に向いていない」と言うことは、森鴎外も夏目漱石も永井荷風も金子光春も坂口安吾も三島由紀夫も福田恆存も言っている。戦国時代の大名も淡白である。

そこを過去を振り返って「昔の日本人は男性的だった」などと簡単に言わぬことだね。

 

日本人は「水は高きより低きに流れる」「現状を良しとする」国民性であるが、日本は実は土建国家で、環境を変える。美味しいリンゴが喰いたい一心で変える。

 

「咀嚼力がなく、おかゆしか喰えない」ようだが、漢字を輸入して我物としている。

 

日本人の平均体重は低いが、お相撲さんもいる。

 

日本は女性的国家だが、ゲーム帝国の発祥の地である。(男性的島国であるイギリスにもアイルランドがある)

 

五感が鈍いと言うことはフィードバック能力が低いと言うことであり、「What is this?」と常に帰納する力が弱いと言うことであり、素材を見抜く力が無いと言うことであり、長所や短所や可能性を上手く扱えないと言うことであり、即ちヤバい奴である可能性が高い。

「賢くなりたいなら感覚を磨きなさい」

 

「人生ハードモード」などと馬鹿にするが、じゃあ「イージーモードが良かったなあ」って羨んでんのか?

手持ちの札を冷静に切れ。育てろ。クールであれ。

 

自由学芸や心理学や美学(人間は何を美しいと思うのか、そいつは何故それを良しとするのか)、健康学など。

結局俺は「物好き」にはなれぬ。法律の勉強も結局は法律の勉強なのだ。「頭が良いから楽勝だぜ」とばかりは言えない。超絶的に頭脳明晰であれば多くが可能だろうが。

神学や哲学、和歌が好きなのは「なるべくしてそうなっている」と言える。今更めいているが。

「物好きの人生訓」に対して、クラウドやサイボーグを考えてしまうのも、結局そういうことだろうか?

突破者?w

 

「古典でないくせに古典面するな」と言うのが私の根本だが、書道なら九成宮とか、和歌なら古今和歌集とか、彫刻ならギリシャ彫刻などがある。 作法は時代によって変遷するものの、大元となる(そのレベルと認定しても良いかなと少なくとも議論にはなるレベル)のものは、ホログラムなどで提示しても良い。

と言うのは、神社などでお辞儀すると言うが、所詮、お辞儀する者の肉体の動きなどが低レベルで、ダンスで言うとクソみてえなダンサーでしかない場合がほとんどだ。ところがたまにさすがに凄い見本みたいな人がいて「これがTheお辞儀です」と。それをホログラムで常に展示しておく。

神社の鳥居や賽銭箱の前などでお辞儀している姿をリアルで映像化するわけだ。参拝者たちは「なるほど。これがお辞儀か。感服つかまつった」と人生の糧にできる。観光資源にもなる。「清水の舞台から飛び降りる」と言うが、本当に飛び降りる映像を作っても良い。真似する奴が出てくるから危険だが。

 

「フードコートに自分の御飯をタッパで持ち込むのはダメか」と言うと、「言語化は難しいが不可能ではない」。

そう言う奴が1週間に3回位出現するならOKとか。

「子連れで哺乳瓶はOKだが、弁当はアウトが基本」だとして、「父は注文、母と子は弁当はアウトか」「本来アウトなのだが、まあいいじゃねえか。でもこれが全員だとさすがにアウトだ」と。その場合、人数的に大体どのくらいの割合ならOKか。それを映像で提示してみる。

「俺はこのくらいならOKだよ」「いや俺は嫌だね」など個人差も生まれる。それでその者の寛容さと言うか、好みと言うか、そういうのも分かりますね。俺はだいぶ寛容になろうね。

画像生成AIも発展してきたし、「どのくらいならOKか」を映像を元に判断させるムーブメント?

 

「骨身に染みるカルチャースクールをフルダイブ式VRで」

フレンチのマナーを学びたければYoutubeでも良いが、FD式VRなら、五感もビンビンで最高だろう。

事程左様に何でもかんでもそうやって学んでいく。そこまで技術が進むと「学ぶ必要があるか」と言う問題はある。

 

以前に教育については色々と書いたのだが、骨格だけにすると、

「幼児教育」

「骨身に染みるサクッとカルチャースクール」

「街並の美化」

「古典教育(クラウドと神レベルとお前の個性を徹底して融合)」。

これだけで俺はかなり気分が良くなる。

実際にツイッターが出て来て、偽物が馬鹿にされるようになり、歴代の天才達がやっぱり当然に君臨するようになると、俺もだいぶ落ち着いたでしょ。 TVや審査員基本がいかにクソか分かるね。審査員って「じゃあお前、九成宮書いてみろよ。ギリシャ彫刻作れよ!城や教会のネタ元私ですから」と言うなら分かる。