人はいつかは死を迎える。私自身も、そして身近にいる親しい人も。親しい人には如何様に接し、自分自身はどのような覚悟をもって生きるかということを決めて過ごしたい。この世の構造を紐解くことで『私』という存在の姿を求め、そこから自分なりの生き方を定めようとしている。過去より、すでに多くの知識や教えが世の中に説かれてきたが、私の場合『正規分布と確率の性質』を基点として妄想することになった。

この世界は被造世界である。これが第一番目にある。神は全霊を込めてこの世界を創造されたと考えているので、神そのものであるとも言えるが厳密にはイコールではない。
正規分布夢想では被造世界は神を表し続ける世界で、過程(時)の経過とともに明瞭化は進むが、それは終わりのない永遠に続く営みと考える。

被造世界の主体は霊であり、神から等しく分けられた魂はその霊に命を吹き込む役割をしている。しかしこの構造は正規分布夢想的観点によれば、霊は魂を永遠に表現し続ける営みをすることを示唆している。何となれば霊の真我は魂とも言えるからである。霊は成長しながら魂という『完全』を表現している。
被造世界は霊が成長する世界であり、魂を表現する世界であり、神を表現する世界である。ここに生命の妙があると私は思う。

人間生活の役割の一つに一定期間霊に負荷を負わせて過ごさせるということがある。負荷をかけられることによって鍛えられる。人間生活が生き難いのはそのためだろう。対処できるが容易くはない。
人間として生きていると自分は人間だと認識してしまう、が肉体は霊の乗り物にすぎない。私とは霊であり独自の意識を持つこの世界の主人公である。しかし霊もまた本質ではない。私は私に命を与えている魂を表現する存在である。

脳の萎縮による認知機能低下によって生じる幼児的行動は、肉体の状態が認識と行動に影響を与えていることを示している。即ち『私』は一番外側の纏いものを自分と認識しているということがわかる。故に『私』と言う認識は、時の最外殻が肉体であるのか霊体であるのかによって変わることになる。
霊は霊に命があるのではなく霊を立たしめる魂に命があるのである。しかしそれは残念な事でも寂しいことでもない。なぜならこの被造世界の主人公は霊である私たちで、この世界が存在するお陰で個別の意識を持ち、愉しさも喜びも味わうことが出来るからだ。

『成るように成る』、これがこの世界の基本であろう。色々な事が起こっているがやがて収まるところに収まる。全てを集めたら一つになるからである。それ以上でもそれ以下でもない。何をしてもしなくてもやがて落ち着くところに落ち着く。何かしたいと思うならそうすると良い。世の中はより完全に向かっていくという観点に立てば、『超越』という2文字を念頭に置くと良い。右と左は横の関係でその場の深みは増すが進展はあまり望めない。しかし超越は縦方向の進展へと導く。例えば他を害しない、自分が楽しいと思うことを追求する態度は縦方向への行為と言えるだろう。

正規分布は平均値と標準偏差によって決まる分布である。正規分布夢想ではこれを人に当てはめて、中心と中心に対するブレの集合という理解である。人の中心とは個性と考える。個性が最も濃いところが中心で、そこから個性から遠ざかる方向に裾野が伸びる形。個性とは魂であり、私という霊はこの個性を表現する行動を絶えずしていることになる。これは人間として行動している時も含まれる。人間の時は負荷が大きいので分布の中心というよりも裾野の方に位置することになると考えている。

『私』は『正規分布』であるならば、私の中心に目を向けていることが大事だとわかる。つまり個性(魂)に目を向けるということだ。私たちには辛い時や苦しい時もあるし、勿論飛び上がるような嬉しい時もある。しかしどんな時でも自分(というか中心)を見失わないことが大事だ。恐らく苦しく辛いこともやがて自然に整っていくことを知るだろう。私は魂を表現しているからである。こうして自然の仕組みを自らの内に学ぶようになる。

最後に正規分布夢想を語る者として記しておかなければならない事がある。
世の中には平均に向かわせようとする力がしばしば働く。しかしそれらの中には平均と呼べないものを平均と呼んでいる場合がある。また平均だけで分布が出来上がっているわけではない。ブレの集まりがあっての平均という捉え方が出来なければならない。