肉食動物が草食動物を狩る、何と残酷なことだろうと長い間
思っていた。
しかし考えてみると草花にも命があり、命のやり取りという
観点では草花を摘んで食べるのも同じことだ。だが狩られた
動物が嚙みつかれた首から血を流し、白目を剝く光景は草花
を摘み取るのと違って目をそむけたくなってしまう。
狩る側も闇雲に命を奪っているわけではない。生存のための
食料として狩りを行っているのであり余計な殺生はしない。
永い間この自然の仕組みが理解できなかった。自分が生きる
ために他を殺害するのである。果たして正当な行為なのだろ
うか?
登り慣れない者が、いきなり高いところに上ったとしよう。
行くも地獄、戻るも地獄という心境にならないだろうか。
何でこんなことをしたんだろう、平地にいればこんな思いを
しなくてもよかったのにとは思わないだろうか。心は非常な
緊迫感である。そう言えば堂々巡りの夢を見てうなされるこ
とがある、寝ても安らげるとは限らない。
地球には切り立った山、底知れぬ深い谷がある。また穏やか
な丘がある。凍えるような寒さがあり、うだるような暑さや
焼けつくような気候があり、高い山に登れば薄い酸素に苦し
み海に潜れば呼吸が出来ない。生き物にとって過ごし易い場
所は限られている。
ああ!なんてことだ・・・、神は愛のはずではなかったか。
人は小さき者で生存の条件は至極限られているとすれば、こ
の状況に嘆いてしまうのも無理からぬことかもしれない。
逆に人とはこの世界の全てを堪能する大きな存在と考えてみ
たらどうだろう。
エベレストのような切り立った山の中腹に立つ気持ちや、深
海の割れ目の底まで潜った気持ちを、日常の生活を通して味
わっていると考えたらどうだろう。
二日酔いの苦しさは容易に味わうことが出来るが、いきなり
高いところに上ってしまった時の心境と似ているのではない
だろうか?
山も谷も我々とは別なものだ。だが宇宙にとってはその一部
であり、人もまた宇宙の一部である。人の深さを測る時、基
準とするのは宇宙の度合いがいいだろう。
今まで何を基準に人を推し量っていたのだろうか、不明であ
る。恐らく何となくなんだろうな。
人というものはこんな感じじゃないか、そうそうそんなもん
だろう、いやいやそうじゃなくこれこれこう...、だからそん
なにがんばっちゃダメだって...、「あ、あれは間違いで、最
新の研究によればこれこれこう...」、etc.etc.etc.。
人は居ながらにして宇宙を堪能できるほど大きな存在である。
何のために険しい山があり、そこを住処としている生き物が
いるのか?
何のために深い海底谷があるのか?そこに生き物がいるのか?
これらは地球の営みにより存在するのだが、自然の奥深さを
知るには良き教材である。
宇宙はこんなにも深みのある場所なんだということを学ぶこ
とが出来る。そしてその場に立った心境も、人は居ながらに
して味わうことが出来る。そのことを通して己の深みも知る
ようになる。こんなこと軟じゃできないから人は強いはずな
のだ。
遠く眺める山々が朝日や夕日に映える姿には息を呑む美しさ
がある。間近で感じる険しさも、遠く俯瞰すればその風景の
美しさに気付かされる。
生存のための殺生は無数にあり、必要であって善である。こ
のように考えると善の幅が一気に広がる。感謝して有り難く
頂くとしよう。
同じことが他のモノの捉え方にも言える筈だ。私は今まで相
当な足枷を己の思考に嵌めていたことになる。宇宙の度合い
を尺度にしたら力強さが現れた。