不況に関する残念な分析 | 秋山のブログ

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「新・日本経済入門」は参考になるよい書籍であるが、残念ながら本当の原因を外している。失われた20年の理由を書いているが、これは全くダメだろう。

二十年以上の失速している理由は、P14『成熟社会への対応を誤ってしまった』ためとしている。経済は生き物であり、人の成長のような経過をたどるからというが、極めて曖昧な観念的な話であり、根拠として話にならない。
第一次産業から第二次産業へ、第二次産業から第三次産業へという移行は、生産能力の向上によって需要が飽和に達するために当然のようにおこることである。しかし生産能力の向上時に適切な分配がおこなわれないと、すなわち搾取がおこなわれると、不況がおこる。次の産業を育成するために必要な、消費者の収入の増加、有効需要が生まれないために、次の産業へも移行しない。現在の日本の状態はまさにこれで、次に隆盛する産業の育成をおこたったからではないのである。(飽和に達している産業が、安易に海外に活路を見出そうとすることに関しては、考慮の余地がある。スケールメリットを考える必要があるだろう)

P15『企業のダイナミックな新陳代謝』を重要視する考えには、廃業や立ち上げに要するコストや失われる知識技術に対する配慮が欠けている。いつも書いていることであるが、フィルム会社が化粧品を作っても別にいいのである。
十分な利益を上げられない企業が役割を終えた企業とは限らない。立場の違いなど様々な要因で低い価格を押し付けられる企業もあるだろう(例えば、国の決めた価格によって7割を超える病院が赤字になっているなどの例もある)。
実証上平均すれば成長率を超える配当が得られないように、成長率が下がっている経済において、高い利息を払うことは困難だ。すなわち中小企業救済法によって救済されることも無理からぬことなのである。需要が減少しているところに、廃業が増えることは多くの収入機会を失うことになり、さらに需要が減るであろう。新しい企業など生まれるわけがない。廃業させなかったことで『活力』が削がれたという主張は、全く観念的なものだ。

潜在成長率に関して高度成長期と現在を比較して説明している。
最大生産能力をみる場合に、高齢化率は全く関係はない。高度成長期でも人口の増加率は1%程度である。それが今わずかにマイナスになりだしたということであるから、その差も1%程度しかなく、(生産関数には問題があるがそれを信じるとするならば)それをさらに小さくした値しかマイナスにならないだろう。(人口の増加はむしろ需要増に影響すると考えるべきである)
設備投資をおこなわずに内部留保を増やしている点が違うと述べているが、そうなった原因は需要不足であり、生産設備は需要があればすぐにでも作られるものである。もちろん生産能力の向上は成長に必要なことではあるが、信用創造し経済の循環に貨幣を供給するといった重要な作用に気付いていないのは、全く残念である。
技術の輸入が多かった以前の方が成長率が高いという話がでてくる。確かに自分で開発するよりも輸入した方が手っ取り早いことは予想できるが、技術を大量に輸出している現状を考えると、開発のスピードも量も、輸入と比べて差は少ないだろう。
結局現在の低成長率の理由(消費者の収入の抑制による需要不足)を理解できていないために、成長率を下げる要素を並べているのに過ぎない。

最も問題なのは、アベノミクスにおいて第三の矢を重要視している視点である。民間の投資が振るわない理由として、既存の制度や慣習などが、新しい時代への変化を阻んでいるからなどと述べているが、新しい時代への変化などという極めて曖昧な話に何の意味があるというのだろうか。規制は、情報の非対称や独占、外部効果などの市場がうまくいかない部分を補うためにあるものである。既得権層が反対するというのは、単なるレッテル貼りである場合が多い。老害化した規制もあるだろうが、それはきちんと個々の具体的な状況を把握した上で判断しなくてはならないことだろう。この第三の矢を重要視している時点で、原因が需要不足ではなくて、供給の問題であると考えているように見える。

結局この著者はセイの法則の信者ということになるように思われる。供給力不足意外の答えを持ち得ないのであろう。