均衡について | 秋山のブログ

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「経済学と経済教育の未来」のP58、参照基準最終版の均衡の説明を引用する。
『市場の均衡とは,一定の価格や生産量が持続する状態を表している。均衡状態では,必ずしも完全雇用や最適配分が実現するわけではない。不均衡では,一部の経済主体が行動を変更しようとするため,この状態が持続せず,通常は均衡に向かう。したがって経済分析では流動的な不均衡の状態よりも安定的な均衡状態に焦点が当てられることが多い。』

大坂洋氏の『需要量と供給量が一致する状態』という一般的な定義をきちんと書いた上で、それに関する様々な議論があることをきちんと書くべきだ(例外を考慮していることをにおわせて意見の対立があることを分りにくくしている。新古典派に属する教室では、対立がほぼ存在しないという話になっているのかもしれない。このブログのコメントでも、経済学にイデオロギーの対立が存在していないと信じている実例が見られる)という指摘は全くその通りだと思うが、参照基準の文章にはその他にもいろいろ問題はある。

均衡状態で必ずしも完全雇用や最適配分が実現しないとはどういうことだろうか。経済学において均衡が達成されている状態というのは、最適配分が実現している状態のことであったはずだ。最適な状態であるから動かない、つまり均衡であったはずだ。最適配分が実証できないという現実に対して、均衡していても最適配分が実現しないこともあると言い訳することは、自己矛盾であり、自ら均衡する理由に根拠がないことを示している。

適正な値に調整するような機構が存在していても、適正な値になるとは限らない(むしろなることの方が少ない)のは、例えば人体では当然の話だ。変更しよう とする力があるので不均衡のまま持続しないという話は、私にとっては全く納得できない理由である。人体と経済は違って、経済が特別である可能性はもちろんある。しかし、それを証明するためには、それに合致する実証データを積み上げるしかない(実証されていない理論に関して、実証できない理由をどれだけ並べたところで、証明には全く近づくことはないが、この当たり前の考えを理解していない経済学の徒もいる)。つまり、参照基準に書かれた均衡に向かう理由には、あまり説得力はない。

不均衡の状態が流動的で、均衡の状態が安定であっても、均衡の状態に焦点を当てるべきという話にもならない。均衡の状態の安定性が磐石でなければ、均衡の状態の期間が不均衡の期間を上回る保証などないのだ。

均衡しているものとして分析をおこなった時、実際は均衡していなかった場合には、正しい答えが出ることはない。明らかにモデルが間違っているからだ(モデルが間違っていても、たまたま答えが一致することはしばしばある。本当に正しいかどうかはまたしても正解を積み重ねるしかないだろう)。

このように参照基準の均衡に関する説明は、問題ばかりの文章であるが、図らずも新古典派経済学の問題を明確にしているように思える。現実が均衡しているものとして分析をおこなうことの無意味さは、理解できるのではないだろうか。

さて、それでは均衡という概念は全く無意味なのか。いや、全くそんなことはない。現在が不均衡であるということを前提に考えれば、それなりに有用な答えと実用的な政策を生み出しうる重要な概念だ。独占や情報の非対称や外部効果等々、均衡を妨げるものを研究するのも良いし、最適化の促進やそこに向かう速度のアップ、より均衡状態で安定化させる方策を考えるのもよいだろう。有用な政策を生み出す源となりうる。
もちろん均衡を仮定しての計算のように、綺麗な(しかし間違っている)答えが出るわけではない。しかしそれは、本来綺麗な答えなどでるはずもないものなのである。変数の数に対して足りない数式の数を均衡という概念によって補っていただけであったということを、どれくらいの率の経済学の徒が理解しているのだろうか。
新古典派は全く間違ったことをやっているが、ほんの少し外れたところに真実はあるのかもしれない。