製薬会社は産業スパイだらけ? | 秋山のブログ

秋山のブログ

ブログの説明を入力します。

薬の話は今までいろいろしてきた。独占や寡占、情報の非対称、そして命がかかっていることもあって、野放しにしていては市場の機能はうまく働かず、価格は超高止まりになって人々のためにならないために、規制は絶対必要であること(TTPで米国はこの規制を規制することを狙っている。既に条約のある韓国は酷い目にあっている)。一方、開発の利益は確保されなければならず、目先の安さに飛びついてジェネリックを推奨することは、広い視野で見れば実は割高で社会全体の厚生を下げることにもなりかねないことなどを書いてきた。
今回はちょっと面白い事に気付いたので、それを書いていこうと思う。

画期的な新薬を開発した会社は、莫大な利益を得ることができる。私が医学部に入った頃からの画期的な薬といえば、薬でほとんど治らなかった胃潰瘍を治すことができるタガメットという薬(今では一般に市販されているガスターが同じ仲間)や、なかなか薬で下げられなかったコレステロールを下げることができるメバロチンなどが印象深い(他にも山程あるが)。もちろん、最近でも画期的な新薬はある。心房細動の時に使うワーファリンという薬があるが、この薬がいろいろ不便なところ、何十年かぶりに代わりに使える新薬が出たし、糖尿病におけるDPP阻害薬という薬も画期的だった。そして糖尿病で次に出るらしい薬もかなり期待が持てそうだ。
ところが今と昔では大きな違いがあることがある。画期的な新薬がほぼ同時期に多くの会社から多剤でるのだ。一つはターゲットさえ分ればコンピューターを駆使して今では短期間で化合物を作ることができる。しかし他社の何かの薬が良さそうだと気付いて開発に取り掛かろうとしたにしては、あまりにも開発期間が短すぎる。
別の例をあげれば、次に出る画期的な糖尿病の新薬は、ある会社が20年程前に開発に乗り出して治験までやって失敗している。それに気付いて他社が開発していれば、程々の期間でポツポツ製品化されていたはずだ。しかしながらこの薬は今年多剤が次々発売される。(そのある会社では、それに関する研究開発員が別の製薬会社に転職したらしい)

薬は開発すればすぐに売りに出せるわけではない。治験をおこなって効果や安全性を確認しなくてはならない。これにはものすごい長い期間と莫大なお金がかかる。そしてこれは年々厳しくなっており、そのため余計にお金がかかるのだ。治験してみて、その薬が発売にこぎつけなければ、それなりに大きな企業が簡単に潰れるとも言われている。ジェネリックの価格が本当の意味で割安なのかということは、この見地からも疑問が大きいだろう。一方、治験に耐えるために、製薬企業を合併させて大所帯にするという話があり、実際に日本でも再編成が度々おこなわれているわけだが、独占寡占状態の悪化を生み、消費者の不利益にも繋がりかねない。自由にまかせたり、とにかく安価にするという方針で薬に関する政策をおこなえば、適切な状態から程遠くなるだろう。

多剤が同時にでることは、価格競争の面からは望ましいという面もある。しかしそれが常に少数開発よりもよいことであると考えることは、需要と供給の法則の過剰評価だ。それぞれに関して治験がおこなわれるため、その一群の薬のための治験費用の合計は高くなるだろう。競争で、薬の利益が縮小されても、そのコスト分の価格転嫁がそれを上回る可能性がある。また、そもそも少ない販売数でも同等の利益を各社が求めてくる可能性だってあり、利益の縮小があるかどうかもあやしい。

国として、薬の開発に対してどう対応していくか。なかなか一筋縄ではいかないだろうが、いろいろな案はある。しかしながら問題は、厚労省のそのセクションの人手と予算の圧倒的な不足だ。世の中を見れば、公務員を減らせとか、公務員の給与を削れとか、省庁の事業を仕分けしろとか、木を見て森を見ていない意見が蔓延している。必要な仕事に対し、必要なだけ人を雇って、適切な対価を払うことは、世の中が人手不足、供給力不足で困っているわけでない限り(もちろんそれには程遠い状況である)、どれだけ財政収支が悪かろうが問題はないのだ。お金は、回っていくものであって、消えてなくなるものではない。一部の天下りのような、1の仕事に対して10の対価を得るようなことにならなければよいだけである。